第六章 ララバイ──Lullaby


「──最初は十八歳の真面目な女子大生、次は二十一歳の強盗と知り合いのウェイトレス。そして今度は三十三歳の離婚歴のある会社員か」

 運転席の窓を開けてそこから片肘を出し、左手だけでハンドルを持った芹沢は自棄気味に言って鍋島を見た。その渋い表情は効きの悪いエアコンのせいであり、事件の被害者がまた一人増えたせいでもあった。

「この次は四十代の家庭の主婦と違うか」

 助手席の鍋島はうんざりという感じで言って苦笑した。

「そのまた次は五十代のお局OLかも」芹沢がさらに続ける。

「最後は百歳の双子だったりして」

「そこまで行ったらもう俺らの管轄外や」

「とにかく、これ以上続けられちゃたまらねえ。丸一週間、休みなしだ」

「しかも一日十八時間──いや、もうちょっとで二十時間労働や」


 二人の乗った車は東淀川区の下新庄しもしんじょう付近を、阪急京都線を右に見て走っていた。今朝の五時に発見された第三の被害者・田中耀子たなかようこの別れた夫を訪ねるためだった。車のデジタル時計は九時十五分を指しており、早くも夏の強い陽射しがフロントガラスの真正面から照りつけていた。

「西端千鶴は殺られる前に逆恨みだって言ってたんだろ」

「ああ、トイレから聞こえてきた声の主が彼女やとしたら、やけど」

 鍋島は煙草に火を点けながら答えた。「まず間違いないやろ」

「それが正しいとしたら、彼女自身には殺される理由はないってわけだ。しかもこの三件の犯人が同じやつだと考えられる以上、犯人はこのうちの誰か一人とだけ繋がりがあるってこともありうるぜ」

「それでもやっぱり三人とも、犯人を知ってる誰かとは関係があるはずや。でないと逆恨みってことさえ成立せえへんやろ」

「そうか、となるとやっぱり鍵になるのは三人に共通する人物ってことか」

「宝石強盗の方はどうやろ。連中の一人が偶然西端千鶴と知り合いやったってだけなんかな」

「そうだろ。昨日お嬢さんが逃がした男、西端千鶴が殺されたって聞いてやけに驚いてたってよ」

「芝居やないんか?」鍋島は怪訝そうに言った。

「さあ、何とも言えねえな。けどそもそも横浜で強盗事件を起こした連中が、逃走先でわざわざこんな派手な殺しに関わるってのもどうかと思うぜ」

 まあな、と鍋島は頷いた。「やっぱり、殺しそのものとの関連性は認められへんってことか」

「あれこれ推測するより、三人の被害者の身辺を徹底的に洗う方がこの際手っ取り早いんじゃねえの」

「……ええ加減、こんなパズルゲームみたいな話にはうんざりや」

 そう言うと鍋島は両手を後ろに回し、咥えていた煙草から勢いよく煙を吐いた。


 やがて車は古ぼけたコンクリート造りの七階建ての建物が規則正しく並ぶ公団住宅に到着した。二人は三棟の前で車を降り、そして建物中央にある広いだけでまるで殺風景なエントランスへと入っていった。

 六階の突き当たりの部屋で二人を迎えたのは、背だけがやたらと高くて他にはこれといって特徴のない、三十代半ばの不健康そうな男だった。

山崎賢作やまざきけんさくさん?」

 鍋島が天を仰ぐように男を見上げて言った。

 男はじっと二人を見て頷いた。「警察の方ですね」

「西天満署刑事課の鍋島と芹沢です。今朝はわざわざお電話をいただいてありがとうございました」

 鍋島は儀礼的とも言える手早さでブルゾンのポケットから警察バッジを出し、男に示すとすぐに引っ込めた。

「テレビを見てたら、耀子の名前と顔写真が映し出されたもので」

 男はぼんやりと言った。「とにかく、お入りください」

「失礼します」

 2LDKの部屋は綺麗に整頓され、掃除も行き届いていた。しかしそのこぢんまりとまとまった家具や無駄のない電化製品からは、ここが男の一人所帯であるということが容易に伺い知れた。鍋島にせよ芹沢にせよ、こことたいして変わりのない部屋で長い間暮らしているので、こういう色気のない部屋には見ただけでピンとくるものがあったのだ。

