前皇帝


 レンは、夢心地のままでふらふらと部屋を出た。

 何が起こったのか、分かっているようで、分かっていないようで、やっぱりわかっていた。

 告白された。ぐうの音も出ないほどに迫られた。ほっぺたにキスをされた。

 全部が、生まれて初めてのことだった。

 感情がついてこない。頭がぐるぐるしている。自分がいまどんな感情を抱いているのか、よくわからない。

 衝撃が、レンから現実感を喪失させていた。地に足が付いていない。目の前の光景がふわふわしている。

 頬に、まだミュリナの唇の柔らかい感触が残っていた。


「やあ、レン君」


 ふらふらと神殿から出ようとしたとき、勇者に話し掛けられた。待ち合わせでもしていたのか、女剣士と一緒にいる。

 夢心地なふわふわした頭のまま、何も考えずにレンは返答する。


「勇者様? えっと、ミュリナの様子でも見に来たんですか?」

「いや、実は首都の神殿が何者かに襲われたっていうことでね。そこが聖剣を納めているところだったから僕にも連絡が来たんだ。襲撃はあったけど聖剣は無事だったっていう話を聞いて、いまちょうど帰るところでアルテナと合流したんだよ」

「はあ、そうなんですか」


 何やら遠くの首都で事件があったらしい。

 とはいえ、いまのレンは驚く余裕もなかった。一度も行ったことのない首都の事件が自分に関係あるとも思えない。気もそぞろな返答する。

 そんなレンに勇者は笑顔を向ける。


「それよりね、レン君」


 笑顔で、しかしよくよく見て見ればスイッチを入れているのか全く笑っていない瞳だった。


「うちの妹のミュリナが家出中に君の家にいた件を聞かせてもらえるかな? なにやら呼び方まで変わって――」

「死にたくなかったら余計なことは一切しないで黙ってなさいね?」

「――ごめんなんでもない」


 横にいた女剣士がにっこり笑顔で勇者の首筋に剣を沿わせていた。

 一旦は謝罪とともに黙った彼だが、やはり諦めきれないと訴える。


「いや、ちょっと待てくれ、アルテナ。やっぱりミュリナとのことは、兄としてちゃんと聞かないと――」

「はいはい。若い子たちの邪魔はしないの。あなたじゃないんだから大丈夫よ、レン君なら」


 諦め悪い勇者の襟を女剣士が引っ掴んでずるずると引きずっていく。レンはなにが何やら状態で、唖然として見送るしかなかった。

 しかし、ミュリナと何があったのか。

 一緒にいた四日間と、さっきのほっぺにキスの実感が、今さらになってじわじわと沁みてきた。


「あ、レン君。わたしから、一個だけ」


 勇者を強制連行する最中に、女剣士は不意にレンへと振り向く。

 何もかも承知している大人の笑顔で、けれども悪戯っぽく。


「ちゃんと同意と責任をとったなら、あの子のこと襲ってもいいわよ?」

「そういうことは言わないでください!」


 お年頃のレンは真っ赤になって、そう叫んだ。






 時を同じくして、違う場所。

 そこは、地下室だった。

 レンたちもいる都市の、どこかの建物の地下。

 寒々しい石造りの、重厚な雰囲気の部屋。灯りは意図的にほの暗くさせられており、人の恐れを本能的煽るようになっていた。

 部屋には、大きな円卓が置かれている。

 異様な円卓だった。

 入り口から最も遠い一席が、はっきりと上座として存在する。円卓だというのに、その一席への段差が作られ、一段も二段も上から見下ろす形になっているのだ。

 明らかに、奥の一点だけを掲げるためにある円卓だ。

 加えて異様なことに、円卓を囲む椅子は、その一席を除いて用意されていない。

 玉座と見紛うばかりの上座に、一人の少女が座っていた。

 畏れおおいほどに美しい、紫の髪をした人物だ。

 この都市の公園広場で不思議な看板を掲げている少女だ。だが、いまの彼女を見て、そうと気が付ける人間が何人いるか。

 常とはまるで雰囲気が違う。表情と雰囲気でここまで印象が違うのか。冷ややかな美貌の顔つきすらも異なって見える。

 彼女はひじ掛けで頬杖を突き、足を組んで鎮座している。

 いつもは付けている首輪すら外し、服は薄手ながらも雅なナイトドレスを身に纏っている。明るさも、清楚さも、激しさもない。

 ただ威圧的に、たった一人で彼女は座っていた。

 カチリ、と地下室に置かれている古時計の針が動く。

 ぼぉんと低くなり始めた刻限の音に、紫紺の少女が口を開いた。


召喚しゅっとうをめいず


 瞬間、円卓に人が招かれた。

 二十人以上の人間が、一斉に出現した。年齢が最も低いものでも、五十代以上。刻まれた皺の深さ、顔つきから一角の人物とわかる者ばかりだ。

 だが、彼らは全員面を伏せていた。

