その頃、鍋島はアパートの自室で芹沢と遅すぎる夕食を摂っていた。

「──美味い。こういう料理でメシ食うの久しぶりだよ。生き返るぜ」

 ダイニングテーブルの席に着き、炊き立ての米がよそられた茶碗を手に持った芹沢は、テーブルに並べられた純和風の料理を口に運びながら幸せそうに言った。

「なあ、何で俺がおまえにこんなことせなあかんのや」

 キッチンのカウンターに大きな皿を置き、その上にキッチンペーパーを敷きながら鍋島が言った。「俺はおまえの嫁さんと違うで」

「たまにはまともなメシ食わせてやるって言ったのはおまえだろ」

「俺は冷蔵庫の残りもんでも良かったら食べさせてやるって言うたんや。こんな時間になって揚げ物なんか作らせんなよ」

「その肉だって冷蔵庫の中にあったんだろ。おまえが『これはしその葉を巻いて揚げたら美味いんや』って言ったんだぜ」

「……十一時やぞ」

「いいじゃねえか。明日はやっと半日休みもらって、昼からでいいんだしよ」芹沢はなおも言った。「ええから、はよ作ってえな」

「下手くそな関西弁を使うなていつも言うてるやろ」

 鍋島はふてくされたように吐き捨てると、長い菜箸でフライ鍋の中から小麦色に揚がった豚肉のしそ巻きを取りだして皿に盛った。

 中学一年の時に母親を亡くし、四歳下の妹が成長して彼と交代するまでずっと家族の食事を作っていた鍋島は、必然的に今やその腕はたいしたものだった。仕事柄、普段は外食が多くて毎日自分で作って食べるというようなことはないが、それでも気が向けばあり合わせの材料でたちまち何でも作ってしまう。今夜も帰ってきてから一時間ほどの間にうざくあえ、厚揚げと茄子の含め煮、そしてこの豚ロースのしそ巻き揚げと味噌汁を手際よく作り、連れてきた芹沢を感激させているのだった。

「おまえ、泊まってくんか?」

 盛り付けが済んだ皿を持ち、キッチンを出てテーブルの前まで来た鍋島は芹沢に訊いた。

「この時間になって帰れって言うのか? おまえも冷てえな」

 芹沢は言った。しかしすぐに何かをひらめいたような表情になり、鍋島を見つめてにやりと笑った。

「……ひょっとして、今夜も麗子ちゃんとお約束かな?」

 鍋島は睨み返した。「ほんまに帰らせるぞ」

「まあ、そうとんがるなってば。女にフラれた哀れな男が、相棒に美人の恋人がいるもんで、ちょっと僻んでみただけだよ」

「おまえが女と別れるたびにいちいちそんなこと言われてたら、こっちはたまらんな」

 鍋島は迷惑そうに言って、缶ビールのプルタブを開けた。

「──で、結婚しねえのか」

「誰が」

「おまえと彼女に決まってんだろ。何とぼけてんだよ」

「まだええやろ」

「そんなこと言ってたら、きっかけ失っちまうぜ」

 芹沢は焦れったそうに眉をひそめた。「それでなくても十年も前からのつき合いなんだから。腐れ縁ってやつだろ、俺たちみてえによ。そういうパターンが一番危ねえんだよ。なあなあになって、気がつきゃお互い年寄りになっちまってるか、そこまで行く前に自然消滅なんてことになりかねないぜ」

