第二話



 

「――――ぉおおおおおおおおおおおおあああああああああああああッ!!!???」

 

 走った。

 とにかく走った。

 プライドを捨て絶叫しながら、ごつごつとした、気を抜くと足をとられてしまいそうな青がかった黒灰色の岩山を駆け下りる。

 流石は高地と言うべきか、目の前には山と高原、森と湖が織り成す絶景が広がっているが、今はそんなものに注目している暇もなければ余裕もない。

 

【――――――――ッッッ!!!】

「…………っう!? あぁッ、畜生!!」

 

 背後で響いた山を揺るがさんばかりの咆哮に身を竦めながら、しかし恐怖に後押しされ、僕は限界を超えている足に鞭打ち、速度を更に上げる。

 

 ――このままでは追いつかれる。

 走る背に嫌な汗が伝う。

 

「――咲耶姫! 僕が悪かった!! もう分かったから戻してくれ!!」

 

 耐え切れず、思わず叫ぶと、しばらくして脳内に呑気な声が聞こえる。

 

『……そう言われても。悪い、時間制限の設定だから、どうにも。申し訳ないけど、あと一分十四秒だけ逃げてくれ』

「うっそだろおい!! アレからあと七十秒オーバー逃げきれと!?」

『いや、ちょうど七十秒ぴったし、あ、今六十八』

「カウントダウンの正確な報告はマジで不毛だから止めろ!! ってんなこたぁいいんだよ、何とかできない!? ほんとに!? 死ぬよ? リアルに!!」

『…………』

 

 無言で念話(?)が切れた。

 

「……………………」

 

 委細承知。

 このまま逃げ切れという事らしい。

 

【――――――――!!!!】

 

 再び、声とも音とも形容できない、暴力の様な轟咆が山肌に走る。先ほどよりも音量が大きい事に戦慄する。

 

「~~~~ッ!!」

 

 振り返りたくなくとも、振り返ってしまう。

 

 そして、その姿が目に入る。

 

「くそッ!! あんなだったか、僕が!?」

 

 空に浮かぶ黒い巨躯。

 コモドオオトカゲをさらに凶悪にしたような頭と体、腹を除く全身をくまなく覆った鈍く光る鱗。そして、背からその背から生えるイメージ通りに蝙蝠の形をした巨大な翼。

 

 ドラゴン。

 ジェット機に匹敵する大きさと質量を持った生物が、今僕のすぐ後ろと言える位置にまで迫っていた。

 体感、百メートルくらいはまだ距離があるだろうが、あの怪物にとってそんな距離はほぼ直近と言って差し支えないだろう。

 

「畜生、こんなのあと五十秒なんてとても持たねえよ!!」

 

 別にこんな口に出すだけ絶望度が増す現状、言う必要はないのだが、言わないと自分の中でとても消化できそうにない。独り言、超大切。

 ……しかも、僕の直感というか、記憶通りなら、アレ、炎を吐くんじゃ……

 

【…………、――――ッッ!!】

「ちょ、のわあああああ!?」

 

 直後、僕の思考をなぞるように、すぐ頭上を巨大な青白い炎の柱が走り抜けた。黒灰色の山肌が光で真っ白に照らされる。

 髪が若干焼けた。

 あ、これ死ぬわ、と思った瞬間、脳内に再び咲耶姫の声が響いた。

 

『中也!! 今すぐ右前方に見える断崖に飛び込め!!』

「は? 死ねと!?」

『違う、その断崖は君の『†ANOTHER WORLD NOTE†』によると、地上まで二千メートルの高さがある!!』

「題名をいちいち言わなくて良いんだぜ!? それで、それがどうした!!」

 

 叫ぶと、頭の中に高音の叱責が飛ぶ。

 

『鈍い!! 君の体重なら、空気抵抗含めて地上までの落下時間は恐らく四十秒前後だ!! その谷まで走って七、八秒! 合わせ、五十秒弱だ! 残り時間の四十五秒に十分間に合う!!』

「……!!」

 

 考える暇など無かった。

 振り返らず、迫りくる質量を感じながら進行方向をやや右に修正、空中に途切れている岩の下り道をひたすら走る。

 そして、

 

「だああああああ、信じてるぞ、神様!!」

 

 意を決する暇もなく、僕は思い切り足元の岩先を蹴り、跳んだ。

 なるべく空気抵抗が発生するよう、背中から両手両足を広げて落ちる。上を見ると、ドラゴンが目標を見失ったのか、速度を落とさぬまま視界を高速で横切るのが見えた。

 

「……ッ! …………、……!!」

 

 下を向いて落ちなかったのには理由がある。一つはゴーグル等を付けていない以上、風圧をモロに受ければ目が死ぬという事、そしてもう一つは、

 

『勿体ない。下向きに落ちれば超パノラマが見れたのに。あ、分かったぞ、さては怖いんだな?』

「うるさい! まさしくその通りだよ!!」

 

 ……単純に、超速で迫りくる地上を見たくないという理由だった。

 だが、どんなに目を逸らそうとも、速度が右肩上がりで上がっている事は嫌でも分かる。それを認識するだけでも、喉が干上がってゆくのが自覚できた。

 

