マンションは四天王寺してんのうじの南東三百メートルほどのところにあった。細長い十階建てで、全室ワンルームだった。

 西端千鶴の部屋は五階で、部屋を入って一番奥にあるベランダがマンションの表通りに面しており、通りで遊ぶ子供たちのはしゃぎ声が窓を通して部屋の中まで聞こえていた。

「──ねえ、何か見つけた?」

 十帖ほどの部屋には不釣り合いなまでの大きなクロゼットの中の洋服を点検しながら、一条は後ろで壁とベッドの間にぴったりと収まったラックを調べている芹沢に声を掛けた。

「そんなにすぐに見つかるかよ」

 芹沢は雑誌をペラペラと捲りながら言った。「それにしても、女ってのは何かとくだらねえものばっか大切にしまっておくんだな」

「男だってそうでしょ」

 一条は千鶴の白いジャケットのポケットを覗き込んで言った。

「何より、女は衣装と装飾品よ。彼女も相当お金をつぎ込んでたみたいね。このクロゼットからいくらでも出てくるわ、きりがないみたい」

「だったらこっちと代わってやろうか?」

 嬉しそうに言った芹沢を、一条は怪訝そうに見た。

「やめとくわ。あなた、捜査に何か別の楽しみを求めてるみたいだから」

「ちぇ、つまんね」芹沢は小さく舌打ちして、ラックに向き直った。

「ねえ。彼女の交友関係はどうだったの?」

「派手でもなく地味でもなく、って感じだったらしいぜ。二十歳で大阪に出て来てるんだから、まだ一年ちょっとだし」

「何か目標はあったのかしら」

「さあな。とりあえず、ってやつじゃねえのか。田舎の連中はみんなそうさ。高校を出るか二十歳になるか、どっちかの歳になると都会に出たがる」

「あなたはどうだったの?」

「俺は田舎者じゃねえよ」芹沢は言うと一条を見た。「ま、あんたから言わせるとそうなのかも知れねえけど」

「まだ何も言ってないわよ」

「言わなくたって分かるさ。そういう顔してるぜ」

 一条は肩をすくめた。「どうして大阪に?」

「……まあ、いろいろあってな」

 そして芹沢は玄関のそばのキッチンへ行った。

 一条は芹沢の背中を見送りながら溜め息をつき、指紋がつかないようにはめていた手袋を外してバッグに直した。そして自分も表の部屋に行くと、バッグを肩から掛けて芹沢に言った。

「わたし、ちょっとこのあたりを聞き込みに回ってくるわ」

「そっちはもう終わったのかよ」

 芹沢はシンクの上の吊り戸棚を開けながら言った。

「だいたいね。ね、いいでしょ、もしかしたら例の男はここを訪ねてきてたかも知れないし」

「もうちょっと待てよ。そうすりゃ俺も終わるから」

「じゃ、終わったら下りてきてよ。この周辺にいるから」

「……分かったよ」と芹沢は一条を見下ろした。「ただし、少しでも離れるときは言いに来いよ」

「分かってるわ」

 一条はにっこり笑って頷くと、部屋を出ていった。芹沢はドアの閉まるのを見て、視線を戸棚に戻しながら呟いた。

「……マガママ」


 マンションの外へ出た一条は玄関の前でボール遊びをしている四人の子供にじっと見つめられて、自分も微笑み返した。そして通りの向かい側にあるマンションの一階に入っているコンビニエンスストアを見据えると、意を決したように歩き出した。

 するとそのとき、一条の前から俯いて階段を上がってきた男が、擦れ違いざまに彼女の肩にぶつかった。

「きゃっ……!」

 一条はバランスを崩し、階段脇の植え込みに肘をついてもたれかかった。

「あ、すいません」

 男は一条に振り返り、腕を取って彼女を抱え起こそうとした。

「大丈夫ですか?」

「ええ、平気です」

 一条はゆっくりと上体を起こし、肘の汚れを払いながら男を見た。

 二十五歳前後のフリーター風の青年で、心配そうに一条を見つめていた。Tシャツに汚れたジーンズをはき、スニーカーも汚れている。黒いサングラスを手に持ち、じっと一条に見据えられているのに耐えきれなくなったのか、さっと視線を外した。前髪の一部が金色に染められていた。

「あなた……」と一条は呟いた。

 その言葉に男ははっとした表情になると、反射的に一条を突き飛ばして階段を駆け下りた。一条は再び植え込みに倒れ込んだが、すぐに立ち上がり、足元に落ちたバッグを掴んで男の跡を追った。

「ちょっと、あなた……待ちなさい……!」

 しかし男は止まるはずもなく、代わりに一条を振り返りながらも走り出した。一条も駆け出したが、そこで急に芹沢の言葉を思い出し、足を止めるとマンションを見上げて舌打ちした。

