ぜんこうていの過去・1
皇国崩壊の発端を知る者は、ほとんどいない。
それは、革命が起こるおおよそ十年前の出来事。その時点でハーバリア皇国が遠からず滅びることは決まっていた。
永遠の国家などない。生まれ落ちた人がいつかは必ず死ぬように、興った国も必ず滅びる。ハーバリア皇国をむしばむ財政難と言う病理は二世代前から続いており、根本的な解決は不可能なところまできていた。
皇国を最悪な結末に導いたのは、一人の男だった。
皇帝には、代々専属の伝令官が侍る。それは皇帝の声が抑えようもない力を持つ玉音の響きを有するからだ。直言がそのまま絶大な強制力を持つ。すなわち、発した言葉のすべてが勅命となるのがハーバリア皇帝だ。
必ず人を従える強大無比な声の持ち主であるからこそ、皇帝は臣下とすら治世の議論をすることもままならないという致命的な欠点がある。
そのために、皇帝の傍には伝令官が控えるようになっている。前もって玉音で『皇帝の言葉を伝える』だけの役目をつかさどっているのだ。
一族で代々、王の代弁者を務めている彼らは、十七代目にとうとう玉音に抗する力を身に宿した。
先祖から続き、子孫に引き継がれた滅私の献身と奉仕の精神。それらが彼らの体に奇跡の一端を宿した。今代に至って、現世に響く『玉音』に限れば、まったく効果がないものが現れたのだ。
それを吉兆と喜んだのは当代の皇帝、フーユラシアート・ハーバリア四世である。
なにせ皇帝として生まれた者は、普段の生活で声を発することすらはばかっている。他人とたわいのないコミュニケーションをとることすら不可能だ。
成熟すればそれが己の天命だと諦めもつくが、フーユラシアート四世には幼い娘がいた。
先天の秘蹟を継いだ娘と、言葉を交わせる相手がいる。その事実こそが喜ばしい慶事であるとしたのだ。
だからこそ、期待を寄せた伝令官がしでかしたことへの失望も大きかった。
「申し開きが、あるか」
「……っ」
皇帝の前に召喚された男が、びくりと震える。
彼こそが、伝令官の一族の中でも歴代で唯一、玉音への耐性を得た者だった。
稀有な力をもって生まれ落ちた彼へ、四十近いとは信じられないほど美しい皇帝が、神秘のウィスパーボイスで問いかける。
「なぜ、伝える言葉を偽った」
皇帝は伝令官を中継して言葉を臣下に伝える。当然、皇帝の耳に入る臣下の言葉も伝令官から届けられるようになっている。その決まりに問題が起こったことはなかった。
歴代の伝令官は玉音によって意思を奪われていたからだ。
だからこそ歴代の伝令官が届ける言葉に伝令官の主観が入ることはなく、皇帝の意思は滞りなく臣下に伝わった。
だが、玉音への抵抗力を得た彼は違った。
彼は伝えるべき皇帝の言葉を改ざんし、自らが考案した施策を推し進めようと画策したのだ。
「恐れながら、陛下……!」
妙齢の皇帝の口から放たれる、ささやくようなウィスパーボイス。小さくとも、確かに届く至高の声を耳にしても己の意思を保ったままの伝令官が、決死の声を振り絞る。
「いまのままの体制では、皇国は滅びます」
「……」
皇帝は返答しなかった。
伝令官が訴えたことが、単なる事実だと承知していたからだ。
ハーバリア皇国は先代、先々代が愚王だった。彼らの放蕩で国庫の財政が崩壊しかけている。今代で立て直そうとしているが、二代続いた借財の膨張をとどめることすらできていない。
皇帝の傍に仕える伝令官は、多くの政務の事情が耳に入る位置にいる。皇国の情勢を見聞きした彼が、遠からずこの国は亡びるというのならば、その通りなのだろう。
「国を立て直すには、統制が必要ですっ。国力を高め、内需を発展させるためには、強い統制が必要なのです!」
訴える彼の目には、必死さがあった。
私欲だけではない。功名心だけではない。皇帝に対する確かな忠誠心と、何よりも愛国の心がある。
先代、先々代と浪費し続けた時間と財産を今代で取り戻し、かつては西方諸国を支配していたハーバリア皇国の国力を取り戻してみせたいという意思だ。
「確かに、民衆の統制は困難を極めます。中央集権には諸侯の反発も激烈なものとなるでしょう。しかし、この国にはあなた様がいらっしゃいます!」
彼の弁舌の熱は、危うい温度だった。沸騰して、人を傷つけかねない熱さをはらんでいる。