「……ッ、……っ、ぁ、あと何秒!?」

『えー、あと十五秒』

 

 自分で訊いておいて何だが、それは地上に激突するまでか、この試験転移が終わるまでか、どっちの事だろうか。

 

 ……。

 ……………。

 …………………………。

 

 きっかり、十五秒を数えた瞬間。

 

 体から、あらゆる抵抗が消えた。

 

 

              ◆

 

              一時間前

 

              ◆

 

 

 要するに、僕に異世界製作を手伝え、という事らしかった。

 

「…………」

 

 結局のところ。

 いくら考えようとも、今現在異世界どころか終末世界にいる僕に、選択肢は無かった。

 

「……で? 異世界を作るっても、一体何を……」

「いや、まあここは既に異世界だけどね」

 

 荒野を背に、相変わらず詭弁じみた事を言う少女――咲耶姫。

 僕の呆れたような視線を受けてか、彼女は弁明するように言う。

 

「――いや、聞いてくれよ。いくら私が神様だってね、指を一つ鳴らすだけで世界は作れないさ。まずもって、ここに来た当初は大気すらなかったんだぜ、この世界」

「…………」

「で、とりあえず地球の日本っぽく環境を整えてはみたものの、これがまた未知の生命体とか病原菌とか生まれちゃってさ。とても、人の住める環境にはならなかった。曰く、創造主は世界を七日で作ったらしいけど――」

 

 私は七十年かかっちまったよ、と笑う少女。

 

「…………」

 

 何というか。

 妙にリアルな上に無駄に壮大な話で、思わず顔を引きつらせてしまう。

 

「仮にも神様でさえ、そんな試行錯誤しなきゃならないんだったら、いよいよ僕は必要なくないか?」

「いいや、世界の基本骨子は既に作った。後はデザインをインストールするだけだ」

「インストール?」

「そう。――この本に、ね」

 

 そう言って、彼女は右手のひらを上に、軽くかざす。

 すると、周囲から細かい光が糸のように寄せられ、集まり、少女の手の中で一つの形を組み上げてゆく。

 

「……、」

 

 もしかしたら、初めてかもしれない。

 こうして、神様らしい超常の力を見るのは。

 異世界に来たときは、特に何の現象もなく一瞬で来たから魔法めいたものは感じなかった。だが、これは。

 

「ま、別に本じゃなくてもいいんだけどね。私のイメージ的に、こう、設定集みたいなイメージでさ」

 

 彼女の手に収まった、光で編み上げられた一冊の本。

 大きさと厚さは、小さい辞書程度のものだ。表紙は真っ白で、彼女の言葉通り、何も書かれていない。背表紙、裏表紙も同様だ。

 咲耶姫は本を軽く振り、

 

「でねでね、これに私が情報を入れると、世界に反映される仕組みになっているんだぜ? 凄いだろ」

「…………」

「あー、何かコメントくれない? 一応、これからやることの説明なんだけど」

「え? あ、ああ……」

 

 彼女の言葉で、自分が呆けていた事に気づく。

 僕は何となく頭の後ろに手をやり顔を逸らし、だが、本から目が離せなかった。

 

「いや、異世界っぽいもの、あったのか、ってな」

「へ? ああ……そうだね。――なにさ、そんなに異世界に行きたかったの?」

 

 そうだな、と呟くように返しながら、僕は改めて自分の立つ世界に目をやる。何もない、白の大地に灰の粉塵が舞う世界。

 

「まあ、な。そりゃあ学校にも行かず、あの部屋にずっと引き籠もっていれば、やることなんて読書とかゲームくらいだ。少しくらいの憧れは、あるさ」

「ふうん。……そっ、か。うん」

 

 じゃあ、と咲耶姫は僕と並んで眺めるべきものを無い世界を眺めながら、僕に問う。

 

「もしかして、割とショックだった? 想像していた世界と違って、こんな、なーんにもない世界で?」

「多少はな」

「ふふふ、そうかいそうかい。――でもまあ、安心したまえ人の子よ!!」

 

 咲耶姫は突然大きな声を出したかと思うと、彼女は大仰な口調と共に僕の前に回り、ばっ、と片手の中で本を開いて僕に突きつける。

 

「――これより、君はこの世界を自由にデザインできる!! いいか、好きにだぞ!? 魔法も近未来も!! それこそエルフだろうがドラゴンだろうが好き放題!! この白紙の世界に、君の妄想と想像と性癖を好きにぶちこめる!!」

「何か変なの入んなかったか、今!?」

「気にしたら負けだ!!」

 

 気にしたら負けらしかった。

 

「あのさー、さっきも言ったけど、何で僕の力が必要な訳? 神様があれこれやってできないものを、一介の人間にどうにかできるとでも?」

 

 頭をがりがりと掻きつつ言うと、神様は両手を軽く上げ、苦笑する。

 

「いやー、私もね。百三十年程考えたものの、もうネタ切れなんですわ、これが」

「あー、そういう……」

 

 成程。

 それで僕の様な陰気な引き籠もり男の想像力を借りたいという訳か。

 

「そゆことー」

「はァ……まあ、拒否権はないしね……。好きな世界を創れるっていうのは魅力がある。いいよ、協力してやるよ。僕にできる事なら、な」

「ふふん、期待してるよー。君の想像力、フルに活用してくれ」

「はいはい。で? 僕は何をすればいい? ここで適当にアイデアや設定を言えばいいのか?」

「あ、とりあえずいいや」

「?」

 

 そこはかとなく、嫌な予感を抱えながら疑問を抱くと、咲耶姫はどこからか妙な黒い冊子のようなものを取り出した。大きさ的に、ノートのようだが。

 それにしても、あの表紙の白文字、どこかで見覚えが……。

 って。

 ちょっと待て!!