「ちょっと! ちょっと! 顔出してよっ!」

 一条は千鶴の部屋の窓に向かって叫んだ。

「ねえ! 聞こえてる!? あたしよ! 芹沢くん!」


 部屋にいた芹沢はむっとして窓に振り返った。

「──なにが芹沢くんだ、あの女……」

 ベランダに出て、白い塗料の塗られた高い柵越しに下の通りを見下ろすと、一条が二十メートルほど先を行く男を追いかけていた。

「早く下りてきて! あの男よ! 応援呼んで!」

 一条は芹沢を見上げて叫んだ。

「だから一人で行くなって言ったんだよ……!」

 芹沢は部屋に戻り、持っていた千鶴の貯金通帳をベッドに投げ捨てて玄関に向かった。部屋を出ると廊下を走ってエレベーターの前まで行き、コールボタンを押した。エレベーターは一階で止まっていたらしく、1のボタンが点灯すると長い時間を掛けて2に移動した。

 芹沢は何度もボタンを押したが、やがて待ちきれなくなり、廊下の突き当たりまで走って螺旋階段を駆け下りた。

 地上へ降り立つと同時に芹沢は通りの中央まで出た。が、通りにはすでに一条と男の姿はなく、玄関の前で子供たちが呆然と立ち尽くして彼を見ているだけだった。

 子供たちはすぐに「あっち! あっち!」と口々に叫んで芹沢の後ろを指差し始めた。

「分かってるけど……その先はどうなったんだよ……」

 芹沢は独り言を呟きながら走った。すぐに四つ角に出て、通りの両側を見回したが、それらしい姿はなかった。

 仕方なく引き返した。そして一条の服の色を思い出した。そう、ペパーミント・グリーンだ。あの色なら目立つはずだ。乗ってきた車のところまで来ると、開いている窓から手を入れ、無線機のマイクを掴んだ。



 一方、一条は辛うじて男を見失わずに追っていた。

 学生時代は短距離の選手で、インターハイの出場経験もある。おかげでパンプスでも競技用シューズを使用しているときに近い走りができていた。その割には今一歩のところで男を捉えることができずにいるのは、はいているミニのタイトスカートのせいだった。

 その上、彼女にはまったく土地勘がなかった。だから近道を選んで男の前に先回りをするということができず、ただひたすら男が走ったのと同じ行程をこなさなければならなかったのだ。

 突然、男が進路を左に変えた。一条があとを追うと、そこはパチンコ屋の裏の狭い通路だった。建物の細長い窓から吹き出すエアコンの排気風がちょうど首筋に当たり、ものすごい暑さを覚えた。狭い通路の足下にはいろいろなゴミが散乱し、思うように早く進むことができなかったが、それでも彼女は走り続けた。

 やがてまた表通りに出て、今度は向かいのサウナの横に伸びる通路へと男は入っていった。

「いい加減にしてよ……」

 一条は大きく息を吐きながら呟いた。周囲の通行人は彼女と男がそばを通り過ぎるときだけ驚いたように振り返ったが、一緒に追いかけてきたり止めに入ったりするようなことはなかった。

 彼女は誰かに代わってもらいたいと思った。芹沢はどうしたのだろう。応援を呼んでくれたのだろうか。五階から下りて来るにはそれなりの時間が掛かったに違いない。そして今頃自分を捜して、あちこち走り回っていることだろう……。


 いきなり目の前の視界が広がり、雑草に覆われた野原が現れた。走ってきた通路の突き当たりにトタン板に囲まれた空き地があったらしく、その板の隙間から空き地に逃げ込んだ男を追って、一条もそこに飛び込んだのだ。

 一条はあたりを見渡した。正面の高い雑草の向こうに、男がトタン板を背に肩を揺らして彼女を見ていた。

「ちょっと……何で俺を追いかけるんや……」

 男は言った。その声は、微かだが確かに震えていた。

「……逃げたってことは、分かってるんでしょ……」

 一条も息を弾ませて言った。「あなた、カレーハウスに西端千鶴を訪ねてきたでしょ?」

「……何のことや」

「そして彼女にペンダントをプレゼントした」

「知らん、そんなこと」

「だったら、一緒に来て申し開きをしたらどう?」

「どこへ」

「決まってるでしょ、警察よ」一条は言った。「わたしは警官よ」

「……何でそんなことせなあかんのや、俺が」

「何もやましいことがないなら、何で逃げたのよ?」

 そう言いながら一条は背中に回したバッグにゆっくりと右手を入れ、中のブローニングの銃身を掴んだ。

「盗んだペンダントで女の子の気を引こうなんて、せこいと思わないの?」

「くそっ……!」

 男は一条に背を向け、高くジャンプして塀にしがみつき、乗り越えようとした。

「下りなさい!」一条は拳銃を構えた。「……下りないと撃つわよ」

 男はゆっくりと振り返った。右脇でしっかりと塀を抱え、板にできた窪みに足を掛けて掴まっている姿は一見、アンバランスに見えたが、かと言ってずり落ちてくる気配もなかった。足元の雑草のそばに、ジャンプしたときに外れたサングラスが落ちていた。