 一席しか用意されていない円卓。呼び出された彼らは、紫髪の少女が見下ろされ床に額をぬかづけ平伏している。

 異様な光景だった。

 ここにいるのは、この国。ハーバリア共和国にある裏社会のボスたちだ。

 この国に十八ある地方都市をそれぞれの縄張りとするマフィア。それに人口の多さゆえ三つある首都のマフィアを加え、計二十一の裏社会を牛耳るボスが揃っていた。

 少し前まで彼らは遥か距離を隔てた自分たちの縄張りで待機していた。それが、少女の一声で距離を越えて呼び出されたのだ。

 重い重い、鉛よりも重い空気が落ちている。古時計の時を知らせる音だけが鳴り響く。

 その余韻までなくなるのを待って、上座の少女は口を開いた。


「クズども」


 唯一の上座に座る少女は、そこにいる人物をひとまとめで『クズ』と断じた。

 反論は、一切ない。

 反社会的とはいえ、一つの組織の頂点にいる者たち。だというのに少女の暴言に対して反感すら彼らの頭には浮かばない。


「呼び出された理由を、わかっているな」


 聞き逃すことが決してできない、ハスキーボイス。『呼び出された理由』を『わかっているな』。響いた二つの玉音に、わかっていなかった数少ない人間も彼女が自分たちをここに呼び出した理由を理解した。

 怒りが集中する。余計なことをした人間へ殺意が注がれる。

 特に大きく震えたのは、首都に縄張りを持つボスの一人だった。

 紫髪の少女は、その老人に視線を定める。


「首都の神殿を襲ったな、クズめ」


 声の冷たさに打ち据えられた老人が、体を震わせる。


「ちょ、直願を、よろしいでしょうか……!」

「許す」

「あ、あなた様のもとに、勇者が向かったという報を得て、あの勇者が神殿に聖剣を返上したと知って、わたくしめは行動したのですッ」


 ぶるぶると震える声で、弁明をする。耐えかねたように、声を張り上げる。


「聖剣さえなければ、御身に敵う者などありえませぬ! イチキ様が愚かなる勇者を誅した後に、後継者があっても聖剣がその手に渡らぬようにと! そうとなれば、あなた様が皇として再び玉座に座ることも可能と思い――」

「黙れ」


 老人の口が閉じた。

 声を大にしようとした途中、舌を噛み切らんばかりの勢いで歯が組み合わさる。実際、舌先がわずかに噛み切られた。だが苦痛の声さえ漏らさない。漏らせない。

 紫髪の少女は上座から立ち上がり、おもむろに老人へと近寄る。


「あの聖剣は、皇帝以外に意味をなさない。それを手に入れようとしたと知れたら、どうなる。どんな愚か者だろうとも、なんのためにと考えるだろう。聖剣の意味を考えれば、理由に行き着く人間もいるだろう」


 平伏する老人の頭を、直上から見下ろす。

 直近の威圧感に、老人の矮躯から大量の冷や汗が流れ出る。


「お前は、『私』の生存を神殿に知らせたかったのか?」

「決して……決してそのようなことは……!」

「ならばお前は――『私』に対抗するために、聖剣を欲したのか?」

「――ッ」


 息を飲む音が響いた。

 老人が震える。ぶるぶると大きく。滝のような冷や汗が止まらない。


「そうか」


 答えなど、知れたようなものだった。

 ひどく、つまらなさそうな目になる。


「『私』が、貴様らクズどもに求めたのは、ビジネスだ。くだらないプライド。古びた因習。血で血を洗う争いに終始して消耗するしか能がなかった貴様らに、利による規範を求めた。だがクズの頭には、直接言い聞かせたほうがよかったようだな」


 全員の顔に、絶望が浮かんだ。

 円卓にあって、一人分の空いたスペース。そこにいた人間の末路を、知っている。

 彼女が現れたのは、およそ六年前。三年に渡る革命が終わり、国が変わりつつも荒れつつあった時だ。


『騎士隊より厳格なる必要悪』


 ここにいる全員が、当時の彼女の逆鱗に触れた。それにより、この国の裏社会は規律をもって統制された。

 彼女の威を知るからこそ、二度目はないと知っていた。


「抗争よりも、秩序を。身内の制裁はあっても、市民には平穏を。沈黙の掟に徹しろ。余計な敵を、二度とつくるな」


 一言一言で、少しずつその場に人間の思考が変容する。常識が塗り替わる。かくあるべしと定められる。

 彼女の言葉は、この国において実現が約束された現象に等しい。それほどまでに、彼女の言葉は重いのだ。

 そして今回の件の責任者へは、他の者に届かぬように、そっと小さく直言をささやく。


「その首、神殿に捧げろ。貴様は皇国主義者の生き残りであり、私怨で教会を襲った。ここから帰った後、次代を指定し、くだらぬ隙を見せて捕えられろ。お前の頭から『私』の記憶は消え、皇国思想の妄執に取り付かれろ」


