正午近くになって、太陽は西天満署の真上に来た。

 そばを流れる堂島川の川面も万華鏡のように輝き、中之島の緑に光のシャワーを浴びせている。まだ梅雨真っ直中の六月の終わりとは言え、晴れた日はそれでも暑かった。

 今から午後三時頃までの間に気温はぐんぐん上がり、それとともに電気消費量もうなぎ昇りとなる。刑事課にもエアコンと称される四角い装置が取りつけられてはいたが、廊下との壁の仕切りがないので効き目はほとんどなかった。むしろこうして屋上に上がり、時折上空から流れてくる風を待っていた方がよほど汗を引かせてくれるようだと、一条は西天満署に来て六日目ですでに気づいていた。

 彼女は今、痛めた足に包帯を巻きながらも、屋上のフェンスに片肘を掛けて立っていた。ワンピースの汚れは完全に落とし切れてはおらず、ところどころ乾いた泥のようになって残っていた。

 青白い顔をして、まだ表情に硬さは残ってはいたが、気持ちの方は徐々に落ち着き始めていた。

 建物から続く出入口のドアが開き、鍋島が姿を見せた。照りつける太陽に目を細めてすぐに俯くと、ゆっくりと一条のいるところまで来た。そして少し離れてフェンスに背中を向けて寄り掛かり、シャツのポケットから煙草を取り出した。

「──相棒からわたしの大失態を聞いて、それ見ろってばかりに笑いに来たの?」

 中之島の方を見たまま、一条が言った。

「そこまで悪趣味やないで」

 鍋島は言い、手に持っていた煙草に火を点けて顔を上げた。

「芹沢があんたに言い過ぎたって言うといてくれって」

「そう。別にいいのよ。本当のことばかりなんだから」

「──俺も朝は言い過ぎた」

「わたしもよ」と一条は肩をすくめた。

 鍋島は彼女を見つめたまま小さく頷き、煙を吐いた。

「それで? わたしを横浜へ帰らせようって言う手筈は整った?」

「何やそれ」

「彼が上司にそう頼んでるはずよ。強盗事件もこっちで引き継ぐように」

「そんな話はしてへんかったけど」と鍋島は首を傾げた。「それより、あんたを一人でマンションの外に行かせたのは自分の責任やて言うて、課長に謝ってたぞ」

「……ほんと?」

「ああ。あいつは変なとこでええカッコするからな」

「……そう」と一条は俯いた。「わたしのせいなのに」

 鍋島は黙ってフェンスに向き直り、両腕を掛けた。二人はしばらくのあいだ何も言わずに、目の前の阪神高速の流れを追っていた。

「……焦ってたのよ」

 やがて一条が口を開いた。「刑事になって一年以上も経つのに、まだ一度も自分の手で犯人を挙げたことがないから」

「俺もなりたての頃はそう思ってた。けど、『一年以上も』やないで。『まだ一年』やろ」

「──誰かに聞いて知ってるかも知れないけど、わたしの父は警察庁の幹部なの。それに、ボーイフレンドは警視庁の超エリート、父のお気に入りよ。当然二人ともキャリアで、現場の経験なしに出世した口でね。でも、わたしが警官になったのは、この二人の影響じゃないのよ。子供の頃からの夢。なのに、そんな二人といつの間にか同じ道を歩み始めている自分に気づいたわたしは、すぐに二人に反発するようになったのよ」

 鍋島は黙って聞いていた。

「父はわたしが通常の進路に反して現場を希望したことに反対したわ。そんなことなら早く結婚して、さっさと警官なんか辞めろとさえ言い出したの。手柄が上げられなきゃ、刑事なんて危険なだけ損だって。わたしは何とか自分の手で犯人を検挙しなけりゃと思った。それもできるだけ凶悪事件の犯人をね。そんなときよ、今回の事件が起こったのは。わたしは上司に自分一人が大阪へ行くことを希望したわ。何とかこれで手柄を立てて、父や恋人にわたしを見直させてやろうと思ったのよ」

「解るような気がするよ」と鍋島は言った。「俺の親父も警官でな。とは言うてもあんたの親父さんほど偉くもないし、もう退職したけど。それでもいまだに何かって言うと親父の名前に負けそうになる」

