少年少女の現在と、これからの光


 レンが出会ったことのある人達の過去が、断片的に流れこんできた。

 皇国最悪の十年。

 死屍累々の原因となった人々と、それを解決しようとした人々の動きこそが、目の前の少女が抱える罪だった。

 奴隷少女がゆるしの秘蹟を砕いてから、罪の記憶がレンへと流入する時間は一瞬だけだった。


「『私』は学ばなければならなかった」


 紫の髪をした少女が、意識を取り戻したレンに告げる。


「本来ならば皇帝の地位に就く前に、常世の皇国で歴代皇帝の記憶と歴史を受け取らなければならなかった。そうして初めて皇帝は『皇帝』足り得た。民の意思を受け取る義務すら怠った愚王が『私』、フーユラシアート・ハーバリア四世に成りすました、名前のない小娘」


 改めて正体を語る少女を前にして、レンは凍りついてしまった。

 彼になにが言えるのか。

 だってレンはあの時代、なにもできなかったのだ。

 最後の皇帝たる彼女の軌跡に欠片も登場しなかった通り、本当に、皇国最悪の十年でなにもできなかった。ただ生きるだけの少年だった。親に生かされただけの子供だった。死ななかっただけの民だった。


「……バカ兄との記憶が少なかったのは、ごめんね。私が誰かっていうこととは関係ないし……そればっかりは、あんまり見せたく、なかったから」


 彼女とイチキ、そして兄の三人が過ごしたのは語る必要すらないなんでもない日常だ。

 たった二カ月あまりの黄金の日々。

 彼女と、イチキだけが知ってればいい記憶なのだ。


「……バカ兄はね、私に初めて『与えて』くれた人だったの。対話を、家族を、心をくれた。そうしてはじめて、『私』は私になれた」

「……」


 はじめて、ちゃんと会話をしてくれた。同じ視線で目を合わせて、意思を尊重して自由を教えてくれた。

 大切な人というものをはじめて得て、それを奪われた。そうすることで、ようやく彼女は民の痛みを思い知った。

 自分がなにを言えばいいのか、レンにはまったくわからなかった。

 彼女の真実を知って、むしろ距離が遠くなった。

 声をかけることすら、憚れるほどに。


「……だから、もう、いいの」


 話をまとめるために吐き出された声は、ひどく寒々しかった。


「……あなたみたいな人が、私に情を向けるのは……もったいなすぎるから。はやく、他の人に向けて……幸せに、してあげて」


 レンはとっさに手を伸ばした。なにかを諦めている彼女を引き止めるために肩に手を置いて、勢いだけでもいいからとにかくなにかを言おうとした。

 けれどもその途中で腕がびくりと震えた。

 レンの指先が、彼女の紫の髪にかすったのだ。

 至高の、紫。

 その色は、皇帝が消えてもなお、皇国の民だった人間にとって触れることすらためらわれる畏敬の対象だ。


「ッ!」


 熱いものに触れたかのように、レンは反射的に手を引く。その拍子にひらりと一本、紫の髪の毛が宙に舞う。

 少女が地面に落ちていく自分の髪の毛を目で追った。

 不意に視線を上げた少女の瞳が、自分のしでかした動作に愕然としているレンを捉える。

 少女は寂しげな笑みをたたえて、一言。


「……ね?」


 あまりにも雄弁で、なにひとつ言い返す余地のない一文字だった。

 少女は一歩も動いていない。遠くなった距離は、彼女が生んだものではない。

 手の届かない隔たりは、いま、レンが自ら引いたぶんだけあった。

 少女が首輪をはめ直す。紫だった髪の色が抜けて、美しい銀の輝きになる。

 彼女はくるりと踵を返し、レンに背中を向けた。


「……ばいばい、レンの助」


 皇帝だった少女は、振り返ることなく立ち去った。








 知られざる歴史を知ったレンは、公園広場で立ち尽くしていた。

 なぜ。

 どうして。

 なんであの時、自分は手を引っこめた。

 いいや、わかっている。なぜか。そんなこと、自問するまでもなくわかってる。

 自分は、ビビったのだ。

 奴隷少女の正体を見て、知って、生まれも育ちも平凡の自分と、生まれも育ちも超然とした彼女を比べて、ビビった。

 彼女のことを尊敬している凄い人だかわいい少女だ好きな相手だとさんざん言っておきながら、いざ彼女の領域に一歩踏み出す機会を提示されて、情けなくもビビり倒した。

 触れることを畏れ、対話の声も出せなくなるほど。

 どんな理由であれ、彼女は自分の内面を晒してくれた。それをレンは前々から求めたはずなのに、いざ知った段階で受けとめきれなかった。

 それが、あの子を傷つけることくらい、わかっていたのに。


「……くそ、くそっ、俺の、クソぉッ!」


 血がにじむほどに唇を噛んで、骨が軋むほどに拳を握り体を震わせる。

 かつてないほど、自分への怒りが湧き上がる。

 なるほど自分はヘタレだ。ビビりだ。勇気が足りてないことくらい知っていた。

 だがさっきのは、そういう問題ですらない。


「クソッタレかよ、俺ッ。なんなんだよッ、お前さぁ! あの子が皇帝だって知っただけで、あの子になにもできなくなるのかよっ。そんな軽い覚悟と言葉で、あの子に告白したのかよ……!」