彼が諸外国では不可能であろう、絶対的な統制を可能だと判断した理由。それは他でもなくこの国がハーバリア皇国であり、頂点たる玉座に絶対の皇帝が座っているからだ。
「陛下の玉音があれば、国内には抵抗勢力がいないも同然の――」
「もういい」
伝令官の熱い訴えを、冷ややかなウィスパーボイスが遮った。
革新が必要だというのは彼の言う通りだ。いままで通りでは、国の延命すらままならない。
しかし伝令官が己の役目を偽ってまで推進しようとした政策は、革新的だがあまりにも人間というものをないがしろにしていた。
「お前の献策には、人の熱がない」
「は? それは、どういう――」
「人に対する信頼がない。人に対する不信がない。人に対する興味を感じない。王が述べればその通りに貴族が動いて方策を整え、貴族が命じれば代官と役人は怠けることなく仕事をこなし、統治者が布いた法に民衆が諾々と寄り添うという考えしかない。総じて、人に対する理解がない」
絶対の声を持つ彼女は、王としての考えを美しいささやき声で滔々と述べる。
「私の声に慣れたお前は忘れているのかもしれないが、人は命令されたところで他人の思う通りには動かない。人は自分が生きたいように生きる。よくも、悪くも、人は他人の言う通りになど、決してならない。お前が私の言葉をただ伝えるという職務すら、こなさなかったように」
責めるでなく、たしなめるのでもない。ただただ事実を語る。
「そしてそれは罪ですらない。人が人である限り当然のことであり、他人の声に従うという状態こそが人として不自由であり、不自然なのだ」
ハーバリア皇国の玉座に座る女性は、紫紺の髪を揺らして首を傾ける。
「伝令官の役割を放棄し、言葉の無意味さを体現した貴様が、献策の果てに私の玉音頼みか?」
「そ、それは――」
「私の玉音に頼るということは、すなわち民を理解する努力の放棄であり、貴族と結んだ信頼の破棄であり、皇国の統治機能の無能さを露呈することとなる。それをすればこの国はその瞬間、国である意味を失う」
もはや抗弁すら言わせなかった。
皇帝たる彼女は、王たる威信を以って手厳しく伝令官の考えを評価する。
「『皇国よ、永遠なれ』。わが身に宿る『玉音』とは本来、民より願われた国の在り方であるこの一行が全てだ。民が望み、王がいる。我らが西の『皇帝』だけでない。東の『天帝』、南の『ファラオ』、北の『アウグストゥス』。この星の歴史において、王権神授の神権にて唯一無二なる神秘領域を作り出したのは、束ねる王個人ではなくその国に生きた歴代の民の総意である。だからこそ、支える民を失った彼らの神権は、絶えて久しい」
この星の歴史で、王権によって先天の秘蹟を得たのは彼女が告げた四つの血筋だけだ。この四つの先天の秘蹟は『勇者』と『魔王』に次ぐ絶大な権能を得ておきながらも、ほとんどが滅びた。現代まで残っているのはハーバリア皇国の『皇帝』のみである。
彼らの不在こそが、先天の秘蹟は絶大であれ絶対ではないことの証明だ。
だからこそ『皇帝』は誰よりも自分の言葉の重さを知っていた。
「人を機能するだけの虫に貶めて、どうするのだ」
「なっ……」
あまりのいいように、伝令官は絶句する。
そういうことではないのだ。彼が述べた献策に、そんな気持ちなどない。心の底から、愛国より生まれた国をよくするための施策だ。
伝令官は自分の考えが皇帝に誤解されていると声を張る。
「そのような考えはありません。よりよく生きるために、考え抜いたものですッ。国さえよくなれば、住まう人は豊かに生きることができるのです! 一時、人を従えることさえできれば必ず彼らを幸福にできます!!」
「お前の言っていることは正しい」
皇帝のウィスパーボイスが、伝令官の主張は的を射ていると肯定する。彼が真実、国富を目指していることは彼女も認めるところだ。
彼の頭には理想がある。理想通りにいけば、理想の国家ができると信じている。理想の国に住む民は幸福だと疑っていない。多くの幸福を実現する過程で玉音を振るって欲しいと訴えている。
理想国家(ユートピア)をつくるために、民を一声で従える玉音があるのだと確信すらこもった口ぶりだった。
だから彼女は、彼の勘違いを否定する。
「正しいからこそ、その通りにならない」
皇国を理想国家とするために、玉音があるのではない。
順序が逆だ。
民が集まり、国ができ、歴史が築かれてから先天の秘蹟は生まれた。
