大きな恋の全肯定
レンはその日、イチキに呼び出されていた。
手紙の小鳥による連絡である。用件は記されておらず、近い日に会いたいということだったのですぐに返信を飛ばした。先に待っていたイチキは、レンの顔を見ると深々と頭を下げた。
「本日はお呼びだてして申し訳ありません」
「いやいや、いいって。気軽に呼びだしてよ」
低姿勢な彼女の態度に、慌てて頭をあげてもらう。
イチキの丁重さにレンはいまだにちょっと慣れていなかった。
ミュリナ相手だと口調は変わらずとも気軽に話している雰囲気があるのだが、レンと話すときは一枚なにか被ったような丁寧さなのだ。
他人行儀さが、レンにはよそよそしく感じられる。距離があるのだ。せっかくの同世代なのだ。性別の違いはあれど、あと一歩心の距離を詰めて、もう少しフランクに接してくれてもいいのになと思いながらも問いかける。
「それで、今日はどうしたの?」
「他でもございません。全肯定奴隷少女、という商売をされている方をご存知ですよね」
「奴隷少女ちゃんのこと?」
思わぬ話題だ。これは共通の話で仲良くなれるチャンスかもと、レンの声が自然と弾む。
「イチキちゃんも知ってるんだ。すっごい子だよね、奴隷少女ちゃんは」
「はい。わたくしがもっとも尊敬する方です。何よりも、わたくしはあの方の妹でございまして」
「ええ!?」
レンの喉から驚きが漏れ出た。もしかして同じ常連なのだろうかという予測を上回った。まじまじとイチキの顔を見てしまう。
顔つきも、髪の色も、イチキと奴隷少女ちゃんの共通点はない。
それでもイチキが妹だというなら、間違いないのだろう。彼女が無用な嘘をいう人物でないことはレンだって知っている。
「実は少し小耳に挟んだのですが、レンさまは、その方のことがお好きなのですよね」
「う、うん」
「やはり。よかったです」
少し恥ずかしいが、隠すようなことでもない。素直に頷くと、イチキは笑顔で上品に両手を合わせて驚くべきことを語った。
「わたくし、実はお二人が両想いなのを知っております」
イチキは、こっそりと公園広場を覗き見ていた。
視線の先には、いつも通りの服装で看板を掲げた姉と、その前に立っているレンとの二人がいる。
奴隷少女ちゃんが、レンのことを好いている。
いきなり明かされた情報にレンは大いに戸惑っていた。だがイチキが強く説得した。ミュリナという強大な恋敵がいる中、姉の恋愛成就のためにとレンに発破をかけた結果、彼は告白に踏み切ることになったのだ。
堂々とした立ち姿には程遠い。目が泳いでいる。緊張からの手汗がひどいのか、しきりにズボンの裾に掌を押しつけている。
「奴隷少女ちゃん」
普段ならば、レンはいつもここで奴隷少女ちゃんに千リンを渡している。
だが今日は千リンを支払わずにレンから口を開いた。
「前も言ったけど、俺は君のことが好きだ。初めて全肯定をしてもらった日、全肯定でも全否定でもない君の言葉が、いまも俺の足を進めてくれてるんだ」
しゃべることで勢いがついたのだろう。レンはじょじょになめらかに自分の想いを語る。
「俺は、やっぱりまだ君のことを詳しくは知らない。それでも君と一緒に、歩きたい。その想いは、やっぱり変わらないんだ」
真摯な告白だった。話しぶりに感情が乗っている。隠れて聞き耳を立てていたイチキの胸が、ずきりと痛んだ。
あそこに立っているのが、自分だったら。
そう思ってしまう心に気がついて、イチキは思わず自分の胸に手を当て、ぎゅっと握りしめてしまう。
小さく、声にならない吐息が漏れた。
見ないふりをしていたものに気がついてしまった。告白の光景を見れば諦めがつく程度と思っていたのに、自分の思いは自分で思っていた以上に大きかった。どうしようもなくダメになることで、想いの大きさをはっきりと自覚してしまう。
レンが、好きなのだ。
「だから、奴隷少女ちゃん」
人には、自分の分際というものがある。
なるほどレンは、イチキはおろかミュリナやリンリーにすら才覚で劣る。能力として見るならば、頼りないにもほどがある少年だ。
でも彼は、いつだって頑張っていた。
凡人の自分を承知して、それでも自分を振り絞って前を進み、殻を破ろうとしている彼が、たまらなく好きなのだ。そういう人がイチキは好きで、手助けしたくて、力になりたくて、愛おしくて、尽くしたかった。
自分は、才能しかない人間だから。
頑張る彼を朝に起こして見送り、昼に彼を思って待ちわびて、夜に笑顔とともに出迎えたかった。
けれどもその役目は、自分が担うことができない。
「君のことを教えて欲しい。俺と一緒に、歩いて欲しい。……返事を、ください」
「……」
イチキの胸が痛む、素敵な告白だった。
無言でレンの告白を聞いていた姉が、看板を下げた。
