修道女の祈り・前編
じゃら、と筮竹のこすれる音がした。
細く、滑らかに加工された細い竹の束が五十本。周易の基本たる数に基づき、一本を抜いた四十九がすれる音だ。
神秘につながる音を立てたのは、リンリーである。
四十九本を左右の手で分け、瞑想忘我の面持ちで筮竹を動かす。
占いとは、本来知らないことを知るための神秘だ。こうであればいいと望まれ、些細な事象との関連性を見いだし、長年積み重ねられた。そうして民間に広まり、政治まで食い込み、時の王朝をも左右した術は多くの人々に効果を期待され、確かな力を持っている。
託宣者というのは神秘を見通さんとするものであり、見えざるものを見る力は多くの地方で尊ばれる存在だ。
それは、まだ十歳の少女でも例外ではなかった。
だが。
「やっぱりだめー」
ホテルに戻って占いをしていた彼女は、ぽーいと占術道具をベッドに放り投げる。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦だよー。ねー、オユン大姉。今日は当たらない日だよ。あたしがそういうんだから、間違いないって。だから、あそぼー。つまーんない! あきたー!」
見ての通りの子供の仕草に、オユンと呼ばれた女性はやれやれとため息を吐いた。
「飽きっぽいのがおぬしの欠点よな。もっと熱意があれば、いまより力が伸びように。特に祖霊への真摯さが足りぬよ」
「えー」
ベッドで寝返りを打ってぶうたれるリンリーは不満顔だ。
「だってご先祖さまって言ったって、あたしよりすごいご先祖様なんていないじゃん? そんけーなんてできないんだけどー!」
「それは間違いではないな。個人の才覚としては、おぬしは歴代でも一番だろうよ。しかしな、リンリー」
リンリーの言葉を認めてから、オユンは逆説詞をつなげる。
彼女たちは東国の官僚一族である。図書収集の一族であり、それが転じて代々中央に高位文官を輩出することになった。歴代で集めた図書の管理は分家に、本家は官僚として権勢を得るに至った智恵の一族だ。
その中でも、十歳で神秘領域に触れる段階まで来たリンリーの才覚はずば抜けていた。
「我ら一族の思い、積み重ねてきた功績が力と変わる。概念の領域に積み重なった年月は、決して一個人では敵わぬものとなる」
祖霊信仰こそが、彼女たち一族の力の支えだ。
だがその一族に連なるはずのリンリーは、べえっと舌を出す。
「あたしのほうがすごいもーん」
子供らしいといえば子供らしい小生意気さだ。才能はあれど、挫折を知らないがゆえの物分かりの悪さにオユンは肩をすくめた。
「まあ、おぬしもそのうちわかるだろうよ。しかし、スノウはどこに行った……? 先に戻っておれと申し付けておいたはずなのだが」
「いないねー。この国の人みたいだし、知り合いにでも会ってるんじゃないの?」
「連絡もなしとは忠実な奴らしくもないが……そういうことかもしれぬな」
護衛に連れて来たスノウがいないことに納得する。
「そーいえば、オユン大姉。この辺りって一神教だよね。他信仰圏の神秘術って、どこでもあんまりよく思われないけど、へーきなの? なんかこの都市、すごい聖職者がいるって話だけど」
「はっ。平気に決まっておる」
リンリーの心配を鼻で笑ってあしらう。
「『聖女』といえば革命の功労者。この国でも立場のある人間だ。ただ違う教えの神秘を扱ったというだけで、身分ある他国の人間に襲い掛かるような考えなしであるはずがなかろう」
「まー、確かにそーだし、オユン大姉がそういうならいいんだけどさ」
「それに、聖女とスノウとは顔見知りのはずだ。いざとなれば奴を使って話を通すさ」
「ふーん」
保険があるならいいかと、リンリーはごろりとベッドに転がる。
どうにも、さっき術を使っていた時から違和感が付きまとうのだ。
術を行使するたびに、ざわざわする。誰かの掌に乗せられ見つめられているような不安がある。感覚的に術を扱うリンリーではうまく言葉にできないが、いやーな感じがするのだ。
正直、関わりたくない感覚である。
「聖人、聖人かぁ」
「どうしたのだ、リンリー?」
「んー……あのさ、聖人って、仙人と同じなんだよね。やっぱり、すごいの?」
「まあ、どちらも大層なものであるのは事実だ」
オユンは不愉快そうに顔を歪める。
「こちらでは聖人、我らが祖国では仙人と呼称が違うだけだからの。こちらの聖人イーズ・アンはどうだか知らぬが……ちっ。仙人めが……あの忌々しい反逆者どもに、よりによっても三尸の理を与えおってからに。賊軍が活気づきおった」
「三尸ってなんだっけー?」
「知らんでいい。忌々しい」
智恵の蓄積に興味が薄いリンリーの疑問を、オユンは吐き捨てるように切り捨てる。
オユンがこの国に来た目的は、東国で起こった反乱と、同時に生まれた仙人への対処への助力だ。いくつかの都市でダンジョンで練兵していた部隊を中心に起こった王朝への反逆が、よりにもよってどこからともなく現れた仙人の助力を得たのだ。
その時点で、問題は地方反乱の規模を超えた。
仙人対処は困難を極める議題だ。そこでオユンが目に付けたのが、この国である。
先天秘蹟の頂点たる前皇帝を倒した国だ。玉音を完封するためだけの聖剣が仙人に効果があるとも思えないが、何か知見があるかもしれない。そうでなくとも、聖人を擁する教会とのつながりはあって損ではない。
「そういうわけだけだ。この国の聖人は気にするでない。はよう、愚妹の居場所を掴め」
「でーもさー。イチキ小姉を見つけてどうするの? 仙人と関係なくない?」
「あやつもこの国に来て、何年も経っておる。なんらかの繋がりぐらいはあろうよ。この国で交渉するにしても、条件を引き出す手札を整えたいのだ」
「はいはーい」
リンリーは渋い顔をしながら、考える。
どうにも気が進まない。政治の話は知ったことではないし興味もない。そもそも実はオユンに言われた通りの手筈でイチキの居場所は絞ってある。
絞ってあるのだが、なんとなく間違いな気がするのだ。
そこにうっかり踏み込むと、ひどい目に遭う気がする。
彼女は自らの直感を、祖霊信仰以上に優先していた。十歳で神秘領域に手をかけたという己の才覚を信じるが故だ。
「手ごわいなー、イチキ小姉」
たぶん、普段のオユンより強いな。
こっそりと笑ったリンリーは、少し手段を変えるかと占いを再開するため筮竹を手に取る。
聖人を気にする必要がないのならば、占うこと自体は構わない。だが対策をされているのならば、馬鹿正直に占う意味が薄い。次はこのまま本人を探るのではなく、近縁を探る。近い縁は警戒しているだろう。だから、少し遠目を狙う。
イチキの縁の中にいる、もっとも弱いものを探るのだ。
「さーってと」
当たるも八卦、当たらぬも八卦。
悪戯っぽく笑うリンリーの手の中で、じゃらりと神秘に触れる音が鳴った。
てってって、と修道院の廊下で一人の少女が軽い足音を響かせていた。
修道服を身にまとった、十代前半の少女である。陶器のコップと小皿が乗った盆を持った彼女は、早足で修道院の中を移動していた。
彼女は孤児だ。
幼児の頃が皇国最悪の十年の初期だったために修道院の前に捨てられて、過酷な時代の貧困の中で運よく生き残って育った少女である。
幼い頃から神典を読み、聖職者に囲まれて戒律を順守し、貧しい生活ゆえに清貧と労働を当然と考え、日々神に祈りを捧げる善き生活が少女には身についていた。
信じるということの重みを、少女はよく知っている。
そんな彼女も、数日後には十三歳になる。今後は修道院に養われる側でなく、まずは見習いとして教会の仕事に派遣されるようになる年齢だ。
年若いながらも信仰に厚い彼女だからこそ、この修道院で畑仕事や針仕事のほかに、一日に一回、とある重要な役目を仰せつかっていた。
ある一室の前で立ち止まった修道院の少女は、片手で盆を支えながら胸に手を当てて深呼吸をする。もう何年も続けた役目だが、この瞬間ばかりはいつまでたっても緊張してしまうのだ。
口元を引き締め、ぐっと胸を張って背筋を伸ばした彼女は扉をノックする。
ほとんど間を置くことなく、扉が開いた。
「何用か」
出てきたのは、十代前半の少女と目線が変わらないほど小柄な女性だ。
小さい体躯ながら、幼いという印象はない。彼女の面貌は人として成熟し、苦難と試練を経て固まり、信仰者として完成しているのだ。
まるで揺るがぬ信仰に染まった顔に見とれつつも、修道院の少女は持参した食事を差し出す。
「イーズ・アン様。お食事を、お持ちしました」
「感謝する」
盆に乗っているのは、陶器に入った一杯の赤ワインと、小皿に乗ったほんのひとつまみのパンの欠片だった。
粗末、というのもおこがましい。この修道院の最低の時代でも、一日の恵みがこれ以下の献立だった期間は短い。人の食事とは決して思えぬほどに粗末な食事内容だが、これはイーズ・アンが自ら望んだものだった。
修道女の少女からイーズ・アンが盆を受け取ろうと手を伸ばした時だった。
「十四回目」
不意に、虚空に目を向けたイーズ・アンが脈絡なく呟いた。