神権授与の君主であり、先天の秘蹟を持つ『皇帝』は唯一無二の秘蹟ができる絡繰りを体感的に把握している。
「勘違いするな。この国は、あるがままにあるのだ」
都市には必ず、迷宮が生まれる。集った人々の感情と魔力が結び合うことで、摩訶不思議な異界ができ、良い感情は恩寵となり、悪感情は魔物となって徘徊する。
魔術は人の観測した事実を積み重ねた無意識領域と魔力が結び合うことでできた。思想と知識という人類がいなければ生まれ得なかった概念の蓄積が、そのまま人の操る力と変わった。
その二つの中間に、先天の秘蹟はある。
国の歴史という再現不能なほど規模が大きな積み重ねに、民というあまりに多くの人々の魔力をたった一人の人物に注ぐことで、神権授与は成立する。
『国』という規模――特に、民の数が億を超えるほどの大国が、たった一人の頂点を依代にした時に生まれる特異な迷宮にして魔術でも奇跡でもあるのが、先天の秘蹟の正体だ。
だから『皇帝』は、本質的には民に逆らえない存在だ。
「諦めろ。言を尽くそうと、私が承服することはない」
ダンジョンが都市情勢に沿うように、皇帝も国家情勢に沿わねばならない。積み重なった血脈。そして人々の思いが、神権の恩寵として彼女に宿ったのだ。
国の頂点にいる彼女は、民の意思こそないがしろにすることは許されない。皇帝に宿る『玉音』は王個人への奇跡などでは断じてない。
皇帝こそが、民の奴隷。
国民が支配されることを望み、崇めることを条件にして皇帝に轡を嵌めて初めて世界に存在を許された、唯一無二だ。
民が滅べと願うのならば、滅ぶべきが自分の役割なのだ。
民が不幸になろうとも、国の衰退を見過ごしてでも、玉音の持ち主は民の願いの代弁者でなければならない。先代、先々代とて『王は豪華絢爛である』という民意があってなされた放漫だ。
そんな時代も先代の崩御とともに終わった。十七代目の皇帝である彼女にできることは、できるだけしめやかに国の終わりに幕を引くのみだ。
「下がれ。追って、沙汰を下す」
ウィスパーボイスの威厳は、伝令官を下がらせるものだった。
この結末に、皇帝である彼女個人としては落胆していた。
正直言えば、彼との会話が楽しかった。
『皇帝』は生まれながら、他人と会話を通じさせることができない。言葉が通じる人間というのが、どれだけ得難いものなのか。フーユラシアート四世は痛感している。
だから一人娘の彼女の話し相手として、彼を教育係として付けたのだから。
その結果が、先走った理想を暴走させ、皇帝たる自分の言葉を偽ってまで政策を進めようしたとは、無念だ。
ため息をつこうとして、ふと気がつく。
「む?」
下がれ、と言ったのに彼はまだそこにいた。
「なぜ……」
退出しないのか。どうした、と尋ねようとした時だった。
伝令官が懐から短剣を取り出した。彼は血走った瞳で短剣を振り上げ、フーユラシアート四世の喉に突き立てた。
「――ッ!?」
痛みより先に、驚きがあった。
先天の奇蹟を身に宿そうと、絶大なる皇帝であろうと、彼女の肉体はただの人の強度と変わりない。
ましてや喉を刺されては、声が出せない。
ごぽり、と血を吐き出した。体から力が抜け、床に崩れ落ちる。
伏した彼女を、伝令官は悲壮な瞳で見下ろした。
「なぜ、そのお力があって、諦めるのです……!」
声を震わせる彼の言葉は、死にゆく彼女の耳には入らなかった。末期にフーユラシアート四世の脳裏を埋め尽くしたのは、娘への危惧だけだ。
自分が死んだら、次はまだ幼い娘だ。まだ十にもならない娘は、先天の秘蹟こそ生まれ持っているが、真の意味で皇帝になっていない。
王権神授の儀が、まだなっていない。
そこに『玉音』の効かない伝令官が侍れば、どうなるのか。
「ぁっ、……ッヅ」
それは、許容できない。娘のために、民のために、この国に住まうすべての人間のために。
だが、声が出なかった。
言葉が発せられなけば、玉音は発動しない。
「私は、この国を救うことを諦めはしません……!」
全身を震わせる男の決意を最後に耳にして。
あまりにもあっさりと、フーユラシアート・ハーバリア四世は逝去した。
皇帝の死体がある。
それを見下ろすのは、ひとりの男だ。
一つの死体とひとりの男がいる部屋に、ぞろぞろと数人の男が入ってきた。明らかに堅気ではない雰囲気を纏っている。
その中の一人が、ちらりと血に沈む女性の死体に一瞥をくれる。
