修道女の信仰・後編

「君とは話をしてみたかったんだ、イーズ・アン」


 東方仙人。

 イーズ・アンにそう呼ばれたものは、愛くるしいと評せるほどに幼い少年の顔をしていた。

 まだ、十歳かそこら。膝頭にできた頭は、寄生主に気を遣った様子もなく言葉を続ける。


「この子は愚かだけど、だからこそ使い勝手が良くてね。敵方にいると、便利な人間なんだ」


 膝にできた頭が口を動かすたびに、オユンの体がゆらゆらと揺れる。

 そんな不自然な場所にある顔を、イーズ・アンはまっすぐに見つめる。


「汝の信仰は、いかに」

「ああ、まずはそこからか」


 脈絡のない問いかけにも、仙人は気を悪くした様子はない。


「信仰なんて僕にはない。僕は天地風俗より生まれた仙人だよ? この身は清華王朝が散るまで人としてあるけれども、ことが終われば自然に還るだけさ」


 いたずらっぽい笑みに、邪気はない。


「僕は君と違って、言葉にはならない存在だ。人と語らい、人と笑い、人と生きて、人を殺す。僕は人が大好きなんだ。人の猥雑さを愛していると言ってもいい。信仰から生まれた君に比べれば、俗っぽいのは許しておくれよ」

「そうか」


 無表情のイーズ・アンからにじんでいた敵意が消えた。

 人としての枠組みを捨て、星と同一を目指すのが仙人だ。彼が信仰と敵対することはなく、いずれ自然と同一になる存在だと知ったからだ。

 自然に還ることは、正しく神と共にあることに等しい。

 仙人は、あるがままの自然を全として、そこに回帰することを望む。それはすなわち、一神教に照らし合わせると、神が創りたもうた世界に還ることを意味する。


「それでも、僕がなんだと言われれば、そうだね」


 仙人が、不意にレンたちの方を見る。


「屍山血河の頂きこそが、僕の座る場所だ」


 地方動乱に組みし、軍と戦う個の言葉だった。

 敵意はない。だが、向けられた視線の圧に耐え切れずレンの足が反射的に動きかけた。


「動くな」


 警告は、スノウのものだった。それにとどめられ、なんとか踏みとどまる。

 それを見て仙人がちぇ、と唇を尖らせた。彼の態度で、ミュリナとレンも気が付いた。


「これ、は……」


 足元で、じぃっと、小人がレンたちを見上げていた。

 オユンの口の中にいたはずの小人だ。小指の先ほどの小人の立っている場所を起点にして、陣が刻まれていた。

 複雑怪奇な文様を見て、イーズ・アンはその効果を語る。


「化血陣。十絶陣が一つに踏み込めば、黒鉄と雷鳴の嵐に襲われ、残るは血だまりのみである」

「うん。君との語らいを邪魔されたくないからね。まさしく血も涙もない君には効果がないものだけど……まあ、帰る時には消しておくよ」


 踏み込めば、血と化す。それが足元にあると知って、レンのみならずミュリナも蒼白になる。さすがのスノウも、表情が強張っていた。

 足元に陣を書かれている都合上、三人はすでにろくな身動きも取れない。

 大した理由もなくこの場にいるイーズ・アン以外の人間を殺そうとした仙人は、先ほどまでとはなんら変わらない調子で本題を切り出した。


「ねえ、イーズ・アン。僕がいま出てきた理由は簡単だ。僕に協力してくれないかな」

「理由がない。汝は汝がなすべきことをなせばよかろう」

「東方の地で、君による布教を許そう」


 あっさりと告げられた提案は、大陸の歴史を変えかねない一言だった。


「僕が君を招こう。招かれた君が、どのようにしてくれても僕は一切構わない。君の教会を建て、君の教区でもって、君の信仰を敷けばいい。僕は君の布教を全力で支援するし、君の信仰に至らぬ人がいくら死のうとも君の思うようにしてくれていいんだ。君は布教の他に、なにも気にしなくていい。僕だって、なにも気にしない。当然、君が何かを気にするはずがない」


