小さな恋の全否定

「それでは、本日はお暇させていただきます」


 リンリーをレンの腰から引きはがしたイチキは、深々と頭を下げる。

 レンからリンリーが離れたのを確認したミュリナは、すっきりした顔でイチキに手を振った。


「それじゃね、イチキ。――で、レン。ロリコン呼ばわりはさすがに冗談だけど、変に懐かれて調子に乗らないでね? レンってたまに変な方向にスイッチ入るから……」

「いや、大丈夫だって! 俺、あの公園にいる奴隷少女ちゃんのことが好きだって言ったじゃん!」

「それはそれでムカつく」


 二人の会話に、イチキは思わず顔を上げた。まじまじと離れていく二人の背中を見る。


「その奴隷少女ちゃんっていうのも、そもそもなんなのよ」

「いや、だから言葉に説明するのが難しくて……」


 レンとミュリナは、仲良く並んで歩いている。

 レンとミュリナ、そしてもう一人、レンが好きな相手が誰なのか、それがいまの何気ない会話でイチキにも伝わった。


「そうですか。レンさまは、姉さまを……」


 ぽつりとこぼされた言葉は、どこか痛みを伴った寂しげなものだった。


「あの、イチキ尊師?」

「……なんでもございません。しょせん、わたくしなどでは分不相応だっただけのことです」


 リンリーの戸惑いを振り切って、イチキはかぶりを振る。


「行きますよ、リンリー。まずはご挨拶をしなければならない方がいます」


 レンたちが見えなくなったのを確認したイチキが、ぱんと柏手を打った。

 瞬間、場所が変わった。

 外から、室内に。

 瞬きの間に入れ替わった風景に、リンリーはごくりと唾を飲ぶ。

 いま体験したが、距離の移動はまるで原理がわからない。そして、移動した場所も異様だった。

 この屋敷は魔術的な要塞と言っていい。イチキが全霊でもって幾重にわたる結界をつくりあげているのだということが見てとれた。

 だが気になることがあった。


「イチキ尊師。ここで、なにを閉じこめているのですか?」


 いまの自分は教えを乞う立場だから、気づいて疑問に覚えたものは問いかけるべきだろうと尋ねる。

 ここに張られている結界は、外敵を遮るためのものではなかった。副次的にそういう効果はあるが、魔術的要素の大半は、中にあるものを抑えつけるためにある。イチキに広げられた感覚領域で、リンリーは結界の事実を捕らえていた。

 ふっとイチキの目元が緩んだ。手を伸ばし、リンリーの頭に掌を乗せる。


「よくわかりましたね。褒めてあげましょう」

「は、はい!」


 ぱぁっとリンリーの顔が華やぐ。

 イチキに褒められた。それはオユンや一族の他のものからの賞賛とは嬉しさの質が違った。

 リンリー自身の自意識が形成されてから初めて、明確に格上だと認めた相手である。肥大化していた自意識を木っ端微塵に打ち砕いた、絶対的上位者といってもいい。

 そんな人物に褒めてもらえた嬉しさから、いままでほとんど直視できなかったイチキの顔を真正面から見て、気が付いた。

 イチキが付けているチョーカーの下の肌からうっすらとシミになった痕がのぞいていた。

 リンリーに気がつかれたことを悟ったのだろう。イチキは自嘲気味に唇を歪めた。


「いいですか、リンリー。信じる相手を間違えれば、こんな痕も残るのです。お前は、わたくしの愚かさの轍を踏まぬようにしなさい」

「……はい」


 オユンがイチキになにをしたのか。非道の一端を悟って、リンリーは神妙に頷く。

 イチキはリンリーの頭に置いた手に、ぐっと力を込める。


「ですから、この先にいる方に失礼があったら、わたくしはお前を決して許しません。レンさまやミュリナにあったような非礼はないよう、肝に命じなさい」

「ぴゃい!」


 うわずった返答したリンリーの背中を押す。


「連絡はしてありますが、まずは一人でお会いしたいとのことです。心して面会に臨むように」


 こくこくと頷いたリンリーは、覚悟を決めて足を進める。この先にいるのは、この屋敷の結界が全力で隠し、封じている何かだ。尋常なものではないだろうと思いながら、息を吸って深呼吸。吸った分の息を吐き終えてから、入室した。