「迷信の揺らぎにすぎぬとはいえ、些か小うるさい」
「あ、あの、どうかされましたか」
「……いや」
自分が粗相をしてしまったかと首をすくめる少女に、イーズ・アンは無表情のまま首を振る。
「人の不明より生じたあらゆる迷信は愚かだが、些細な瑕疵であるがゆえ、不信心とはいいがたい。偶然の不明に光明を見てすがるのは、乱数への整合性を期待する愚かさを知る機会でもある。当たる、当たらぬと一喜一憂するは、神秘と呼ぶのもおこがましい直感予想でしかない。確定のない無意味さの自覚は、それゆえに真の神秘たる信仰のはじめへとつながる」
「は、はい」
「全容の一部をとって真としようとするのがまじないであり、それゆえ、全なる信仰とつながることもある。まじないが邪教の呪いとなる線引きはあれど、浅く矮小なうちは芽を摘むことはない。太極より陰陽二元論で世界を分けようという己の異端を疑い、解消するは、転じて唯一創世信望への一歩となり得るのだ」
なんの話をしているのか。さきほど呟いた回数のことも含めて、修道院の少女にはさっぱり理解できなかった。
だがイーズ・アンの高尚な言動は、いつものことと言えばいつものことである。修道院の少女は聞かされる言動を理解できない自分の勉強不足こそを恥じつつも、気を取り直す。
「それで、そのぅ……今日も、お食事はこれでよろしいでしょうか」
「不足ない」
不足ない、という返事に、修道院の少女は改めて視線を盆に落とす。
一杯の赤ワインと、小皿に乗ったわずかなパンの欠片。何度確認しても、それが全てだ。
これで不足がない、というのは常人の理解を超えている。だが、これでもイーズ・アンの食事の量は増えていることを、修道院の少女は知っていた。
少し前までは、赤ワイン一杯が届ける糧のすべてだった。
それが少し前から、パンを受け取ってくれるようになったのだ。
ほんのひとかけらだ。指でつまんで、舌に乗せれば終わるような量である。決して腹が満ちることはなく、空腹がまぎれるかもあやしいような、食事と呼べるかも怪しいほどの量だ。
ただ、この修道院に来てからずっと完全に近い絶食を続けていたイーズ・アンの食事がわずかでも増えたのが嬉しかった。
だから、この変化を期にと修道院の少女は提案した。
「あの、イーズ・アン様」
「如何にした」
「よろしければ温かいスープもご用意できます。パンも、もう少し大きなものをお渡しできます。裏の畑で採れた野菜もございますので、お申し付けてくだされば、この修道院でも多少の彩は添えられます!」
「不要である」
修道院の少女の善意の申し出は、静かに拒絶された。
「この身に、余剰は非ざるものだ。原初にあって、人は多くを求めることなどしない」
「は、はい」
言い聞かされる説法に、しょんぼりとうなだれる。
確かに清貧は尊い。修道院育ちの少女にも、その精神は身についている。
豊かさは余剰の上に存在する。
貧しさにあって人はあまりにあっさりと死ぬが、どれだけの社会の下部に極貧が蠢いていようと、社会から豊かさが消えることはない。
修道院で一緒に育ってきた兄妹が死んでいった皇国最悪の時代を経て、少女は世の中の格差を知った。あれだけの人が死に続けた時代ですら、見上げれば決して飢えることない豊かさが存在したという事実が口惜しいと思うからこそ、修道院の少女は清貧を尊んでいる。
しかし、イーズ・アンの暮らしは度が過ぎているのだ。
食事はもちろん、彼女は生活において水すらも求めない。清らかな飲み水を口にしているところを見たことがないし、生活用水すらも請求されたことがない。
祈り、身の回りを整え、教会にて労役を果たし、また祈りに戻る。
彼女が望んで一日のうち手にするのは、たった一杯の赤ワインだけだ。
それでいて、彼女に身の穢れは一切ないのだ。
肌にも、髪にも、彼女がたまに取り換える修道服にも、生きていれば逃れられないはずの動物的な汚れはない。
彼女がその身から漂わせるのは、乾いた土の香りのみだ。
「それでは、失礼します」
不思議な人だ。
退出した少女は、しみじみと思う。常に超然として、明らかに人という枠組みから超越している。
しかし聖人とはそういうものなのだろう。
人という存在から一線を画するからこそ、聖人なのだ。神秘とは人の理解に遠く、軽々しく触れてよいものではない。
人の形をした神秘を、少女は恐れながらも理解できないがゆえに尊敬していた。
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