修道女の信仰・前編


 この都市最大の脅威が、ぴくりとも揺るがない無表情のまま、明らかな害意を持ってオユンに近づく。

 その一歩を踏み出しながら、まずはレンへと声をかけた。


「少年。神敵に刃を向け退けんとする信仰、大儀である。さらなる祈りにより、汝は信仰の壁を得た。敵わずとも、立ち向かう心を示すことに意義はある。汝の力不足は罪ではない」

「は、はい!」


 親し気ともとれる言葉をレンに向けているのを見て、オユンは状況のまずさを察する。

 聖職者が自らと異なる神秘領域の行使を嫌悪するのはよくあることだ。人の死生観まで踏み込んだ領域の神秘行使ともなれば、顔をしかめられるのも道理である。しかも誘拐した相手、レンと知り合いだったらしいといまの会話で読み取った。

 しかし、いくら敬虔な信者であっても国外の人間と立場ある聖職者が有無を言わせぬ争いに発展することも、めったにない。話せばわかると声を上げた。


「ま、待て! 違うっ。話を聞いてくれ!」

「何が異なるのか」


 弁明を、述べる間もなかった。


「太極陰陽陰性から派生した地方死生観による『降霊術』など、くだらないがゆえに度し難い。祖霊の迷信を信じるのは人の性。生活に干渉する獣のありように意味を見出すのもしかり。幾度にもわたる『まじない』程度のなら目こぼしもしようが、邪教にも至らぬ霊魂思想を我らがひざ元に招くなど、笑止の沙汰」


 一瞬でオユンの操る秘術を紐解き、口を挟む間を入れない。

 あまりの話の通じなさにオユンの動揺が増した。とっさに自分の護衛に目を向ける。


「す、スノウ。そいつを止めろ。命令だ!」

「笑えない冗談だな」


 水を向けられたスノウはといえば、とてつもなく迷惑そうな顔をしていた。

 スノウにイーズ・アンを制止する気は一切ない。そもそも物理的にも精神的にも彼女を止めることなど不可能だと知っている。


「名も無き騎士か。久しくこの地になかったが、いかに」

「……久しぶりだな、イーズ・アン。相変わらず、洗礼名以外の人の名前を覚える気がないんだな」

「気概の問題ではない。神の恩寵なきものはこの世にないゆえに、捉えることも叶わない。汝、洗礼を受けざるたるや」

「すまんな。私は確かに聖教徒だが、信仰の足りない身で洗礼を受けようとするほど愚かではない。謹んで辞退するよ」

「しからば、悪星の下に生まれた汝も、修験に挑むがよかろう」


 そつなく対応を終えたスノウから、再びオユンに顔を向ける。ミュリナには、そもそも目を止めない。なにせ彼女は、レンやスノウとは違い秘蹟が一切行使できない魔術師だ。イーズ・アンにミュリナの姿が見えているのかどうかすら怪しい。

 頼みの綱をまた一つ失ったオユンは、退路を探す。とっさに出口へと駆け寄って、逃げ場がなくなっていることに気が付く。

 いつの間にか、この部屋の四方は光り輝く障壁『信仰の壁』に囲まれていた。

 光の壁を叩けども、揺るぐはずがない。オユンは背中を壁に張り付け、少しでもイーズ・アンから離れようとする。


「く、来るな……見てわからないのかっ。妾はこの国の人間ではないっ。よりにもよってお前の教区内で異国の官僚に危害を加えれば、大問題だぞ!」


 異国で誘拐活動など行っていた人間とは思えない理論だ。レンに対する行為を考えるとひどい自己矛盾ではあるが、構っていられない。必死に自分の安全を確保しようと訴える。


「お、お前にだってわかるだろう? 聖職者が国政に関わるものを、しかも国外のものに手を出すなど、どんな理由があっても国際問題になる! ここはひとつ、穏当に――」

「国際とは何だ」

「――は?」


 オユンは絶句した。

 イーズ・アンの瞳に迷いはない。これから自分がすることのなにが問題なのか、まるで理解できないと反復する。


「国の線がいかにした。人の位がどうだというのだ。どのような場所にあろうと、どのような立場にあろうと、人に違いなどない」


 官僚であり、階位を是とする東国の世俗で過ごしたオユンにとって、ありえないほどの暴言だった。

 何か言おうとして、けれどもオユンでは何の言葉も思いつかなかった。反論の余地など微塵もなかった。反論の意味がないと、容赦なく思い知らされる台詞だった。


「人に身分を着せ、地上に線を引き区別を付けようなどというのは、人の弱さと愚かさゆえのものでしかありえない。肌の色、骨格の違い、肉付きの変化、瞳や髪が異なるから、なんだというのか。敵を作らねば人はまとまらないとした卑しさと、そうあれかしと念じれば安寧をむさぼれると幻想に溺れた人の怠惰が国という枠組みを作った」