 いままで、なんて軽い言葉を吐いていたのか。

 もしかしてと思っていながら、覚悟を固めていなかった。ためらったあの瞬間にレンは『自分は内面よりも立場で人を判断する男です』と実証してしまったのだ。


「そんな程度なら、客の立場から一歩も踏み込むんじゃねえよっ、このチキン野郎がッ!!」


 ゴンッ、と強く拳を額に叩きつける。

 涙がにじんだ。痛みではない。悔しさと情けなさで視界が歪む。

 言い訳は効かない。態度で示してしまったから。告白の撤回もできない。記憶に残った言葉は消しされないから。

 前に、奴隷少女ちゃんは言った。


『対価のない言葉は、軽い。だから、きっと人に届かない』


 と。

 まったくもってその通りで、レンが奴隷少女ちゃんに向かって放った言葉はすべて、あまりにも軽々しかった。

 だから本当の意味で、彼女に届いた言葉はない。

 事実として、彼女はいまだって、過去の自分の罪を抱えて放さそうとしていない。


「そんなことにも気がついてない分際がさぁ……! どの口利いてやがったんだよ、ちくしょうがッ」


 自分への罵詈雑言が心の中で吹き荒れる。ごす、ごすっ、と何度も自分で自分の額を殴りつける。少しでも自分を痛めつけなければ、己の情けなさを許せなかった。


「考えろ、考えろ、考えろよ俺の脳みそ」


 告白がどうの、好きがどうのという資格なんて、自分には、もう、ない。

 考えるべきことは、ただ一つ。

 レンという人間が、あの少女のためになにができるか、考えるのだ。

 自分がどうすれば、彼女のためになれるのか。どうしたら、彼女は自分のために生きてくれるのか。

 過去を抱えて自分を否定する彼女のために、自分はなにができるのか。

 レンは自意識を捨て去って思考する。


「……あった」


 自分の全部を条件に並べて記憶をさらって、思いつくことがあった。レンにもできることが、確かにあった。

 全部だ。出し惜しみはしない。自分ができる、全部を賭ける。この都市に来て得たもの全部を使い切れば、できる。

 そうすれば、届く。

 いまの彼女だけではない。

 『皇帝』の過去にすら、だ。


「やれる、か? いや……ははっ。やるんだよ。だって、いまの俺は、あの子がいなきゃなかった俺だ」


 達成にまで立ちふさがる困難の数々すら『できる』という可能性を見つけた歓喜に敵わない。

 レンはいっそ清々しい狂気的な笑みを浮かべる。


「皇帝、聖剣、勇者……はっ、上等だ。俺がなんのために、この都市に来たと思ってるんだよ」


 あえて強い言葉を使って自分を鼓舞する。

 腹はくくった。今度こそ、上っ面の好きなどではない。彼女の本当を知って、レンの全身全霊を費やして行う事業を興す。


「やってやる。俺が、歴史を変えてやるよ……! だから、待ってろよ」


 喜びはない。自分で自分のことを好きだなんて、思えていない。

 礼賛からは程遠い、粘り着くような自己嫌悪を全身に貼り付けながら、それでも全霊で前進する目的を定めた。

 この発想を実行するために、自分はこの都市に来て、奴隷少女ちゃんと出会ったのだと。

 そのために自分が生まれたのだと、たしかに思えた。

 だからいまのレンは、胸を張って言い切れる。


「これからが、俺のはじまりだ」