「これが皇帝サマの死体か。こうなっちまったら、そこらの死体と変わんねえな。……おら、てめえら。さっさと片づけるぞ」
興味もなさそうに呟いたのは、筋骨隆々たる小男だ。成人男性の割に身長は低いが、鍛え上げた肉体と威圧感が彼を大きく見せていた。
彼は一緒に入ってきた男たちに指示を出し、皇帝の死体の処理を始める。
「ま、穏当に終わるとも思えなかったから、案の定だわな」
「……貴様は、ボルケーノだったか。そのご遺体は、丁重に扱え」
「へいへい」
伝令官の言葉に、小男は肩をすくめる。
男たちはある都市を根城とするマフィア、カーベルファミリーの一派だった。そこのファーザーが伝令官の資金提供者だ。彼が政界で立ち回るためのコネクションと金を必要としていたとき、どこからともなく聞きつけ接触してきた裏社会の住人である。
ここへ招く手引きも伝令官がした。皇帝の召喚要請を受けた時点で、彼は話し合いが決裂した時の覚悟を決めていた。
伝令官はきつく目を閉じ、哀悼に浸る。
「陛下。私は、決して止まりません」
黙祷を捧げた伝令官は死体の処理をボルケーノたちに一任し、とある場所へと足を向けた。
本来ならば、王宮では皇帝の安全は確立されている。
具体的にいえば、皇帝に直接かかわる人間は、すべて玉音にて害意を抱けないようになっているのだ。警護の人間から料理人、王宮に招かれる客人に至るまで玉音を聞かされる決まりがあった。暗殺者を滑り込ませようにも、そこにたどり着くまでに玉音の支配下に置かれないのは不可能だといってもいい。
だからこそ、十七代まで続いているハーバリア皇家の中に暗殺された人間はいなかった。
だが彼には玉音が通じない。
だからこそ、裏社会の住人のような不忠者を招けた。誰もが予想だにしなかった皇帝暗殺をやってのけた。
なにより強みなのは、彼が玉音への耐性を持つことは、ごく一部を除いて知られてはいないことだ。
皇帝の権威に傷をつけかねないギフトだからこそ、伝令官の耐性は秘されていた。だからこそ伝令官が皇帝に逆らえることを知るものは、皆無に近い。
それを知る皇帝は、いなくなった。
伝令官は足を進める。己の大逆を覆い隠すための最後の一手がいる場所へと向かう。
誰も知らないうちに、いまの皇帝を入れ替える。
皇帝が皇帝たる証明は、玉音のあるなしだ。皇帝に直言が叶うのは、伝令官のみである。やりようによっては、皇帝の姿を完全に表舞台に立たせないことも可能だ。
「失礼いたします、殿下」
彼は王宮の一角にある部屋に入室した。
そこにいるのは、一人の少女だ。まだ幼い、八歳の女の子である。
「残念なことをご報告しなければなりません。陛下は病に倒れられました」
「……そう、なの?」
母が死んだと言われて娘の彼女の反応が薄いのは、薄情だからではない。少女が物心ついた後には親子の交流が存在しなかったせいだ。
玉音同士がぶつかるという矛盾を発生させないため、意思ある言葉を紡げるようになってから、少女は母親の顔すら見ることはなかった。
「次の皇帝はあなた様です、殿下」
「こーてい?」
紫色の髪を伸ばした少女は、きょとんとする。極端に他人との交流が少ないこの少女は、人が嘘を吐くということすら知らない。
「……こーていって、なにをすればいいの?」
「ただ、頷いてくださればいいのです。殿下……いえ。陛下は、ただそれだけでよろしいのです」
「……ふうん。かんたんだね」
「はい。難しいことなどございません。万事、わたくしが取り計らいます」
紫の髪を持つ少女の耳に、そう吹き込んだものの存在など、宮廷の誰一人として知らない。
奸計を吹き込まれた少女も彼の言葉を疑わない。
「……うん、わかった」
「では即位の時のお名前を考えましょう」
「……なんでも、いいよ」
「ではフーユラシアート、などはいかがでしょうか」
「……うん」
少女はそれが母の名前を騙ることだとすら、知らなかった。
そこにいた幼子は、ただ、知らなかっただけだ。
知らないがゆえに、彼女は言われるがまま玉音を振るった。
少女はひとりを除き誰にも知られぬまま前皇帝の玉座に座りながらも、奴隷のように玉音を振るい続けた。
三年後。
国は、みじめなほどに傾いた。
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