 山崎賢作には、自分の元女房が死んだ今でも、あまり驚いたり悲しんでいる様子はなかった。二人の刑事を客間に座らせ、自分は落ち着き払って台所でコーヒーの豆を挽いている。しかも、わざわざ警察に自分の存在を知らせる電話を入れるなんて、別れたとはいえちょっと冷静過ぎやしないか。

 自分から別れを告げた女房に今になって未練たらたらという、始末の悪い友達を持つ鍋島ではあったが、目の前の山崎のような男も、逆に何となく気に食わなかった。別れた男と女のあるべき姿としては、いったいどっちが正しいのだろうと、鍋島は真剣に考えたりしていた。

「最初に言うておきますが」

 ダイニングの椅子に腰を下ろし、山崎は客間の二人に向かって言った。

「耀子を殺したのは私ではありませんよ」

「そのようですね」と芹沢は面白くなさそうに言った。「ただ、一応それを証明していただかないと」

「アリバイですね」山崎は頷いた。「彼女が何時に殺されたのかは知りませんが、昨夜の八時以降なら証明できると思います」

「どなたかとご一緒やったんですか」鍋島が訊いた。

「ええ、今朝の六時頃までずっと」

 そう言うと山崎は立ち上がり、キッチンの流し台に置かれたコーヒーメーカーのところまで行った。「ここへは七時前に戻ってきました」

 女のところだな、と芹沢は思った。そして、この男はそれを訊いてもらいたがっている。自分から嬉しそうに女の存在をひけらかすあたり、入れあげているのはこの男の方だ。じゃあ女はどうなんだ?……ふん、誰が羨ましいもんか。

「相手はどなたです?」鍋島が無感情に訊いた。

「新地のクラブでフロアレディをやっている女性です」

 カップにコーヒーを注ぎながら、山崎は嬉しそうに答えた。

「そうですか」鍋島は小さく溜め息をついた。

「ホステスだと信用できませんか?」

「いえ、そういうわけでは」と鍋島は顔の前で手を振った。「その方のお宅に伺ってもいいでしょうか。急ぎますので、この後すぐってことになりますけど。夜のお仕事をなさってる方の中には、朝早くお宅にお伺いするのを嫌がる方がいらっしゃるもので」

「構わないと思いますよ。ただ──事前に連絡を入れていただいた方がいいかと」

「お留守とか?」

 トレイの上に三つのカップを乗せて、山崎は黙って客間に入ってきた。そして低いテーブルの上にそれらを並べると、二人の向かいに座って言った。

「化粧してないかも」

 二人は思わずのけぞった。──馬鹿か、こいつは。

「別に、クラブの客として行くんじゃありませんよ」芹沢が笑って言った。

 そりゃそうですね、と山崎は照れ臭そうに頭を掻いた。「あ、どうぞ、コーヒーを」

 二人は軽く頭を下げ、カップを少し手前に引き寄せた。

「ところで話は変わりますが、お二人の離婚の原因をお聞かせ願えませんか」

「浮気ですよ」山崎はさらりと言ってコーヒーを飲んだ。

「それは、山崎さんの?」

「さあ、どっちなんでしょうね」

「あの、詳しくお話しいただけませんか? ちょっと分かりづらいもので」

「でしょうね」と山崎は笑った。「刑事さんはお二人とも、まだお若いから理解されにくいと思いますよ」

 二人はちらりとお互いの顔を見て、苦笑いをした。山崎の一つ一つにもったいつけた話し方が、二人には鼻につき始めていたのだ。どうでもいいから早く喋っちまえよと、芹沢は喉のあたりまで出かかった言葉を呑み込んだ。

「──八年前に結婚して、最初の四、五年はうまく行っていました。お互い仕事を持っていて、子供もどうしても欲しいというわけではありませんでしたから、二人でも結構愉しかったんですよ。それが……どう言うんですかね、マンネリってやつですか。お互いのやることなすこと、いちいち気に掛かるようになってきたんです。それも、ある時期突然」

「それは、どちらからともなく?」

「どっちかって言うと、彼女の方からでしょうね。私が比較的家のことにマメな方なんで、仕事を持つ彼女にとっては、助かると言えば助かるけど、逆にプレッシャーに感じることも多かったんやないですか」

「じゃあ、田中さんが先に浮気を?」

「いえ、それがどっちだったのか、今でもはっきりとは分からないんです。自分が浮気をしているときって、女房にバレているかどうかは気になっても、彼女にもそういう相手がいるかどうかなんて、そんなこと考えないもんですよ。でも去年の秋に私の方から離婚を切り出したときには、彼女にも男はいたようです」