 その言葉を否定できるものは、いまではこの世にたったの一人。

 聖剣を持った勇者だけだ。


「あ、ああ、がが」


 自分の運命を聞かされた老人の思想が、変容する。強欲な老人が、蒙昧な主義者に。猜疑心が強く周到だった彼の運命が、ここで破滅を定められた。


「わかっているとは思うが」


 少女は上座の席に戻り、居並ぶ人間を睥睨する。


「これ以上、貴様らクズどもの存在価値を、『私』に疑わせるな」


 全員が、強く額を床につける。

 それを見て、少女は玉音を響かせる。


償還あるべきにかえれ


 玉音に従い、ここにいた人間はもといた場所に戻った。

 ハーバリアの名を冠した国土にある限り、彼女の玉音が届かぬことはない。彼女の声は、常に絶対だった。

 一人残された少女は、そっと目を閉じる。


「……」


 なんという、くだらない茶番劇。先ほどまでの自分の言葉の、なんと軽いことだろうか。皇帝が如き雰囲気を霧散させて、少女は素朴なままに息を吐く。


『騎士隊より厳格なる必要悪』


 この国には、そんなものはなかった。

 闇の規範であるおとぎ話は、三人の子供の寄る辺だった。

 捕らえられて、投げだされて。

 無我夢中で探り当てた先。おとぎ話を使った。

 一人の少年が死んでしまった時、決して許せなかった少女が二人いた。

 一人の少女の見識と学識によってシステムがつくられた。

 一人の少女が皇帝であったという肩書が強化した。

 三人。血のつながらない兄妹による欺瞞。


「……それも、終わるのかも」


 イチキから聞いた話に、憂いではなく、わずかな期待を込める。

 兄の夢を叶えた。兄の敵を討った。この五年、革命後の裏社会を抑圧することで平穏の一助となれた。

 必要悪がなくなるのならば、ただの悪として討たれるのみだ。

 自分はイチキとは、違う。あのかわいい妹は徹頭徹尾、被害者だ。

 だが自分は、どこまでいっても加害者なのだ。

 自分に、幸福になる資格などない。

 だから今度こそ、この命で贖って償えるというのなら――終わりとしては悪くない。

 五百年続いた皇国の、最後の皇帝だった少女は、そう思う。

 その時に自分を倒してくるのは、誰なのか。

 真っ先に浮かんだのは、最有力である勇者ウィトン・バロウではなかった。


「……?」


 なぜかちょっとだけ兄に似ている少年の顔が浮かんだのが不思議で、小首を傾げる。

 あの少年の直近の相談内容を思い出し、あんな女の敵のお手本なんて知ったもんかとふくれっ面に。反省もしないでまたきたら追い払ってやると唇をすねて尖らせる。

 用の済んだ席から、少女は立ち上がって部屋を出た。

 三日間、連続で休みにしてしまった自分の居場所に戻るために。

 明日からは、また全肯定奴隷少女ちゃんの営業が再開だ。

 灯りの消えた地下室に、たった一席しかない座がもぬけの空で残された。

 いまはハーバリア共和国となった前身の、ハーバリア皇国の最後を象徴するような光景だった。

 廃位となった最後の皇帝の資料はほぼ消失しており、世間では性別すらも知れていない。名前からおそらくは女性であるとされているが史料的で確定できる情報はなく、即位、廃位の時の年齢も不明だ。皇帝の悪行の証拠は手つかずで残されていたというのに、彼女の人物についての記載は徹底的に消されていた。

 まるで彼女の記録が知られると、誰かにとってひどく不都合なことがあったかのように。

 ゆえに治世の結果でもって、まぎれもなく最低の支配者の一人として、その名前は歴史に深く刻まれた。

 かつて西方を支配し、東方への遠征を繰り返し、発生するダンジョンをさばき切り、魔王を産むことなく大陸で最も版図を広げた功績で代々の玉音の秘蹟を得た皇族の、第十七代目皇帝陛下。

 唯一、皇帝と顔を合わせ命令を届ける役目を担い続けた伝令官は、勇者に助けられた後「暴利をむさぼる冷酷無慈悲な皇帝だった」と涙ながらに語った。

 在位、八年三ヶ月。

 記録に残らぬ即位年齢、三歳。

 廃位、十一歳。

 政務などこなせるはずもない年齢であることはつまびらかにされぬまま、決して成し得ぬ共産の汚濁を一身に被さった一人の無垢なる少女。

 その御名を、フーユラシアート・ハーバリア四世といった。

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