「そんなもんかね」鍋島は素っ気なく言った。

「香水の移り香つけてもらってるうちが華なんじゃねえのか?」

「それはもうええって言うてるやろ」

 そのとき、玄関のチャイムが鳴り、同時に何度かドアがノックされた。

「……噂をすれば、だな」

 芹沢はほくそ笑んで鍋島を見た。

 鍋島は缶ビールを持ったまま片眉を上げた。「いや、違うて」

「照れるなよ。俺、帰ったっていいんだぜ」

「違う、あいつやないよ」

 鍋島は立ち上がると芹沢を見下ろした。「帰るなよ」

 廊下を通って玄関に出た鍋島は、ロックを外すとドア・チェーンを掛けたままゆっくりと扉を開けた。

 十センチほどの隙間の向こうに立っていたのは、思い詰めたような顔をした萩原だった。

「おまえか」

 そう言うと鍋島は廊下の奥に振り返った。「連れや」

 そして一旦ドアを閉め、チェーンを外してすぐに開けると、萩原を迎えながら呟くように言った。

「……どうしたんや」

「誰か来てるのか?」

 萩原は廊下の奥を見た。すると、奥からタイミングを合わせたように芹沢が出てきた。

「どうも、こんばんわ」

「……あんたか」

「まあ上がれよ。俺ら今頃メシ食うてるんやけど」鍋島が言った。

「いや、それやったら帰るよ」

「どうして。野郎が二人でメシ食ってるだけだぜ。構わねえよ」

「けど、悪いから──」

「何かあったんか?」と鍋島は訊いた。「と言うより、あったんやろ。おまえがこんな時間に何の前触れもなく俺んとこに来るっていうのは、たいてい何かあったってことや」

 萩原は黙って俯いた。

「俺、遠慮した方がいいかな?」芹沢が鍋島に訊いた。

「さあ。俺に訊かれてもな」

「……ええんや」と萩原は顔を上げた。「一人より二人に罵られた方が、ちゃんと反省できると思うから」

「何や、それ?」

「よく分からねえけど、何だかマジっぽいな」

 そう言うと芹沢は鍋島に耳打ちした。「面倒臭せえ話は勘弁なんだけど」

 鍋島は肩をすくめた。そのとき、萩原が大きく息を吐いたかと思うと、ゆっくりとその場に膝を突いて座り込んだ。

「おい、どないしてん」

「……絶対に、やったらあかんことをやってしもたんや」

「何やて?」と鍋島は真顔になった。

「とにかく、上がったらどう? 話はそれからってことでさ」

「そや。おい萩原、立てよ」

 そう言うと鍋島は萩原の肩を叩いた。

 二人の言ったことを聞いているのかいないのか、萩原は立ち上がることなく首を振って呟いた。

「俺……智子と……」

「え?」

「……今まで、智子と一緒やった……梅田のホテルの部屋で」

 鍋島の顔つきが途端に険しくなった。


 それから萩原は部屋に上がり、今までの経緯を告白した。

 今夜のことだけでなく、榊原に対する美雪の今の態度や誕生会のこと、そして萩原が榊原に会って話したことのすべてを、まるで朗読でも聞かせているかのように打ち明けた。

 鍋島は萩原が話し終わるまでは時折簡単に質問をする程度で、あとは黙ったまま何の意見も言わなかった。それはあたかも、彼がいつも西天満署の取調室でやっているのと同じような光景だった。

