第五章 ラプソディ──Rhapsody


 翌朝、さすがに鍋島はいつもより三十分ほど遅れてロッカールームに現れた。

 今日もまた洗い髪のままで、Tシャツにライトブラウンとパープルのマドラチェックの長袖シャツをボタンも留めずに羽織り、ジーンズをはいていた。

 ロッカールームは中央を走る通路の両側に十二ずつのロッカーが十五列並んでいた。鍋島のロッカーは入口から数えて五番目の右側の列で、彼がその前まで行くと、先に来ていた芹沢が長椅子に座ってシャツの上から拳銃の入ったホルスターを装着しているところだった。

「今朝はごゆっくりだな」芹沢は鍋島を見上げて言った。

「ああ。でも、遅刻ってわけではないやろ」

 鍋島は欠伸をしながら答えると、ロッカーを開けて手に持っていたホルスターを内側のフックに掛けた。

「別に早出を強制されてるわけじゃねえもんな」

 芹沢は言った。「半日でもいいから休みが──いや、寝る時間が欲しいぜ」

「そろそろ限界や。これ以上続くと先がもたへん」

「一日十八時間、それが連続六日間。これのどこが公務員だ」

 芹沢は吐き捨てるように言うと脇に置いたブルゾンを手に持ち、立ち上がった。

「……あれ?」

「何や」鍋島は芹沢を見上げた。

「……まいったな、ちくしょう」

 と芹沢は額に手を当て、気恥ずかしそうに鍋島を見た。「おまえ、それで来るのが遅かったのか」

「……何や。分からんぞ」

「マジで言ってんのかよ?」

「せやから何やねん?」鍋島は苛立たしげに言った。

 芹沢は相変わらず呆れ顔で鍋島を一瞥し、もう一度長椅子に腰を下ろすと言った。

「香水の匂いがする」

「……へ」

「気がつかなかったのか?」と芹沢は首を振った。「よく嗅いでみろよ。明らかに女の香水の匂いだ」

 鍋島は自分の右腕を鼻先に近づけた。そしてすぐに片目を閉じて小さく舌打ちした。

「……しもた……」

「ま、そう言うことだな」と芹沢は意地悪く言った。「いいよなあおまえは。仕事がきつくても、他にちゃんと愉しみがあってよ」

「そう言うなよ。おまえかて、さんざん好きなことやってきたんと違うんか」

「今は淋しいもんさ」

「ほんまか? どんな女も手当たり次第のくせに」

「人聞きの悪いこと言うなよ。本命の好みは譲れねえ分、遊ぶときの受け皿は大きくしときたいだけさ。そうでもしねえといつまで経っても一人だぜ」

「そういう風に切り替えが利くのが俺には理解できひんのや」

 Tシャツの上にホルスターを着けながら、鍋島はすねたように言った。

「俺のポリシー」と芹沢は気取った。

「ええように言うて、ただの女好きやないか」

 そう言うと鍋島は声をひそめた。「──知ってるぞ。おまえが署の独身女子の全員と寝たってこと」

「いくらなんでもそりゃガセだな」と芹沢は笑って首を傾げた。「年増のおばちゃんはパスだから」

「知るか、誰が真に受けんねん」と鍋島は背を向け、ジャケットを羽織った。

「羨ましいか」

「おまえみたいな奴は、公表できひん病気で死ぬんや」

「そう食ってかかんなよ。ちょっとばかりバツの悪りぃことを突っ込まれたくらいでよ」

 芹沢は立ち上がり、鍋島の後ろを通って通路に向かいながら言った。「ま、仕事に響かねえ程度にしとくんだな」

「それはこっちの──」

 振り返った鍋島は面白くなさそうに芹沢の背中を見送ると、ロッカーを閉めながら吐き捨てた。

「……スケベ野郎」


 芹沢よりも十分ほど遅れて刑事部屋に上がった鍋島は、一条警部が課長のデスクの前で熱心に話しているのを眺めながら自分の席に着いた。

「──何や、あの女。朝からえらいテンション高いやんか」

「またわけの分からねえこと言ってるみたいだぜ。係長と主任、呆れ返って出ていっちまったよ」と芹沢は鼻で笑った。

「ってことは、今日は俺らがあのお嬢さんのお守りか?」