 そうだったの、と一条は微笑んだ。「でも、わたしの場合は所詮は父の言うとおりだったのよ。こっちへ来ても現場に順応できないどころか、結局は階級をひけらかしてあなた達とぶつかって、挙げ句に怖いだの何だのって、警官にあるまじき狼狽えようでこんなヘマまでやらかしたんだから。刑事失格よ」

「そうあっさりと結論出すこともないと思うけど」

「でもこれじゃ、自分で警部なんて名ばかりだって証明したようなものね」

 一条のその言葉に、鍋島は笑みを浮かべた。「一つ教えようか」

「え?」

「ここの連中が俺と芹沢のことをどう呼んでるか、知ってるよな」

「ええ。『巡査部長』って」

「あれ、何でやと思う」

「あなた達が巡査部長だからでしょ」

「もちろんそうや。けど他の巡査部長らはそうは呼ばれてないで。刑事で巡査部長はみんな『刑事長デカちょう』とか、あるいは『主任』とか呼ばれてる」

「そう言えば、そうね」

「やろ。俺ら以外はみんな『部長ちょう』の『刑事デカ』なんや」

「……どういうことなの?」一条は怪訝そうに顔をしかめた。

「よう分からんけどな。つまり俺らの場合、あくまでただの階級やってことが言いたいんやろ。キャリアでもないのに、たった一年ほどで昇格なんてのは普通は難しいからな。自分でもええのかなて思たぐらいや。それを皮肉ってるつもりで、わざとああ言うんやろな。決して認めてないって言いたいんやろ」

「あなたたち、それで平気なの?」

「周りがどう思ってようと、俺らはどうでもええんや」と鍋島は笑った。

「要は、自分が納得できてるかどうかやから。自分さえ納得してたら、誰が馬鹿にしてたって気にならへん。気になるとしたら、自分も納得してへんからや」

 一条はゆっくりと頷いた。

「確かに、今のあんたは自分でも納得できてへんみたいやけど。でも焦ったって余計に空回りするだけやで」

「ええ、そうね」

「それに、名ばかりやとか階級負けやとか言われても、元はと言えば上がその資格があると見たから昇格したんや。こっちから無理矢理なりたいって頼んだわけでもないやろ? あくまで上の決定に従っただけや」

「それは確かね」

「ほんまにあかんかったら、降格でもさせられるって」

「そうよね」と一条は小さく笑った。

「引鉄を引くのは勇気が要るよ。普通の人間やったら当たり前や。射撃の腕がいいなんて言われて助っ人を頼まれるなんて、ちょっとも自慢できることやあれへん」

 それを聞いて一条は神妙な面持ちになり、鍋島をじっと見つめて言った。

「今まで、何人ぐらいの人を撃ったの?」

「まさか、滅多にないよ。数えるほども撃ってへん」

「じゃあ、殺したことなんて──」

「もちろんないよ。あって欲しいわけがない」

「撃つのは怖くないの?」

「最近ようやくそうでもなくなってきたな」と鍋島は言った。「始めはやっぱりビビってた」

「どうしたら怖くなくなるの?」

「撃たへんかったら自分がどうなるか、そっちを考えた方が怖いから」

 そう言うと鍋島は一条を見た。「あんた、怖いんか?」

「……撃つことだけじゃないわ」と一条は俯いた。「今日だってそうよ。自分と同じ年頃の相手だったけど、もしかしたら殺人犯なのかも知れないって考えたら……案の定、飛び掛かってきてひどく殴られたでしょ。あれでますます怖くなったの」

「分かるよ。でも、せやからこそこっちも的確な判断をする必要があるんや」

「彼もそこを言って怒ってたわ。怖いなら他の仕事に移れって」

「あいつは、仕事に感情を入れるのがやたら嫌いなんや。信頼してた先輩が身内絡みの事件で死にかけたし、俺が刺されたのも見てるし──あんたにも気の迷いがあって欲しくなかったんやろ」

「そう……」

「あんたを一人の警官として見てるからやで。男も女もなく」

「反省してるわ」一条は顔を上げた。「わたし、本当に横浜に帰らなくてもいいのかしら?」

「そんな必要ないと思うけど」

「彼はまだ怒ってる?」

「いや、今も言うたみたいに、仕事は仕事で割り切るやつや」

 そして鍋島は小さく笑った。「それに、結局は女に甘い」

「それは助かったわ」一条は大袈裟に喜んで見せた。「でも、それでどうして仕事に感情移入しないって言い切れるの?」

「それはまた別の話」

 鍋島は言って肩をすくめた。

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