 膝頭にできた腫物のような頭が、饒舌に話す。

 あまりの提案に目を見張るレンたちを見て、くすくすと忍び笑いを漏らす。


「もちろん政治的な意味もあるよ。うちの国は西方教会から派生した密教が無視できないくらいの勢力ができていてね。そこで『聖女』から唯一神の正当な教えが入れば、彼らは一掃される。なにせ彼の教義は、密教であるがために歪んでしまっているからね。正しい教えでもって、彼らの信仰を正道へと戻してくれ」


 密教による反乱は、多くの国での悩みの種だ。それを一掃するのに、正当な教えを招くのは、大胆であるが悪い考えではない。

 なぜなら、彼は確信しているのだ。

 聖女である彼女を招き、布教を許したところで、誰一人イーズ・アンについて行くことはできない。ことごとくふるい落とされる。それで構わないと判断している。

 多くの血が流れることこそ、彼は望んでいるのだから。

 人を愛することと、人を殺すことが、彼の中ではまったく矛盾しないのだ。彼は人を愛しているからこそ、人を屠り続けているのだと言ってもいい。


「清華王朝は、文官が腐っているのに武官はやたらと優秀でね。とても困っているんだ。だから、君の力を貸してくれ」


 果たして、イーズ・アンは首を横に振った。


「我が身はこの地に任じられた」

「……それは、意外だね」


 ぱちぱちと仙人が目を瞬く。


「いくらあの教皇に任じられたとはいえ、君は、もっと僕のようだと思ったんだけど……」


 疑問の色が、興味の光へと変化する。


「ねえ、イーズ・アン。君は確かに奇跡の体現者ではあるけれども、聖書の一節の降臨に過ぎないという側面もあるんだ。現世にあれば、どうしても無理が出る。そもそも君は、皇国の終わりの象徴であって、皇国が終わった後もこの世に居続けること自体が歪みであるからね。君はあらゆる教えと戒律を厳守するだろうけれども、最も優先させられるのは君を聖人とした一節になるはずだ」

「我が身は祈り、身の削りをもって原初に近づくものである」

「そう。それだよ、イーズ・アン」


 我が意を得たりと声を張る。


「聖書は不完全な書だ」


 それは紛れもない事実だが、聖人を前にして、そうだと言える人間がどれだけいるだろうか。

 スノウがイーズ・アンの激発を覚悟して身構えた。事実、理解が足りない人間が賢しらく同じ言葉を口にしたのならば、イーズ・アンが許すことはなかっただろう。

 足るを知る仙人は、何事もないかのように言葉を続ける。


「なぜならば、唯一神の意思を受け取り綴ったのが人である限り、どの文言にしても一文字だって完全になるはずがない。つまるところ人の言葉というものが不完全で、決して神に至らないからね」

「しかり。神典にある解釈は、人の未熟故である」

「そうだね。現状、教会が神学として研究する神典解釈とは、つまるところ全体のつじつま合わせでしかない。時代にあわせ、時勢に沿って当てはめるという行為だ。だからこそ、一つを基軸とした時に、全体を見ると背理が生じる。君は君の一節を重んじるばかりに詭弁を弄しているだろう? ねえ、だってさぁ、イーズ・アン」


 挑発的な言葉だ。聖人の足の止め方、攻撃の仕方をよくわかっている。

 信仰を問うことこそ、もっとも彼らの奇跡を打ち砕くに足る。

 己の奇跡を疑った瞬間、彼らはただの人に落ちるのだ。


「前提としてあるべき、人間礼賛が君には存在しない」

「人は愚かだ」


 明らかな矛盾を指摘する問いへの答えは、即座になされた。


「礼賛すべくは人にありし日の人のみであり、原罪を抱える限り人は罰を受け続ける義務がある。余剰の獲得は、福音、恩寵、礼賛、喜びのどれでもない。受け取るべき賛美は、人が人に戻って初めて授与される尊き一滴だ」