 

「お、おい咲耶姫!! それは……」

「ご明察~。とりあえず、お試しに君の黒歴史を借りるぜ☆」

 

 

     ◇

 

 

「――で、どうだった? 自分が中学生の頃に書いた黒歴史の世界を体験した気分は?」

「ああ、ファンタジーが優しい世界じゃない事が良く分かったよ……」

 

 再び、白色の世界にて。

 すっかり元に戻ってしまった世界で、僕はしゃがんでこちらを覗く咲耶姫の前でうつ伏せにぶっ倒れていた。

 

「いや、中学生が書いた中二病全開の世界設定にしては割とまともだったぜ。ドラゴンの咆哮一発で山が吹き飛ぶとかそういう設定だったら今頃君は消し炭だった」

「あ、ああ。その点については十四歳の僕に感謝だよ……いや本当に」

 

 つまり、咲耶姫がやったこととは、僕が中学校の時に書いた黒歴史のノートを世界にぶち込むという蛮行だった。

 時間制限付きで、十分間というものだったが。

 

「……にしても、†ANOTHER WORLD NOTE†って。なーんで男の子って十字架マークとかアルファベットとか好きなのかねえ。私には理解不能だ」

「っぐ、ひ、人の古傷抉らないでくんない……?」

 

 なんかもう、色々と限界だった。

 つーか、なんで残ってんだよ、あのノート。

 

「でも、流石にあんな世界、使えないよね……。中世の世界観でドラゴンが闊歩する世界かー。悪くないけど、あんなのが大量にいたら一月で人類滅ぶよ」

「だろうな……」

 

 咆哮一発で山は消し飛ばないものの、あの膂力と炎を吐く力だけで十分パワーバランスが狂っている。

 

「今日はもう終わりにするかなー。君も疲れてるだろうし」

「そう、だな。マジ疲れた。超疲れた」

 

 ドラゴンに追われるとか、初体験過ぎる……。

 

 体が鉛のように重い。疲労が泥のように全身にまとわりついていた。正直、このまま眠っても構わないかもしれない。

 と思うと、うつ伏せのまま、うつらうつらと僕の意識が曖昧になり始める。

 

「……ん、なんだ眠いのか中也。まあ、現実世界ではもうそろそろ夜だしな。どれ、お前を一度戻してやろう」

「お、おー。頼むわ……」

 

 戻す……、戻す?

 何のことだ、と思いながら、僕はゆっくりと夢に落ちていった。

 

 

     ◇

 

 

 ――この少年は、やはり危うい。

 

 窓からの月明かりに僅かに照らされる暗い部屋の中。

 咲耶姫は少年の身体に魂が戻ったことを確認して、静かに息を吐いた。

 

 彼女は、中也そのものを異世界に持っていった訳ではない。

 少年の、いわゆる魂と呼ばれる部分を、異世界へと連れて行ったのだ。だからあの時、公園で彼を異世界に連れて行っても彼の肉体と精神は正常に作動して、本来彼がするべきだった行動をなぞり、こうして部屋に戻っている。

 

 心臓や呼吸はあるが、中身が無く駆動する人形のようなものだ。例えば家族などとの会話に不自然を生じさせたかもしれないが、彼はそもそも家族とあまり会話を行わない。

 

 都合が良い、とは思うが。

 

「――――、」

 

 は、とため息を吐く。

 これから先、彼の魂を異世界に持っていくのは、夜の間のみとなるだろう。昼夜の感覚は、異世界の方を半日ずらせば良い。

 

 しかし、問題はそこではなく。

 

 ……順応力があまりにも高すぎる。

 

 あの時、あの場所。

 夕刻、彼が散歩で通りかかった公園で、自分が声をかけた時。異世界に行きたくはないか、と他の誰がどう聞いても世迷言にしか聞こえないその言葉に。

 

 

『――ん? ああ、いいよ』

 

 

 彼は。

 あの、中也という少年は。何のためらいも無く、頷いた。

 異世界に行ってからも、そうだ。あの世界の状況に色々とツッコミはしたものの、転移した事や、その後の試験的な異世界製作にも彼は特に疑問や躊躇を挟まなかった。

 

 だが、それは順応力ではなく、ただの自棄だ。

 

「――生きなければ、残せないんだぞ、中也」

 

 そっと、呟く。

 面と向かって言えない事に、僅かな苛立ちを感じながら。


 

 

 

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