全肯定の看板を下げた口元は、薄く微笑んでいる。全肯定でもなく、全否定でもなく、イチキのよく知る姉の素の表情だ。
「……ありがとう。君が悪い子じゃないのは知ってるし、頑張っているのも知ってる。あの時は、君がどんな子か……よくは、知らなかった」
イチキもだ。
兄に似た人と聞いて、興味をもっただけだった。小娘のような憧れと夢想をごたまぜにした思いだった。
彼と一緒に冒険をして、彼の弱さと強くなろうと歩む眩しさを知って、好きになっていた。
「……確かに私は、君の事が嫌いじゃないよ」
きっと、姉も自分のように想いを募らせたんだろうな、とイチキは悲恋悲哀の吐息をこぼし、
「……でも嫌いじゃないだけで、私、レンの助のことなんて、好きでもなんでもないから」
目を、丸くした。
ほえ、イチキらしからぬ間抜けな形に口が開かれる。頭が混乱する。なぜ、という疑問符でいっぱいになり、彼女の明晰な頭脳が一時的に真っ白になった。
「……だから、ごめんなさい。私は君とは、付き合えない。ううん。誰とも……付き合えない」
その間にも、奴隷少女ちゃんは容赦なく断り文句を並べていく。
「……お客さんとしては歓迎するから。踏ん切りがついた頃に、また来てね」
ぺこり、と姉が頭を下げる。それ以上は何も言わない。看板を口元に戻し、楚々とした笑顔を浮かべる。全肯定のお仕事中なのだ。
イチキの視線の先で、レンが膝から崩れ落ちた。どうやらショックのあまり、放心状態で体を支えることもできなくなったらしい。
告白され、断ることに慣れている奴隷少女ちゃんは「たまにああなる人もいるなぁ」と思いながらも放置プレイを実行した。
やがて立ち上がる気力を取り戻したレンが、とぼとぼと公園を出ていった。
予想外の展開に呆然としていたイチキは、はっと我に帰る。慌てて公園を出て行ったレンを追いかけ彼のもとへと駆け寄った。
「れ、レンさま……いえ、その! わたくし、なにかとんでもない勘違いをしていたようで……!」
さすがにあれを見れば、イチキは自分の勘違いに気がついていた。
姉は、レンのことが好きではなかったのだ。イチキの思い込みで、レンには手ひどい大迷惑をかけてしまった。
「……いや、いいよ。うん。正直言うと、うすうすこうなるかなって思ってた」
なんと声をかけたらいいものか。口ごもるイチキに、レンは自嘲気味に笑う。実際レンは都合がよすぎるなーとイチキの勘違いに気がつきつつも、すがらずにはいられなかったのだ。
そしてフラれた。
ある意味、妥当な展開である。
「で、でも、どのようにお詫びすれば……!」
「いいっていいって。イチキちゃんのせいじゃないよ。どうせ、ちゃんと告白しなきゃとは思ってたし」
おろおろとするイチキに、レンは力なく笑ってベンチに腰掛けた。
実際、少し前に奴隷少女ちゃんに告白まがいなことをしていたのだ。ちゃんと返事をもらうためにも、いい機会だった。フラれたが、いまのレンには諦めるという選択肢はなかった。
いまのレンの核をつくったのは、奴隷少女ちゃんなのだから。
「そ、そうでございますか。でも、やっぱり、ええっと……」
一方、イチキは鮮やかに移り変わった認識にまだ混乱していた。
姉は、イチキが尊敬し、絶対に守り通そうと誓った姉は、自分が好きな人を好きでは、なかった。
勘違いの思い込みが解消され、混乱が収まると同時にイチキはさっき自覚した大きな恋がまるまる自分の中に残っていることに気が付いたのだ。
いいのだろうか。
申し訳なさと戸惑いと共にじわじわと湧き上がる感情があった。
自分は卑怯者だ。すごく卑怯だ。なくなった胸の痛みに代わって湧き出る感情に、イチキは自分を責める。よくないことだって、いい子でいたい自分が咎める。お前は悪い子だって、ミュリナを応援しろと言う声がある。
でも、いいんだぞって自分の心を推す声が、一番大きかった。
レンを好きでいても、いいのだ。
姉は、無理だ。イチキは絶対に自分より姉を優先してしまう。変わりようもなく、絶対だ。それだけ、イチキにとって兄と姉は大切なのだ。
でも、ミュリナとは、競える。そういう関係でいたい。対等な二人でありたいと、向こうも、そう思ってくれる。
ミュリナとは好きな人が一緒でも、いいのだ。
とくんとくんと胸が高鳴る。小刻みな心臓の音がうるさい。卑怯者、卑怯者。自分を罵るつぶやきを胸中で唱える。何度も何度も立ち止まろうと踏ん張ろうとして、けれども、後ろから追いかける想いに屈して、イチキはとうとう諦めた。
ベンチに座るレンへと、イチキはふらりと一歩、近づいた。
「……レンさま」
「ん? どうしたの?」
レンの名前を呼ぶイチキの口から漏れた息の温度の高さに、彼は気がつかない。
心が、吹っ切れた。いままでにない変化が、イチキの心に訪れた。秘めていた思いが大きかった分だけ、彼女はイチキのまま、一枚纏っていた布をはだけるように変化した。
