§5
昭和二十年八月十五日を迎えた後の日本には、とにかくも住宅が不足していた。
空襲で主要都市が灰燼に帰した所に、戦地から、外地から、五百万とも言われる日本人が内地へと引き揚げてきたのだから、家が足りよう筈もない。
建築学界隈は、今度こそ、新日本建設のこの機会に、不燃都市を築かんと意気込んでいた。しかし現実的な問題として全ての住宅を鉄筋コンクリートで作るには、資材も、資金も、時間も、何もかもが不足していた。
しかし、それでも、遅々としてではあったが、不燃化への歩みは止まらなかった。
戦前の同潤会を伏流とする住宅公団や宅地開発公団は、不燃都市を明確に志向した。法制度も、不燃化を後押しした。三階建て以上の建物は耐火にしなければならなくなった。また一般家屋でも、耐火、準耐火構造の家屋には、住宅金融公庫の優遇措置が受けられた。これは当時勃興し始めた非木造のプレハブ住宅に多く適用された。板壁板屋根の旧来な木造家屋は徐々に姿を消し、木造家屋にも瓦屋根やアルミサッシが普及するようになった。
かくしてかつては頻発していた大火も、高度経済成長期の終わり頃には、その頻度を減らしていた。日本人は、火事を抑えこむことに成功しつつあったのだ。
無論、副作用もあった。国内での建築木材の需要が下がる一方で木材輸入自由化によって国産材は価格競争力を失い、林業は衰退するようになった。
終戦直後の山林は、戦中の燃料・木材需要による濫伐・過伐によって禿山化しており、保水力の低下による水害の発生などが問題になっていた。これらを解消する目的で、戦後は政策的に植林を進めていたのだが、エネルギー革命によって薪炭需要が激減、さらに木材自由化によって国産材の販売も低迷。間伐等の手入れをされなくなった山林が瘦せ、山林資源管理の面から問題になっていた。
かくして二十一世紀が近づく頃には、国産材の利用促進が政策的に議論されるようになった。特に、公共建築物に国産材を使えないか、という意見は強くあったが、一方で公共建築を不燃建築にすることも必須とされた。
ここに、不燃木造建築なるものが登場する素地ができたのである。
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