 芹沢はというと、ダイニングのテーブルで頬杖を突きながら、一歩退いた感じでリビングの二人の様子を眺めていた。

「──自分でも、ひどいことをしたと思うよ」

 ロー・テーブルの前に座って俯きながら、萩原は今にも消え入りそうな声で言った。

「はっきり言うて、そのひとことに尽きるな。おまえがそこまで自制心のないやつやとは思わへんかった」

 萩原の向かいに座った鍋島は不愉快さを露わにして言った。

「そう言われても仕方ないんや」

「これっきりにしようと決めたからと言うて、俺はそれで済んだとは思わへんけど」鍋島は萩原を見た。「あっちの旦那にはもちろん気づかれてないんやろな」

「もちろんや」と萩原は顔を上げた。「智子が良くても、俺は──」

「そらそうやろ、見事に裏切ったんやからな。美雪ちゃんのことでおまえにいろいろ気ィ遣ってくれた人やていうのに」

「……その通りや」

「おまえと智子の間に、どういう気持ちの行き来があったかは知らんけどな。智子はおまえの方から離婚を言い出した相手やぞ。言うてみりゃ、おまえが捨てた女や」

「ああ」

「しかも、今は他人の女房なんやで」

 鍋島は畳みかけるように言うと煙草を吹かし、苛立ちを隠そうともせずにその煙草を灰皿に押しつけた。

 そして今度は突き放すように言った。

「不倫や、不倫。おまえらこのご時世に不倫してるんや」

「鍋島、そう食ってかかるなよ」

 ここで初めて芹沢が口を開いた。鍋島は振り返った。

「その人だってそれがよく分かってるから、ひどいことしたって言って苦しんでるんじゃねえか」

「苦しむぐらいやったらそんなことせえへんかったらええんや」

「……刑事デカの考え方だ な」と芹沢は鼻白んだ。

「違う。俺自身の考え方や」と鍋島はムキになった。「萩原は犯罪者やないんや」

「じゃあそういうことにしといてやるよ。けど、今はそう言ってても、お前だってその人の立場に立ったらどうなるかなんて、本当のところは分かったもんじゃねえぞ」

 そう言うと芹沢は萩原を見た。「俺は彼女の方にも責任はあると思うけど。離婚の時はどうであれ、少なくとも再婚は自分の意志で決めたんだろうしさ。それを今になっておたくへの気持ちをあれこれ言ってくるなんて、それが誘い水になるってことが分からねえわけじゃねえだろうに。ちょっと罪だぜ」

「智子にも、それはよう分かってるんや」

「そりゃあ俺だって気持ちは分かるよ」と芹沢は笑った。「俺だったら、相手に亭主がいようといまいと関係ねえからな」

「おい、芹沢」と鍋島が口を挟んだ。

「分かってるよ」

 芹沢は鍋島に言うと再び頬杖を突いて続けた。「まあ、誰に限らず、結婚しちまうと途端に隣の芝生が青く見え出すって言うじゃねえか。そんな場合、別の新しい相手に目が行くやつがほとんどだろうけど、中には昔の恋人を思い出すやつだっているだろうし」

「いや、俺と智子はそんな──」

「もっと純粋だって言いてえの?」芹沢はすかさず言った。「たった一日で恋に落ちることもあるとは思うけど、俺はそれがまったくの純愛だなんて思えないけどね。結局のところ、自分たちの現状があまり面白くねえってことの現実逃避から始まってるんじゃねえの?」

 萩原は黙っていた。鍋島の半ば感情的とも言える批判には、彼との長い間のつき合いで慣れっこになっていたが、鍋島を通して数回顔を合わせただけの芹沢とは、ろくに話したことなどなかった。それだけに、彼の冷ややかだが的を射た話し方は、その考えの中にいくぶん屈折した渇きのようなものを感じながらも、萩原には耳の痛いものだった。

 やがて顔を上げた萩原に、芹沢は最後にこう言った。

「今夜のことを正当化したり、綺麗な思い出にしない方がいいと思うぜ。でないと、いつまでも抜け出せなくなるからさ」

 そして彼はゆっくりと視線を逸らし、

「経験者は語る、ってやつよ」と呟いた。


 依然として激しい後悔の念に押し潰されそうになりながらも、萩原は引き留める二人を押し留めて、逃げるように帰っていった。

 玄関先まで出て彼を見送った鍋島と芹沢はやがてダイニングに戻ってくると、共に大きなため息を漏らして腰を下ろした。

「あんなにひどく後悔するあたり、ほんとにデリケートなんだな」

 芹沢は言うと缶ビールの残りを飲んだ。鍋島はテーブルの煙草を取って一本抜き取り、火を点けた。そして勢い良く煙を吐き出すと、そのついでに言葉も吐き出すような言い方で呟いた。