 部屋の中には一人の少女がいた。

 紫の髪をした、神秘だった。


「あ……」


 すとん、と腰が抜けた。

 巨大なものを目の当たりにすると、人は感覚が狂わせられる。いまのリンリーの状態は、無辺の海に放り出された子供に近かった。

 例えるなら、イーズ・アンや仙人は一つの巨大な自然現象だった。ある条件で発生し、終息することが約束された一過性のものだ。

 目の前の彼女は、違った。

 彼女は、国だった。


「『私』が問う」


 リンリーは平伏した。全身全霊で頭を床にこすりつけた。問われた声に、否を唱えるなどありえなかった。

 見て、聞けば異国のリンリーでもわかった。

 彼女こそがハーバリア皇国であり、ハーバリア皇国こそが彼女なのだ。

 彼女いる限り、亡国と言われるハーバリア皇国は、いまだ消えてなどいない。

 一国が、リンリーへと玉音を響かせる。


「お前は、イチキのことをいつ知った」

「ふた月前、一族の長であるオユンというものから聞きました」


 返答は、意識することすらなく明瞭に口から出た。それはリンリーの事実であっても、リンリーの意識とは無関係の返答だった。


「イチキがこの国に来た経緯を、知っていたか?」

「知りませんでした。いまでも推測するのみです」

「ならば、許す」


 問答は、短かった。

 少女が、首輪をはめる。紫だった髪が徐々に色を失い青みがかった銀髪になる。

 人類が生んだ、もっともおぞましい呪いの首輪だ。それですら、彼女のありようが封絶されることはないのだと、わずかに残った青が示している。

 リンリーの体が小刻みに震える。聖人と仙人を見たときか、それ以上の怯え方だ。

 そんな彼女に、奴隷少女ちゃんは静かに告げる。


「……覚えておいて。私は、あなたがいた一族が嫌い。イチキを騙して傷つけた奴が、大嫌い」

「ふぁ、ぁい……!」


 涙目のリンリーは呂律が回っていない。必死に返答しようとしてうまくいかない。

 玉音から解放され、ほとんど泣きそうになっているリンリーに向け、とんとん、と首輪を指で叩く。


「……だから、あなたがもしもイチキを傷つけたら。どうなるか、覚悟だけはしておいたほうが……いいよ」


 全力で頭を下げたリンリーは、早くもレンあんぜんちたいに会いたいよぅと心の底から願っていた。





 リンリーと姉の面会が無事に終わった頃、イチキは手紙をしたためていた。

 宛先はレンだ。別れ際の会話を聞いた時に、イチキはやるべきことの項目を一つ増やしていた。

 レンと姉との間を取り持つのだ。

 ミュリナの恋を応援はしたいが、相手が姉だというなら是非もない。なにせ、お互い思いあっているのだから、それでいいのだ。

 姉とレンが両想いだというのならば、自分は全力で応援しなければならない。


「わたくしの、当然の役目でございます」


 ねえ、兄さま、と助けを求めるように小さく呟き、手紙に魔術を施す。

 レンの資質も見極めた。彼ならば、二重の意味で大丈夫だろうと思える。もちろんリンリーを介して接触は続けて行くが、おそらくレンは、誰でもよかった勇者であるウィトンとも、そこにいただけのイーズ・アンとも違くなるはずだ。

 イチキは鳩を放った。

 紙でできた折り鳩が、命を吹き込まれたかのように羽を広げて飛び立つ。

 胸が痛かった。

 イチキは、自分の痛みを無視した。それよりも大切なことがあると、誤魔化した。

 ただ、一言だけ。


「失恋、してしまいましたね」


 姉とレンを引き合わせるための手紙が、遮るもののない青空を飛んでいった。

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