「逃げられっこないのよ」

 一条はゆっくりと男に近づいた。「あなたが盗んだんじゃなかったら、あのペンダントはどこで手に入れたって言うの?」

「……何のことだかさっぱり」

「そう。だったらこの話はどう? あなたたちが乗ってたワゴン車に跳ねられた飯田健いいだけん。彼がどうなったか」

 男の顔色が変わった。

「死んだわよ。知ってるんでしょ?」

「う……」

 男は短く呻いたかと思うとみるみるうちに泣き出し、塀にしがみついた肩を震わせた。

「やっぱり、あなたたちだったのね」

 男の真下まで来た一条は溜め息とともに言い、厳しい眼差しで彼を見上げた。「さあ、下りなさい」

 男は涙で顔をくしゃくしゃにしながら首を振った。そして素早く左足を高く上げて塀に掛けると、身体を引き上げて乗り越えようとした。

「撃つわよ!」一条は叫んだ。「行きたいの? 飯田健や西端千鶴のところへ」

 男は振り向いた。「……何て?」

「死にたいのかって言ったのよ」

「千鶴が──どうしたって?」

「とぼけるんじゃないわよ。そっちも割れてるのよ。あんなひどい殺し方したらすぐにばれるわ」

「千鶴が殺された?」

「いいから下りてきなさい。話はそれからよ」

「千鶴が……」

 男は視線を宙に漂わせた。汚れた顔に黒い涙の筋ができていた。

「さあ、早く」

 そのとき、右前方の塀の隅にできた穴から小さな野良猫が顔を出し、ニャーとか細く鳴いた。一瞬、一条はそちらに気を取られ、銃口が少しぶれた。

 その瞬間を男は見逃さなかった。右足で塀を蹴ったかと思うと、両手を大きく広げて一条に向かって飛び掛かってきた。一条は肩を突き飛ばされ、右半身を下にして倒れた。拳銃は右手に握られたままだったが、男に上から激しく蹴られて腕が身体の下敷きになり、動かすことができなかった。

「痛っ……!」

 背中を思い切り蹴り上げられ、一条は呻いた。倒れた拍子に左の足首を挫いたらしく、そこにも激痛が走った。

 そして何より、自分の一瞬の隙を見事に突かれたことのショックが大きく、彼女は何も抵抗できずに男のなすがままになっていた。

 一条が抵抗する力を失っているのを見て、男は蹴るのをやめた。それからゆっくりと後ずさりをし、ぱっと背を向けて来た道を走っていった。

「ちくしょーっ! 千鶴!」

 男は遠ざかりながら叫んでいた。


 その声をちょうど塀の外側で聞いたのは芹沢だった。咄嗟に振り返り、塀に沿って走った。そして細い通路を見つけると中に進み、ブルゾンの懐から拳銃を抜いた。

 いきなり現れた空き地に飛び込むと同時に、彼は拳銃を突き出した。あたりを見渡し、正面の突き当たりに茂っている雑草の脇に、放心状態で座り込んでいる一条を見つけた。

 芹沢は拳銃を直しながら駆け寄った。「大丈夫か?……」

 一条は何も答えず、ゆっくりと首を縦に振った。

「やつは?」

「……逃げられたわ」

「そうか」

「絶体絶命のところまで追い込んだのに」

「よくあることさ」

 芹沢はあっさりと言った。そして一条の足下に落ちていたサングラスを見つけると、ブルゾンの袖口を指先まで引っ張ってそれを拾い上げ、一条を見た。

「収穫はあったじゃねえか」

「もう少しだったのよ……!」と一条は俯き、拳で地面を叩いた。

「そうくよくよすんなよ。銃を抜く暇もなかったんだろ?」

「抜いたわ」

 一条は雑草の陰に落ちている自分の拳銃を顎で示した。

「蹴り飛ばされたのか」

「いいえ、ずっと手に持ってたわ」

 芹沢はゆっくりと一条に振り返った。「……何で撃たなかった?」

「……分からない」

「やられてるときは無理でも、やつが逃げるときには撃てただろ。殺すわけじゃねえんだぜ。威嚇発砲で十分なんだ。それに、やつがあんたにした仕打ち次第じゃ、立派な正当防衛になる」