「俺は昨日十分にお相手させてもらったからよ。今日はおまえだ」

「そんなんありか? 二人でってことにしようや」

「甘えるんじゃねえよ。人手が足りねえんだし、捜一の連中にも言い訳が立たねえだろ」

 芹沢はにべもなく言った。

「おまえさっき、本命以外のキャパは広いって言うてたやないか」

「こんなところで持ち出すなよ。『ただの女好きや』って言ってくれたのは誰だ」

「──芹沢くん、まあそう根に持たずに。お互い長いつき合いやないか」鍋島はにこにこ笑って媚びてみた。

「知 ら ね え」

 鍋島はがっくりと項垂れ、大きく溜め息をついた。それを見た芹沢は勝ち誇ったような笑顔になった。

「──おい、そこの二人、ちょっと来てくれ」

 デスクから課長が読んだ。

「お呼びだぜ」

 と芹沢は立ち上がった。


 二人が課長のところへ行くと、それまでデスクの正面に立っていた一条がふてくされたような顔で腕を組み、デスクの脇に回った。膝上10cmくらいの鮮やかなペパーミント・グリーンのワンピースに揃いの半袖ジャケットを着て、白のパンプスを履いている。これでにこにこ笑ってさえいれば可愛い子なのに、けどこのご時世でははそう考える俺の方が間違ってるんやなと、鍋島は実際は二階級上の彼女を見て思った。

「何ですか」鍋島は訊いた。

「いや、一条くんが無茶なことを言うてな──」

「いつものことなんじゃねえのか」俯いた芹沢が小さく呟いた。

「聞こえてるわよ、また」

「だから、聞こえるように言ってんだよ」

「それで?」と鍋島は二人を無視して課長に訊いた。

「一条くんが、通り魔をおびき出すために囮になるって言うんや」

「……話にならねえな」

「あんた、自分をCIAの諜報部員かなんかと勘違いしてるのと違うか」

 鍋島が笑いながら一条に言った。「その手の映画の見過ぎやろ」

「いたって本気よ。囮捜査が日本で認められてないことも当然知ってるわ。でも、このままじゃ一向に犯人にたどり着かないもの。そのうちほんとに大阪からも逃げられるわ」

「どうやってやろうって言うんや。大阪も結構広いぞ」

「殺人は二件とも西天満署の管内で起こってるわ。とりあえず、わたしが西端千鶴の遺したペンダントを着けて管内を歩くというのはどう? あなたたちは離れたところからわたしを護衛してくれればいいわ。隠しマイクか何かで連絡を取りながら」

「やっぱ自分をボンドガールと思い込んでら」と芹沢。

「それでどれだけの効果があると思うんや?」

「やってみなきゃ分からないわ、そんなこと」

 一条は鍋島を見据えた。「このまま手をこまねいてるよりマシでしょ。ペンダントのことだって、いつまでも捜一に黙ってるわけにもいかないし、こうやってわたしたちがコソコソやってることだって、向こうはもう気づいてるかもよ」

「きみにもしものことがあったらどうするんや」課長が言った。

「課長さんが心配してらっしゃるのは、そうなったときのご自分の責任の取り方でしょう? 警察官が保身を第一に考えるようになったらおしまいですよ」

「何も分かっちゃいねえな。俺たちに代わって、責任の取り方を心配するのが課長の役目なんだよ」芹沢が食ってかかった。

「アホらし」と鍋島が舌打ちした。「それほどやりたきゃ、やったらええやないか」

「おい、鍋島」と課長は慌てた。

「ええやないですか。彼女は神奈川県警の刑事さんなんやし、よその刑事がこっちへ来て何をしようと、大阪府警の俺らには関係ありませんよ」

 そう言うと鍋島は一条を見た。「ただし、俺らはあんたのボディガードなんかやらへんぞ」

「ほら、結局そうなのよね。わたしだって、宝石強盗さえ逮捕できたらそんなことまでするつもりなんかないのよ。それがこっちの殺人がいまだに解決できずに死体ばかり増えて、おまけに強盗とも関係ありそうだなんて言い出すから──」