「それじゃ、離婚は円満に成立したんですね?」

「ええ、まったく円満でしたよ。身内からはいろいろと言われましたが、すべての話し合いが終わるのに一ヶ月も掛かりませんでした」

「そうすると、山崎さん側には田中さんに対して何の不満もないわけですね?」

 芹沢の言葉に山崎の顔が曇った。「だから言うてるでしょう。私にはちゃんとしたアリバイがあるって」

「いえ、あなたを疑ってるんじゃありませんよ。ご存じかも知れませんが、田中さんを殺害した犯人は、先に起こった二件の事件にも関係していると考えられています。その中の一人が、どうも逆恨みによって被害に遭ったとみられているもので……田中さんの場合も、山崎さんご本人でなくても、お知り合いの誰かが何らかの理由で田中さんか、もしくは山崎さんを恨んでいたとして、それで田中さんを──」

「冗談やないです。そんなことあり得ませんよ。いくら離婚がまだまだ世間的にマイナスイメージを持たれているからって、それで殺人事件にまで絡んでると思われるなんて。ひどい偏見じゃありませんか。心外です」

 山崎はひどく憤慨していた。

「気に障られたのなら謝ります。これが仕事なもので」

 鍋島が言った。仕事でなかったら、誰が他人の離婚沙汰になんか興味を持つものか。

「……そうでしたね」と山崎は小さく溜め息をついた。「それやったら、向こうの方やないんですか」

「向こうとおっしゃいますと?」

「耀子の相手には、家庭があったみたいですよ」

「なるほど。それだったら彼女が恨みを買ってることもありうるわけだ」

「あの、その相手のこととか、ご存じありませんか? 山崎さんにお訊きするのも気が引けるんですが」

 鍋島が言いにくそうに山崎の顔を見た。

「分かりますよ」と山崎は笑った。

「本当ですか」

「ええ、確か──丸山まるやまって男ですよ。四十過ぎで、ミナミで喫茶店か何かやってるらしいです。離婚するとき、私が耀子にいずれその男と結婚するのかって訊いたら、今はまだできないって言うてました。何でも、店がうまく行ってなかったらしくて、その金策に回ってるとかで」

 ここでようやく金のにおいがしてきた。殺人には必ずと言っていいほど絡んでくる用件だ。

「そのお店の場所とかはご存じありませんか」

「知ってます。地下鉄の日本橋にっぽんばし駅を上に出てすぐの──『みどり』って言う店でした。みどりは『美しい』という字に登山の『登』、それに利益の『利』だったと思います」

「よく覚えてらっしゃいますね」

 山崎は少しバツが悪そうにはにかんだ。「……私も、いやらしいって言うんでしょうかね。自分にも浮気相手がいるくせに、別れ話が進み出すとなぜだが女房の男のことがどうも気になり始めて、一度こっそり行ってやろうと思ったんです。それで耀子に何気なく訊いたことがあったんですよ。結局は行かずじまいでしたが」

「田中さんもよく教えてくれましたね」芹沢が言った。

「お互いに別の相手がいたと分かって、私も彼女も実にあっけらかんとして離婚に臨みましたからね、訊けば何でも教えてくれましたよ。とは言っても、何から何まで訊いたってわけではありませんが──あ、そういやその男、もしかしたらもう大阪にはいないかも知れませんよ」

「と言うと?」

「金の工面をしにへ行ってたはずやから。もうそっちに移ってるかも知れません」

「横浜へ?」と二人の刑事は同時に声を上げた。

「ええ。でも分かりませんけど。もう半年も前のことですから」

 山崎は二人の過剰な反応に驚いたらしく、急に自信なさげに言った。

 鍋島は慌ててポケットから宝石をさばきに天満の蓉美堂に現れた男のモンタージュ写真を出し、山崎に示した。

「その丸山って男、見たことあります? この男と違いますか?」

「ちょっと失礼」

 ただごとではなくなってきたのが山崎にも分かってきたらしく、彼も神妙な様子で写真を手に取った。「……ええ、この男です」

「間違いありませんか?」

「ええ。一度、耀子を送ってここのそばまで来たのを偶然見掛けましたから。確かにこの男でした」

 鍋島は呆然と芹沢に振り返った。

「……ああ。何となく分かってきた」

 芹沢は山崎が返してきたモンタージュ写真を眺めながら答えた。




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