「ならばこそ、君の信仰を布教すればいい。この西方にあるよりも自由に振る舞えることを約束するよ?」

「仙人よ。産廃の毒に沈められた汝も、身をもって知るはずだ」


 仙人の顔から、初めて笑顔が消えた。

 産廃の毒。その単語を聞いて、恐ろしさすら感じる真顔になった仙人へ、イーズ・アンは静かな言葉を吐き出す。


「この世に絶対の理などない。……ないのだ」


 重く、厳かで、叩けば金属音が響きそうなほど無機質なのに、なぜか寂し気に聞こえる声だった。


「絶対の善も、絶対の悪も、等しく存在しないことこそが裁きなき世の尽くせぬ業だ。人は動き始めたその時から、善性の功績を授与されることなく、悪徳の禊を受けることもできなくなった。有限ゆえに救いのない自由こそが、人が手にした愚さ。地上に煉獄を生むゆえんとなった」


 レンにはわからない。ミュリナにもわからない。スノウにもわからない。いいや、他の誰にだってわかるはずがない。矛盾を内包した言葉は、ただの人間には、決して理解しえない。

 仙人だけは、理解した。

 だからこそ、イーズ・アンは信仰を語る。


「ゆえに、神典は至言絶対と知れ」


 泥の瞳に、仙人は言葉の無駄を悟った。


「そうか。そうだね。君の言う通りだ。わかるよ」


 穏やかに賛同の意を示す。勧誘が失敗した彼は、瞳を緩めて思い出話を語らうように、ぽつぽつと話す。


「僕たちは普通の人間だった。過去から学べるほど賢くなかったし、他人を支配できるほど偉くもなかった。身近にいた家族友人だけを愛して、遠くの誰かのことなんて知ろうともしなかった」

「本来ならば何一つ成し遂げることがなかったはずの我らが得た神秘は体験的なものであり、体験したからこそ不動に揺るぎなく歴史に突き刺さる。身に降りかかった主観なき客観の事象こそが、奇跡を奇跡たらしめた。汝もそのはずだ。産廃の仙人」

「その通りだね。飢餓の聖人」


 地上で最もよく似て異なる存在がゆえに、互いが、いまのようになった出来事を見通していた。

 片方は、群れにあって屍山血河を築き。

 片方は、単身泥の身にて祈りを捧げる。

 その二つに、さしたる差異はないのだ。


「だけど、だからこそ、世俗の束縛に囚われる君ではないはずだ。となると……この都市に、君をとどめる何かがあるのかい? 布教は信仰の一助だけれども、それではないだろう」


 きらりと瞳が光った。


「君と同時期に生まれたはずの、皇国打倒の宝貝(パオペエ)は、どうなっているんだい?」

「……」


 イーズ・アンの返答が、初めて途絶えた。

 宝貝(パオペエ)。すなわち、この国でいうところ『聖剣』である。それがどうした、とスノウは不審に思う。彼女は、勇者が聖剣を教会に返納したことを知っていた。

 だが、返納したあとの聖剣がどうなったのかは、スノウも知らなかった。


「そうか、そうか! そういうことか!」


 イーズ・アンの沈黙をもって、仙人はその答えを得た。

 嬉しそうに快哉をあげる。


「おかしいとは思っていたんだ! 君がまだこの世にあることが! ははっ、そうか、宝貝の代替わりなんだ。となると『玉音』の皇帝は、まだ――」

「この地に汝の求めるものはない。自然とともにありたいのならば、そうであれ」

「――まあ、そうだね。皇帝と天帝は違う。確かにもう用はないんだけど……ふふふ。そのためなのか」


 含み笑いをする仙人がちらりと見たのは、レンのほうだった。

 彼の笑みが、一層深まる。


「担い手に関わるのも、僕らの必然だ」


 ふ、っとオユンの膝頭から仙人の顔が消えた。

 ごす、という音がしてオユンが頭から落ちる。膝にあった頭も、床にいた小人も、腹で唸り声を上げた獣も消えている。

 オユンはただ気絶しているだけのようだ。


「……少年」

「はい!?」


 しばし、じっと佇んでいたイーズ・アンも、オユンの存在を忘れたかのように視界にいれなかった。


「汝はまだ、選ばれてはいない。それゆえ、祈りを怠ることはないよう、励め」

「はい?」


 色々ありすぎて、イーズ・アンが何を言っているのかちょっとよくわからなかった。

 だがそれ以上言葉を加えることなく、彼女は立ち去った。

 終わったのか、とレンとミュリナは顔を合わせ、肩の力を抜いた。

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