 まず動かすのは、あの人からだ。

 ちらりと地面に目をやり、そこに落ちていたものを確認。迷いなくレンが足を向けた先には、人々の信仰を集めてダンジョンを管理する教会があった。












 夜更け。

 誰もいない公園に、不意に人影が現れた。

 公園のわずかに照らす灯りにさらされるのは、一分の隙もなく着こなした修道服に聖書の詰まった箱を背負っている女性。『聖女』イーズ・アンである。

 彼女は公園広場の出入り口から入ったわけではなく、地面から湧くように出現した。

 常と変わらぬ鉄面皮のまま、じいっと地面を見詰めている。

 不意に彼女がしゃがみ込む。砂のまかれた地面。そこで何かを拾う仕草をする。

 彼女がつまみあげたのは、一本の髪だ。

 公園広場は多くの人が利用する公共の場だ。髪の毛ぐらい、いくらでも落ちていておかしくはない。

 だがイーズ・アンの指がつまんだ細い髪の毛は、人の体毛ではありえない色をしていた。

 紫。

 この世に紫の髪を持つ人間は、たったの一人しか存在しない。


「……」


 イーズ・アンの手に光が宿る。

 魔を滅する浄化の光だ。

 彼女の行使する浄化の光は圧倒的な力を誇る。人類最高峰と言っていいイチキが丹誠込めて作り上げた祭具結界ですら抵抗なく食い破る威力は超然たるものだ。

 だというのに、無言のまま行使された秘蹟の光に包まれながら、紫の髪は浄化されない。浄化の光の対象ではないから、ではない。

 たった一本の髪の毛が、イーズ・アンの強力無比な浄化の光に対抗しているのだ。

 ぐっとイーズ・アンの指に力がこもる。


「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神のおられる膝元に、主の威を借りたし者どもは、禍ひ穢れる王になり、見まつる人の悪こそは、あまねく灯に照らされて、清められりと手を携え、我らは互いに呼びにける。聖なるかな、聖なるかな、我らが主は聖なるかな」


 唱えられたのは、かつてないほど長大な聖句だ。殷々たる響きにともない、灯った浄化の光が増大する。増大して、視界を白く染めるような極光となって公園広場を満たす。

 突如として街中で生まれた光は中心点が直視できないほど眩く、周辺を真昼にするほど明るい。

 昼夜の逆転現象に辺りの住民が騒ぎ出す。なんだなんだと人が集まる頃、ようやく光が収まった。

 魔を滅する光に、一本の髪はなんの影響も受けていなかった。


「……」


 髪から指を放したイーズ・アンはゆらりと立ち上がる。

 抜け落ちた一本の髪の毛が『聖女』の秘蹟に耐え抜いた。髪の毛の一本すら、浄化することができなかった。

 もし、この髪を持つ人間がいれば、どうなるのか。

 それはどれほどの力を持つ人間なのか。そしてなにより、イーズ・アンの力に耐え抜いた髪の色が、なにを意味するのか。


「やはり――」


 彼女の能面に変化はない。怒りも、絶望も、恐怖もない。

 信仰に基づき、やるべきことと必要なものを導き出していた。


「――勇者が、必要である」


 皇国の崩壊より生まれた聖人が、彼女が生まれる遠因となった存在の欠片を見つけた。


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