 言葉を交わす意味がないほど現実味がない論理だ。イーズ・アンの言葉は現実を無視して正しく、彼女がそれ以外ないと彼女の信仰において断定し終えていると否が応でも思い知らされる。


「国とは区分けをしなければ隣人とすら争うしかなかった惰弱の象徴であり、事実、区分けをしたところで内も外も諍いは絶えない結果を示した薄弱な枠組みである。隣人との争いを、同郷か異郷かという言葉遊びに過ぎない差異に変えたところで本質的な違いを見出せるものではない。異教の者よ。知らぬならば蒙昧な脳に知恵を加えろ」


 こつん、と足音が響く。

 イーズ・アンの静かな迫力に、レンはごくりと唾を飲む。人に差はないという言葉以上に、思想の差異に言及がないことにこそ、狂信が感じられる。

 彼女にとって人が人足り得る思想とは、言葉にするまでもなく唯一の信仰なのだ。


「唯一無限なる神の下、万人は一切、平等である」


 その場の全員が、なにも言わなかった。

 空恐ろしい静寂が落ちる。イーズ・アンのほか、誰一人として身動きを取らない。

 なにかできる気が、まるでしない。なにをしても無駄だと確信できる。オユンだけではない。レンも、ミュリナも、スノウも、イーズ・アンの行動を止めようとは思わなかった。

 交渉など無意味だし、対抗して戦うなど論外だ。逃走すら、決して許されないだろう。


「無限の神の御手より有限に捏ねられたのがこの星であり、我ら人間であり、原初をともにする同胞である。有限の総量である全こそが神の創りし真であり、一なる我らに差異があるなど、ゆめ思い違うな。傲慢も甚だしい」

「は、ははは。な、なあ。どうすれば許してくれる……?」


 オユンはすでに泣き笑いの顔だった。

 イーズ・アンに自分の言葉が通じないことは薄々悟っている。恐怖に泣き崩れそうになりながら、それでもどうにか許してもらおうと媚びた笑みを必死で浮べる。


「わ、悪かった。お前の信じる神の下で、異なる術理を用いたのは妾の失態だ。こちらの非を認める。に、二度としない。過ちを懺悔するっ。お前の視界に入らない。金輪際、この国に足を踏み入れないっ。だから許してくれ……!」

「改宗せよ」


 寸暇もおかない返答に、オユンの顔がひきつった。

 改宗など、できるはずがない。宗旨の転換は、すなわち祖国への背信だ。国の歴史とともに形成された神秘領域というものは、民族をまとめる思想というだけでなく、実際的な力となって国民の誇りになっている。それゆえに安易な宗旨転換はどこであろうとも白眼視される。国に仕える官僚である限り、それだけは、なにがあってもやってはならない。

 そもそも東国清華王朝は、西方教会の布教自体を許していない。多民族国家であり、祖霊信仰を始めとした地方信仰を受け入れる度量はあるがゆえに、唯一神を標榜する教会とは相いれないのだ。

 ここで東国の官僚であるオユンが聖女の洗礼など受けようものならば、それこそ国際問題。一族の恥さらしだ。


「お、お願いだ。改宗は、無理だ。それ以外のなにかを――」

「それ以外のものなどない」


 泥の瞳に、光はなかった。


「洗礼を受け、神より一滴の恩寵を受け取り、聖なる名をもって信じ仰ぎ祈り続けるならば、人はいつか必ず許される」


 イーズ・アンはオユンの事情など一切斟酌しない。淡々と、ただ彼女にとっての事実のみを述べる。


「多くの迷信は学術に殺された。祖霊信仰を始め、精霊信仰も多神教も、人の探究を前に神秘を暴かれ役割を終えた。海は横断され、山は踏破され、天体は観測され、天上天下の正体はつまびらかにされつつある。人の尽き果てぬ好奇心によって人類が世界観測の精度を上昇させるにつれ、かつてあった死生観、世界観は神秘領域から外れ、いまやかろうじて無知と迷信に支えられるのみである」


 語られる見識は、意外にも的確だった。狂信者らしくもなく、学術的な見地をもとにした整然とした論理だ。

 かつて数多くあった神秘術は、すでに魔術が取って代わった。無知、迷信、思い込み。人が生んだ虚像は、人に研鑽によってより確かなものとしてかくりされたのだ。

 ならば、自らの教えはどうなのだ。

 魔術師であるミュリナは、口を挟むことこそしなかったが、疑問を覚える。

 イーズ・アンには明らかに学識がある。人類が積み重ねた知識を学んで、どうして信仰を優先できるのか。魔術師である彼女にはそれが理解できなかった。

 だが優秀であれど若いミュリナが知らないだけで、この世には二種類だけ、物質観測による自然科学と両立できる宗教観がある。


「しかして、我らが唯一の神を、人類学術が解き明かすことは叶わない」


 物質界の総量すべてを上回る規模の人格的唯一神か、この世にある万物一切を合わせて神とする普遍的な自然宗教論である。

 この二者は、存在そのものが世界以上であるため、どのような事象があろうとも否定されることがない。


「人の行きつけぬ有限の果てにこそ、唯一の神はある。最大は時間と宇宙の最果てにあり、最小は世界創生と組成の原初へと至る。人の観測できる現世に神の実在はなく、決して人類が解き明かせぬ無限領域にこそ神の恣意はおかれる」