レンは、さきほどから変わらずベンチに座っている、消沈して、落ち込んでいる。
きゅうん、と胸が締め付けられるような心地がした。弱っているレンを見ると、際限なく甘やかして、抱きしめたくなる気持ちが湧いてくる。慰めてあげたい。傷心の彼の心を癒したい。その傷を埋めて、
他でもない、自分が。
そう思ったから、イチキはベンチに座っている彼の頭にそっと手を伸ばす。接近に気がついて怪訝な顔をしたレンを抱きしめて、距離をゼロにする。びっくりと目を開けた彼の頭を引き寄せ、自分の胸元に彼の頬が当たるのも構わず腕で抱く。
「ふぁ!?」
ぎょっとした声が上がった。イチキの胸元に、レンの頭が抱きかかえられた形なのだ。とっさに後ろにのけぞろうとした彼を、イチキは逃がさない。イチキは知っている。レンは、知り合いの異性を突き飛ばせない。彼は優しいのだ。そういうところも好きだ。
「ちょッ、イチキちゃんっ。この体勢はまず――」
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
レンの訴えを聞こえないふりをして、この体勢の何がいけないんですかと知らないふりをして、イチキは沈痛な声を出す。自分に、レンが触れているのが嬉しかった。自分は、こんないやらしかっただろうか。わからない。別にいいやって思うのだ。
「お詫びのしようもございませんが、わたくしの勘違いの償いは必ずいたします。なんでもおっしゃってください。いまご傷心でしたら、たくさん甘えてくださいませ。今回のお詫びです。本当に申し訳ないと思っているのです。なので、是非とも受け取ってくださいませ」
包み込むような声だった。自分が出したと、自分でも信じられない艶が乗った、人を甘やかす声だった。
レンの耳元に、息を吹き込むように声を送る。レンがゾクリと背筋を震わせたのが分かった。その背筋に、イチキはさりげなくも妖艶に人差し指を滑らせた。
「大丈夫でございます。これでもわたくし、天才でございますから。できないことは、そんなにございません。無理だと思ったことでも口に出して、些細な困りごとでも解決してみせます。姉さまのことだけはどうしようもできませんが……何かあれば、お手紙で密やかにわたくしにお知らせください。誰にも知られず、わたくしだけに」
卑怯な理屈だ。だって、普通に甘えさせようとしてもレンは断るとイチキは承知している。彼は一途だ。頑張り屋だ。しょせん他人のイチキには、自分の弱さを見せたがらない。強くなろうとしているから、弱い自分をさらさない。例外は、彼が本当に強くなると決める前の弱かった彼の頃から彼を知っている人だけだ。
彼がそうやって線引きする距離が、いまのイチキにはたまらなくもどかしい。
でも、距離の詰め方ならばイチキの十八番だ。自分から近づけばいい。自分の思いを押し付けるため、断れない理屈で、断る理由なんてないほどの都合のよさで、レンの耳元で甘くささやく。
「繰り返しますが、ご遠慮なさらないでください。これは、わたくしの失態に対する正当なお詫びなのです」
胸に抱きしめていたレンを解放する。即座に立ち上がって後ろに下がった彼は、かわいいくらい顔を真っ赤にしていた。イチキの豊満な胸の柔らかさを感じられ、耳元で甘い声をささやかれ、てきめんにうろたえていた。
あわあわとなにも言えない彼に、イチキは大輪の花のような笑みを送る。
今日は、ここまで。
これ以上は、ミュリナにきちんと言ってからだ。奉仕の対価をレンに求めるのはミュリナとの決着がついた時にたくさん得られるか、まるきり失うかのどちらかだ。
次に会った時に、『わたくしもレンさまが好きです』と宣戦布告をして、ミュリナを困らせよう。いっぱいいっぱい、戦おう。
だから、大きな恋の戦争が始まる前に、布石を一手、差す。
「レンさまのお望みを、わたくしが全て叶えて見せます。いつでも、どこでも、なんでも――ええ、なんでも、でございます。無理だなんて、申しません」
イチキは、自分の右手を胸元に置く。もちろん、レンの視線が自分の胸に引き寄せられるのを知ってのことだ。そうでなくともイチキ自身、自分の胸が大きいことは承知しているし、なによりレンは先ほどまで頭を抱きしめられたのだ。どんな紳士だって意識する。
だからイチキは、わざとらしくないくらいに指を胸に沈めて形の変わるやわらかさを見せつける。
「レンさまが望むすべてを、なんでも」
レンを刺激するため、女の企みなんておくびに出さずに自分の使えるすべてをレンへと提示して。
「わたくしに申し付けてくださっていいのですよ?」
レンの心をもてあそび、イチキは艶やかに微笑んだ。
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