「──あいつがどう言い繕っても、結局は亭主の留守中にその女房を寝盗ったってことやろ」

「そう言うなよ。誰だって昔の女に寄りかかってこられちゃ、手を出さねえ方がおかしいってもんだろ」

「そう考えるおまえが特別なんや」

「どうだかな。そんなの紙一重じゃねえのか? おまえでもよ」

「俺をと一緒にするな」

 鍋島は心外だとでも言うようにふんと鼻を鳴らした。

「へえ。てめえだけずいぶんお高いところへ持ち上げてるんだな」

 芹沢は振り返り、彼もまた嘲笑うように鼻白んで言った。「何かよ。美人の秀才とつき合うことがそんなに偉いのかよ」

 鍋島は顔を上げた。「おい、どういう意味──」

「確かに」と芹沢は鍋島の言葉を遮った。「確かに、俺はもうとっくの昔に女なんて誰でもよくなっちまってるよ。おまえの友達だって、元女房と未練たらしいことをやってるかも知れねえ。けど本当は誰だってそんなことにはなりたかねえんだ。みんな、おまえとおまえの彼女みたいにやれればいいと思ってるのさ。けどそれができねえから悩むんだろ。他人の女房に手を出したって言うけど、知らなかったわけじゃねえ。ちゃんと分かってて、それでもやっちまうんだから、後でああやって落ち込むんじゃねえか」

 鍋島は憮然として腕を組んだ。芹沢は続けた。

「それをおまえみたいに教科書通りの理屈で押し通して、ガンガン頭ごなしに非難されたらたまったもんじゃねえよ。女を好きになったり抱いたりするのは、そんな太古の使い古しの公式みたいに、決まり切った法則で説明のつくもんじゃねえだろ?」

「それやったら何をしてもええって言うんか」

「どうせ分からねえんだよ。何でも真正面から向かっていくことしか知らねえおまえにはよ」

 芹沢は言うと立ち上がり、椅子の背に掛けていたブルゾンを掴んで鍋島を見下ろした。

「どうするよ。帰れって言うんなら帰るぜ。ここまで言われちゃおまえだって気分悪りぃだろう」

 鍋島は煙に目を細めながら芹沢を見上げた。じっと視線を逸らさずに睨みつけると、やがてふんと笑って目を閉じ、言った。

「ここで帰れなんて言うたら、やっぱり了見の狭いやつやて言われるに決まってるしな。俺はそんな器の小さい人間やないつもりや。どうぞいてくれて結構」

「前半の台詞がなきゃ、もっとでけえ人間だって言われただろうぜ」

 芹沢は顔を背けた。




 大阪港周辺は一部に水族館やマーケットプレイスが建設され、大阪のウォーターフロントのリゾートタウンの先駆けとして、今や休日ともなると多くの若者や家族連れで賑わっていた。しかしそれ以外の一帯はどこにでもある工業地帯で、夕陽に照らされると不気味に輝く石油タンクが群立する中をコンテナ船やフェリーの行き来する、決して美しいとは言えない光景が広がっていた。


 今度の死体は、そんな殺風景な夜の海に浮かんでいた。

 死んでいるのはやはり女性だった。静かに揺れる海面から半分だけ姿を現し、波に揺られて時折コンクリートの岸壁に打ちつけられていた。港の街灯に照らされて鈍く輝く海水に洗われ、一見無傷のようにも見えた。けれども着ている洋服の背中が切られており、彼女が溺れて死んだのではないことが分かった。長い髪を束ねていた白いリボンがいつの間にか解け、今は首に絡みついている。うつ伏せで顔は見えなかったが、洋服の色が決して年配向きとは言えない鮮やかなオレンジ色で、ここで殺されなければ彼女はまだ先の長い人生を送ることのできる年齢なのだと推測された。

 今は真夜中の二時で、この死体に気づく者は誰一人として通る気配はなかった。この汚い水の中から引き上げてもらうには、気の毒だが彼女はもうあと三、四時間は我慢しなければならないだろう。

 その上、この死体のおかげで、大阪港とは十キロも離れた西天満署の二人の刑事が、一週間ぶりにもらったわずか半日の休みを返上させられる羽目になるのである。


 いったい、誰がこんなことを繰り返しているのだろうか。




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