 人格的唯一神の是非を語り、まばたきすらしない泥の瞳がオユンを貫く。

 イーズ・アンは常人とは見ている世界が違うのだ。


「無限の内なる有限の人は元来救われている者であり、汝の求めようとしているものこそが害悪となって身の枷とまとわりつき、汝を肉袋に貶めている。それが人の抱える原罪だ」


 色のない敵意に晒されたオユンの涙腺が、とうとう恐怖で決壊した。腰が抜けていた。立つことができなくなり、ずるりと腰から床に崩れた。少しでもイーズ・アンから離れようとするも、すでにこの部屋の四方は信仰の壁でふさがれていた。部屋の四方を取り囲む信仰の壁は、秘蹟行使者の精神を表しているかのように固くゆるぎない。それを展開している聖女の歩みの速度は、まるで変わらない。


「生来の罪を雪ぎ得るのは祈りと信仰のみである。人を人たらしめんとする祈りこそが我らが偉大なる神の残された言葉。ゆえに、異教の者よ。自ら膝をつかぬというならば、これより汝に改宗の機会を与える」


 とうとうイーズ・アンがオユン目の前に至った。

 彼女はオユンの額に指を当てる。恐怖のあまり、オユンの眼球が裏返って白目をむいた。肺が引きつり、気管に唾液が流れ込んで、ぶくぶくと泡を吹く。びくびくと全身が微細な痙攣をおこしていた。明らかに失神をしており、放っておけば泡が詰まって窒息死をしかねない状態だ。

 イーズ・アンは、気にも留めない。


汝、その身ステータス――」

「やあ、ちょっと待ってくれたまえ」


 制止の声が響いた。

 それはもちろん、オユンではない。オユンは完全に白目をむいている。まさかミュリナの声ではないし、もちろんレンやスノウであるはずもない。

 少年の声だった。

 イーズ・アンは視線を下に落とした。

 ひざを折って崩れ落ちて、あらわになったオユンの膝頭。

 そこに、誰かの頭ができていた。

 ふわりと膝が浮き上がる。重力に逆らって、オユンの上下がひっくり返る。頭を下に、たたまれた膝関節を頂点にした形だ。

 膝頭にできた頭が、口を動かす。


「君の聖句隠世結界にとじ込められると、この子は一生出てこれない。それだと少し困るんだ」

「……」


 オユンの膝頭に浮かぶのは、人懐っこそうな笑顔をつくった少年の頭だ。膝頭に、明らかに別人の頭が寄生していた。

 あまりの不気味さに、レンはぎょっとする。ミュリナは魔術がなんなのか、記憶をさらったが該当する知識がないことに舌打ち。スノウも何が起ころうとも対処できるように身構える。

 唯一、イーズ・アンにのみ動揺はない。

 彼女は膝の顔から視線を下げて、腹と、頭に目をやる。腹からはぐるぐると獣の唸り声が響き、意識を失って半開きになっているオユンの口の中から、小人が前歯に隠れるようにして、ひっそりと覗き見ていた。

 人の身に巣くう、三つの異質。

 オユンの身の内に寄生する何かの正体を、イーズ・アンは正しく知っていた。


「三尸(さんし)の理」

「正解だ。さすが、博識だね」


 人には、三匹の虫が潜む。

 その一節から始まる、東方清華王朝の始祖『天帝』の造作物が一つ。東国に古くから伝わる逸話であり、とうに失伝したはずの術だ。

 歴史に埋もれていたはずの概念が現れたのを見て、イーズ・アンは得心する。


「そうか。汝か」


 眼前に現れたものこそが、イーズ・アンが少し前から抱いていた違和感の正体だった。

 リンリーの術など、気にとめるものではない。オユンの存在など論外である。祖霊交信術は不愉快であるが、それだけだ。イーズ・アンを警戒させるものでは、到底なかった。

 オユンの自覚なく彼女の身の内に潜んでいた三匹の虫こそが、イーズ・アンの警鐘を鳴らした。イチキがオユンを見て何かを宿していると察して慎重に準備を進めていたのも、同じくである。

 そして、オユンに寄生した虫を介して現れた術者こそが、イーズ・アンと同格の存在。

 世界を手のひらに乗せる人格的唯一神ではなく、森羅万象を奉る遍在的自然宗教から生まれた超越者。


「汝が東国仙人か」

「はじめまして、西方聖人。神典の一節の体現者にお目にかかれて光栄だよ」


 東国清華で生まれた『仙人』が、姿を表した。

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