§4

 実験はまず大成功と言って良かった。

 翌日から実験データの取り纏めが始まり、写真の現像、印画、報道取材対応、世話になった各方面へのお礼など、慌ただしく時間が過ぎていく。

 夏休みが終われば授業が再開され、教師、院生、学生共々、日常へと回帰していく。忙しない日常の中で、何度となく学内での検討会を繰り返しながら、実験結果の分析が積み上げられた。

 秋が深まり、冬が訪れる頃、学術振興会にて最終的な報告会が行われ、建築学会誌「建築雑誌」五七九号に論文が纏められた。

 実験によって、過去の推定は覆され、最高八百度とされていた火災温度は一千二百度近くにまでに達することが明らかになり、またその燃焼速度も、従来の予想を裏切る高速度であることが判明した。

 木造家屋は、圧倒的に、火災に弱いのである。

 家一軒が僅か十五分で燃え尽きるとなれば、消防は駆けつけることすら難しい。当時は電話もさほど普及していない時代であるから、消防は望楼(火の見櫓)による監視と、都市部の一部に設置された火災報知機とに火災発見を頼っていた時代である。迅速な初期消火は隣近所の互助組織にまず委ねられるわけであるが、この速度では大きくは期待できない。

 そして直に炎が接しなくても、輻射熱で発火するとなると、延焼を防ぐのは一層難しくなる。

 木造住宅の蝟集する下町の住宅地で一度火災が発生すれば、畢竟、大火へと進展するわけである。定期的に大地震に襲われる帝都東京にあっては、このことは次なる災禍においてもまた火災が猛威を振るうであろうことを意味する。

 当然、各方面に与えた影響は大きかった。

 何より、実験の必要性への理解が、一気に広まった。

 翌年、第二回実験が行われることになった。最初で最後かと思われていた実験が、あっさりと続けられることになった。

 昭和九年八月二十五日の第二回実験は、再び本郷キャンパス御殿下運動場にて、今度は二棟を建てての実験となった。使用した建物は、これまた附属病院の近くにあった通称「めくら長屋」で、長屋を解体して二軒の家に仕立て直し、面積三倍容積五倍となっての実験となった。第一回となった前年の実験の反省を踏まえた改良に加え、新たな基軸も付け加えられた。

 特に、当時普及を初めていた電燈線について、これの漏電が火災の原因になるとの風聞を打ち消すため、電燈線を引いて電流を流しておくといった準備がなされた。

 事実として記載しておくならば、電燈の普及によって、蠟燭やランプの火の不始末による火災が大幅に減ることになるのだが、この実験によって漏電が火災の主要因足り得ないことが明らかにされたことは、以後の普及に好影響であった。

 長屋を分解再構築して作った建物は片方が木造平屋、もう片方が木造一部二階建であり、二階建建築の火災を実験する狙いもあった。前回は可燃物相当の木材を置いた試験家屋は、今回は実物の畳などを購入、搬入せしめ、より実際に近い条件での実験となった。

 前年は油を撒いた点火であるが、この年は全くそのようなことをせず、燭台を転倒させて襖に引火させるという手順を取った。

 両家屋の距離は三メートル。

 この実験では実際に輻射熱で延焼が発生し、隣の家屋が燃える所まで観察したのであるから、これまた反響は大きかった。木造家屋は密集させてはいけないのである。

 一方で、木造家屋の耐火・防火を考える時、その耐熱温度・時間にも、一千二百度に十分は耐えねばならぬとの、一定の目処が付いた。屋内で炎の延焼する経路、その温度変化の曲線など、その後長く建築基準に使われる示準が生まれた。

 世界にも類を見ない知見が得られた一方で、逆の不安も生じたのであろうか、三年後の昭和十二年、鉄筋コンクリート造集合住宅である、同潤会清砂通アパートの一室に於いて、火災実験が行われるに至った。鉄筋コンクリートは火災に強い筈であるが、本当にどの程度強いのかを確認することになったのだ。

 幸い、この実験は、同潤会アパートの耐火性を証明する結果を得た。鉄筋コンクリートのアパートは、燃えるにしても一室の中だけに留まり、隣室や上下への延焼は防げると判った。

 実験は続いた。

 昭和十三年。昭和八、九年の実験結果から検討された幾種類かの防火設備の検証を目的の一つとして、東京帝大による第三回実験が挙行された。最早本郷キャンパスに実験は納まり切らず、附属病院の結核病室、工部大学校宿舎であった建物を、月島の埋立地に移設し、五月と六月の二次に亘り実験を行った。

 前二回の実験とは異なり、住宅ではなく、事務所などの商業建物を想定し、防火設備を施しての実験であったが、特筆すべきは陸軍が関わっていたことである。昭和十二年に始まった支那事変により、時局の変化を受けての実験参加であり、点火用に焼夷弾を提供し、第二次実験で使用された。これらの結果は昭和十四年の「防空建築規則」法制化に活かされる。

 このような流れの中で、東大以外でも次々と実験が行われるようになった。防火を目的としたもの、消火訓練を目的にしたもの、様々であったが、日本に実大火災実験を根付かせることとなった。

 防火・耐火についても、進展があった。木造住宅にどのような改造を施せば、最低限度の耐火性能を持たせられるかについて検討が進み、結果として木造家屋の壁をコンクリ塗にする〝木造モルタル〟という日本独自の建築様式が準耐火構造として誕生した。

 ただ、この〝木造モルタル〟様式については、内田祥三は後年ずっと「やめてしまったほうがいい。ああいうのは推奨すべきではない」と言い続けていた。当時九割以上を占めた木造住宅の燃え易さは尋常ではなく、ないよりマシであるから、ともかく他の弊害には目を瞑って、已むを得ず考案されたものに過ぎず、理想は鉄筋コンクリート造であると言い続けた。

 だがそれらの訴えもまた昭和二十年の空襲には太刀打ち出来なかったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます