修道女の祈り・後編
扉を閉じた部屋に、静寂が戻った。
修道院の少女の足音も遠ざかり、一人きりの静けさに戻ったイーズ・アンは一人思索にふけった。
ここ最近、現世の信仰に雑音が生じる。
東国の一地方より生じた太極陰陽の周易。表に出ている術の行使は、普段なら気にもとめない程度のものだ。
彼女にとって表層的な思想の差異は、しょせん些末なものだ。神秘と迷信はまったく異なるものであり、迷信の踏破は信仰の麓へとたどり着く礎となる。この世のすべてが神の生んだものである限り、あらゆる帰結が信仰たらんとするのは自明なことだ。
この世のすべての道の先にこそ神秘があり、決して届かぬ頂きに神はある。
そうでなくては、この都市にいる宗派を異とする移民をことごとく改宗し、排斥してなければならない。
しかし、この街には多くの思想が生きている。
イーズ・アンは知っている。
信仰とは、祈り、許すことだ。
異教も異端も、一線を越えない限り彼女は動かない。世界に空いた異端の穴は、信仰が注がれる器になる。見逃せぬ不遜を誅すること、あるいは乞われれば教えを説くことはあれど、それだけだ。
他人に説かれるよりも、己で気が付く時こそが、もっとも信仰に近づけるのだから。
だが。
「足元に蠢くのは、何か」
盆を置きながら、つぶやく。
イーズ・アンをして無視し得ないほどの何かが、ここ最近彼女の任じられた都市に入り込んで存在した。
正体は、不明だ。
異物であることは確かだが、あまりに巧妙に隠されている。見えず、聞こえず、触れることができず、神秘に類さない『なにか』だ。信仰を害するものであるかどうかすら、判別ができない。
それは、些事ではない。
「まあ、いい」
この世に正義と悪など存在しない。闘争の勝敗に是非を預けない良きと悪しきの判別は、人が考えるものではない。神典に寄り添うものだ。いかな事象かは遠からず、自ずと判明するだろう。
イーズ・アンは、受け取った盆を部屋の床の中央に置き、ひざまずく。
食前の祈りを終えたイーズ・アンは、瞼を開ける。
修道院の少女が持ってきた盆が、目に映る。白い陶器に注がれた一杯の赤ワインの他に、彼女にとっては余計ともいえる糧が一つある。
パンの欠片だ。
一杯の赤ワインはともかく、本来、パンなど求めるべきではない。これを持ってきた少女の提案など、いわんや。
少女の申し出は贅沢ではなく、善意の申し出だったことはイーズ・アンも承知している。
そもそもが、修道院は貧しい。清貧の中にあって、自らが得ようと手を伸ばすのではなく、誰かに分け与えようと手を差し伸べる精神は、尊ぶべきものだ。
だが。
「我が身は……」
視線の先にあるのは、柔らかく焼き上げられたパンのひとかけらだ。人の糧の、最もありふれた形である。
わずかなパンを指でつまんだイーズ・アンは、口に入れる。
「ッ」
瞬間、彼女は喉を抑えた。
ひとつまみのパンを口に入れた瞬間、喉が蠕動を繰り返す。たった一切れのパンすら受け入れられないと、彼女の無意識が肉体と連動して拒絶する。何も入れていない胃袋がひっくり返るように暴れまわり収縮する。喉元から吐き気をせり出して、口に入れた一つまみのパンの欠片を拒絶した。
鉄面皮のまま吐き出すまいと口を閉じていたが、とうとう限界が訪れた。
えずく音が、一室に響く。
水音は、しない。
イーズ・アンがせき込みながら吐き出したパンの欠片は乾ききっていて、人の口の中にあったとは思えない。
「……」
イーズ・アンは自らが吐き出したひとかけらを指でつまむ。
捧げると、見る間に風化していったパンは形を崩して塵になった。
開いた窓からそれを風に流し、土に還しながら、イーズ・アンは小さく呟く。
「食、とは」
静かな命題の提示は、誰に届くこともなく消えていく。
窓を閉じ、イーズ・アンはそっと瞼を落とした。
お腹が減っていた。
喉が渇いていた。