「俺らが犯人を挙げられへんのが悪いとでも言うのか?」

「そうは言ってないわ。でも、どうもやり方がのんびりしてるような気がするのよ」

「……はは」

 芹沢は笑ってしまった。腹立たしいのを通り過ぎて、可笑しくなってきたのだ。

 しかし鍋島は様子が違っていたようだ。

「あんまりええ気になるなよ。キャリアの新米で、しかも女やと思って大目に見てやってるんやから」

「新米だと思ってくれなくて構わないわ。それに、女だと思ってくれなくても結構」

「人のこととやかく言うんやったら、その前にさっさとてめえの管内でパクっとけ! 二週間も放ったらかしにしてから、のこのこ来やがって──」

「よせよ」と芹沢が鍋島の腕を掴んだ。

「放っといてくれ、俺はもうキレた」鍋島は手を振り解いた。「課長、神奈川県警にこのお嬢さんを呼び戻すように言うてくださいよ。ほんで、できればもっと有能で話の分かる刑事を寄越せって。なんぼでもおるでしょ、こんな非現実的なネエちゃんよりましなやつ。いくら信用ガタ落ちの神奈川県警と言うても」

「……許せないわ、こんな侮辱初めて」

 一条は精一杯落ち着きを保とうと腕を組んだ。

「そうやろうとも。だいたいあんたみたいなお嬢さんには無理なんや、刑事なんて仕事は」

 もはや芹沢と課長は呆れ果てて何も言えなかった。芹沢はもしも鍋島が一条に掴みかかるようなことがあった場合にだけ止めに入ることにして、あとは彼の好きなように言わせようと思っていた。芹沢には、鍋島が本当に怒るとこちらが何を言っても無駄だということを百も承知できていたのだ。


 そのとき、デスクの電話が鳴った。課長は救われたとばかりに受話器を掴み取り、前に立った三人の若者を迷惑そうに見上げながら応対に出た。

「もしもし? ああ、はいはい──」

 三人は黙って課長の電話が終わるのを待っていた。

「──ああ、それがご存じの通り、うちも今手一杯なんや──」

 課長は電話の相手に言った。「そっちの事情も承知やけど」

 そして課長はちらりと鍋島を見上げた。鍋島は相変わらずむっとした表情を続けており、課長と目が合ってもその態度を変えようとしなかった。

 そんな鍋島を見つめていた課長は、突然何かをひらめいたような表情になり、それから電話の相手に言った。

「──分かった。そっちにもいろいろ世話になってるし、この際協力させてもらうわ。──いや、かめへん。お互い様や。ああ、そしたらすぐに行かせるよ」

 課長は電話を切った。そして大きく咳払いをすると、鍋島に言った。

「四課がおまえに応援に来て欲しいと言うてきた。今すぐ本部へ行ってくれ」

「ええ? でも──」

「どうしてですか? こっちの今の事情じゃ無理ですよ」 

 と芹沢がデスクに身を乗り出した。

「今から四課が石龍いしたつ組のガサ入れをする。大掛かりな賭場が開かれてるって言うタレコミがあったらしい。十分な内偵も済んで、いよいよ踏み込むそうや。それで鍋島にも来て欲しいって」