「それは分かってたわ、でも──」

「でも? でも何だよ?」芹沢はすかさず言った。「相手は強盗と殺人の有力容疑者なんだぜ。ここで逃がすとどうなるか──あんただってこの六日間、いやもっと長く、必死で奴らを追ってたんじゃねえのか?」

 一条は何も言わなかった。

「空砲だったのか?」

「入ってるわ」

「まさか、撃ち方が分からねえってんじゃねえよな?」

 芹沢は苦笑しながら言った。一条は首を振った。

「そうか、分かった」

 芹沢は今度は得心したように頷いた。「発砲したことをブン屋に叩かれるのが嫌だったんだろ。よその土地で、しかもエリートの女刑事が拳銃を抜いたとなると、連中は大喜びしてあれこれと書きたてるからな。そうなりゃ出世に響くって、そんな計算でも働いたか?」

「違う!」

「じゃあ何で引鉄ひきがねを引かなかった!」

 芹沢に怒鳴られ、一条は怯えたように顔を強張らせて彼を見た。  

 そしてごくりと唾を飲み込むと、観念したように呟いた。

「……怖かったのよ」

「怖かった? 撃つのがか?」

「それもあるけど──相手が」

「相手が怖かったって?」

 芹沢は信じられないとでも言うような眼差しで一条を眺め、大きく溜め息をついてその場に座り込んだ。

「なぜだか分からないけど……とにかく怖かったの」

「……だったら一人で動くなよ」

「聞き込みに出ようと思っただけなのよ」

「俺たちゃ小綺麗なオフィスで働くビジネスマンとはわけが違うんだ。相手にする連中の種類を考えてみろよ」

「悪かったわ。でも、まさかこんなことに──」

「予測のつく仕事がしたけりゃ、転職するこったな」と芹沢は吐き捨てた。

 一条は俯き、唇を噛みしめた。

「女だからって、いつも男との同行なんて嫌だったのよ。それに──」

「自分は警部なのに、組む相手にはナメられる。しかもそいつの方が階級はずっと下だってのにな。何よりそれが嫌だった」芹沢は言った。「違うか?」

 一条は答えなかった。

「確かに俺もあんたよりずっと下っ端さ。そんな俺に偉そうにされるのが我慢ならなかったんだろ。あと一年もすりゃ警視になって、どこかの署長か本部の役席に就こうかって自分が、俺みてえなノンキャリアの巡査部長ごときにいちいち許可を取って動かなきゃならねえなんて理不尽だって、そう思ってたんじゃねえのか?」

「……そうかも知れないわ」

「下の階級にナメられるのが嫌なら、現場なんかに出ねえで管理職の道を歩むんだな。そうすりゃたとえ上っ面だけでも敬意を表してもらえるさ。上司の推薦は昇格には不可欠だからな、俺たち下っ端が出世するには」

「それじゃ嫌なのよ」

「あんたの好き嫌いなんか聞いてねえよ」

 芹沢は強く言うと一条を見た。「遊びでゲームやってるんじゃねえんだぜ」

「分かってるわ」一条は目を閉じて溜め息をついた。

 芹沢はゆっくりと腰を上げ、膝を突いて一条に肩を出した。

「ほら、つかまれよ。足挫いてるんだろ」

「……ありがとう」

 一条は拳銃を拾ってバッグに入れ、両手で芹沢の肩を持つと重心を移して立て膝になった。芹沢はその腕を抱え、静かに立ち上がると彼女の腰に手を回して身体を支えた。

「戻ったら、ホテルに帰って荷物まとめて横浜に帰りな。殺人との関連が明らかになった以上、事件はうちで引き継ぐこともできるだろうし、そうするように手配してもらうよ。あんたエリートなんだから、無理に手柄なんか立てなくたって出世は約束されてるんだぜ。そのために採用されたんだからよ」

「…………」

「聞いてんのかよ、お嬢さん?」

 芹沢は苛立たしげに言った。とうとう、鍋島ほど真面目でないはずの彼までもが怒ってしまったのだった。

 一条は何も言わなかった。堅く口を結び、まっすぐに前を見つめていた。

 芹沢は諦めたようなため息を漏らし、そして最後にこう言った。

「いっぱしの警官になりてえんだったら、筆記試験の結果から生まれた、現場じゃ一銭の価値もねえプライドなんて捨てるんだな。そんなもん、人殺しやヤク中には通用しないぜ」

「……そうね」

 一条は言うと俯いた。髪で隠れて見えなかったが、その気位の高そうな瞳は、今は自己嫌悪の涙で一杯だった。



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