何人も逃れえぬ飢餓、枯れ果てひび割れるような渇水の苦しみは、常に彼女の思考を砕き、理性を塵に変え、信仰すらも消し去ろうと襲い掛かっている。
だが、身に降りかかる苦しみをどうして満たせようか。
原罪より訪れる飢餓と渇きは常に彼女の身と共にあり、精神と魂を純化している。
満たそうと思うことこそ、すでに罪なのだ。
神の信徒たる彼女の口は、何かを呑み込むためにではなく、信仰を吐き出すためだけにある。
それなのに、どうして。
「……」
イーズ・アンは背負っている大箱を置き、するすると修道服を脱ぎ始めた。一繋ぎの修道服はあっさりと脱ぎ去られ、彼女の裸体が晒される。
矮躯の裸身には、一つの傷もない。穢れがない神聖さが形になったような姿でいて、けれどもそこに立つ彼女には女性的な煽情さが欠片もなかった。
まるで裸身の彫像が屹立しているかのようだ。いまの彼女を見て美しいと思うことはあっても、欲情する人間は少数派だろう。
人は、肉に欲望を覚える。温かさに、柔らかさに欲情する。イーズ・アンの裸体は人の形をしているのにも関わらず、あまりにも非人間的だった。
形がどれだけ美しかろうと、温度のない泥の人形に人が興奮することは、ないのだ。
一糸纏わぬ姿になったイーズ・アンは、赤ワインの入ったコップを掲げて、ゆっくりと傾ける。
陶器の縁からこぼれた赤い雫が、頭上から全身に垂れていった。
頭髪から頬を伝い、肩から胸元を滑り落ちて腹を通り過ぎて太ももに流れる。イーズ・アンの体を伝う赤ワインは、しかし一滴たりとも床に零れることはなかった。
乾いた泥に染みわたるように、イーズ・アンの皮膚から内側へと潤いをもたらし、彼女の糧へと変わっているのだ。
これが八年間続いた、彼女の『食事』だった。
腹が満ちることはない。喉の渇きが癒されることもない。体が乾いて崩れ落ちないようにするための処置でしかない。
皇国崩壊の起点とも呼ばれる村にいた彼女は、滅んだ故郷で奇跡と呼ばれる秘蹟を身に宿した時から、経口摂取をほとんどしていない。
する必要がなくなった、というのが理由の一つである。
同時に、することができなくなった、というのも大きな理由だった。
そして八年間、彼女は常に極限の空腹と渇きに身を置いていた。
常人では指先一つ動かせない飢え、一声も絞り出せない渇きが、わずかでも満たされた時は、一度だけ。
「……なぜ」
ゆっくりと全身に赤い恵みをしみ込ませるイーズ・アンの脳裏に浮かんだのは、とある喫茶店でのやり取りだった。
あの時は、どうして。
差し出された糧。舌に触れた甘味。口に入れ、嚥下し、胃に溶けた感覚。それを与えてくれた後輩の、笑顔。
あれは、まぎれもない福音だった。
しかして、彼女の身は神より与えられた泥なのだ。
赤い液体が身に染み入り肌が乾いたタイミングで修道服を身に着ける。服を着ることで、彼女の非人間性はわずかに隠された。
「神よ。全能であり無能の我らが創造主よ。黎明よりあって、終焉まで不在の唯一の神よ」
イーズ・アンは、両手を組んで祈りを捧げる。
彼女は救いを求めない。救いの手がないことを知っているからだ。いいや、そうではない。元来の人間は救われており、それ以上を求めることが罪だと知っているからだ。
実在の神はいない。原初を脱却した生きとし生けるものすべてが抱える原罪の愚かさこそが、神の不在を決めた。
それでも彼女は祈りを止めない。
神の御手に救われることなど決してありえないという真実があっても、神秘を信じることに不足はない。真理と現実がどうであったところで、祈りをやめる理由にはならないのだ。
「福音の響き、恩寵の是非もわからぬ不肖の身が、不在にて偉大な主に祈ること、お許しください」
救いすら求めぬ清貧の極みにあって、なおも身を削り続ける修道女は、この世にいない神に祈りを届けた。
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