「撃ち合いになるかも知れないからですか?」

「ああ。石龍組の場合は大いにその危険性がある」

「だったら機動隊で十分じゃないですか。今はこっちだって応援が欲しいくらいなんですよ」芹沢は食い下がった。

「もちろん、機動隊からも出すそうや。けど、主要メンバーの中に面の割れてへん鍋島を入れたいらしい。うちも四課には借りがある」

 課長はデスクに両肘を突いた。「あっちは鍋島の腕が欲しいんや。相当お気に入りみたいやな」

 芹沢は諦め顔で溜め息をつき、鍋島に振り返った。

「おまえ、そのうち四課に引き抜かれちまうぜ」

「それに──捜一の連中にええカムフラージュができる。所轄はのんびりやってるなと思わせるのにちょうどええ」

「課長が行けって言わはるんなら、俺はいいですよ」と鍋島は肩をすくめた。「引き抜かれるのはごめんやけど」

「ああ。悪いが頼むわ。済んだらすぐに戻ってこいとは言わん。何ならちょっと息抜きして、それから帰ってきたらええから」

「分かりました」

 鍋島は頷き、芹沢に振り返ると微かに笑みを浮かべて言った。

「まあ、そう言うことやから」

「……悪運の強いやつだな」芹沢は面白くなさそうに呟いた。

 鍋島はちらりと一条を見ると、何も言わずに立ち去った。

 鍋島が出ていったあとで、一条はぽつりと言った。

「何だか、気が削がれちゃったわ」

「ああ、肝心の話の方やな」

 と課長は一条に向き直った。「一条くん、とりあえずここは私に采配を任せてくれへんか」

「ええ、結構です。お願いします」  

「よし、そしたら今から芹沢と一緒に西端千鶴のマンションへ行って、カレーハウスを訪ねてきた男の手がかりを探してくれるか。昨日、遺体を引き取り来た両親が、篠山での葬儀が終わったらマンションの部屋を片付けるから、調べることがあったらそれまでに済ませて欲しいと言うてきた」

「分かりました」

 一条が芹沢を見ると、彼は冷ややかな眼差しで彼女を見下ろしていた。そして彼は言った。

「何かと不満はあるだろうけど、そいつはお互い様だからな」

「分かってるわ」


 刑事部屋を出た二人は廊下を階段へと向かった。

 一条は白いバッグの中を覗いて女性捜査官専用の小型拳銃が入っているのを確かめると、すぐに閉めて肩に掛けた。そして芹沢に後れをとらないよう、早足で彼を追いかけた。

「──ねえ、彼ってそんなに腕がいいの?」

 一条は前を見たままで芹沢に訊いた。

「鍋島のことか」

「ええ」

「とりあえず本部ではそれで名が通ってるみたいだぜ」

 芹沢は言った。「所轄の刑事が射撃の腕を買われて応援を頼まれるなんて、聞いたことねえだろ」

「そうね」

「柔道や剣道じゃ体格で損するから、その分射撃の腕を磨いといた方がいいと思ってせっせと練習したって本人は言ってるけど、俺はそうは思わねえな。ありゃ天性の才能だ。勘がいいのさ」

「人は見かけによらないものね」

 まあな、と芹沢は軽く笑ったが、すぐに真顔に戻って一条を見た。

「それに、あいつがさっきみたいにキレるのもまずないことだぜ」

「……そう」と一条は芹沢を見た。「でも、あなたは怒らなかったわ」

「俺はあいつほど真面目じゃねえから。あんたが何を言おうとどうでもいいのさ」

 そう言うと芹沢は階段を下りきったところで立ち止まり、一条に振り返った。

「──と言うより、あいつよりは少しだけあんたに馴れたってことかな」

「何とでも言えばいいわ。どうせわたしはここの人たちから疎まれてるのは分かってるから」

 一条がそう言うのをじっと見つめていた芹沢は、やがて背を向けて歩き出した。

「……だったらもうちょっと可愛げのあることが言えねえのかよ」

「え? 何? 何か言った?」

「何でもねえよ」

 芹沢は振り返らずに吐き捨てると、すぐに声を小さくして呟いた。

「……ったく、なんで俺ばっかあの女の相手しなきゃならねえんだ」

 彼は玄関に出て、駐車場に向かった。

「……頭に来る連中ばっかりだわ」

 一条は悔しそうに唇を噛んだ。

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