夜になってまた雨が降り出した。さほど激しい降りではなかったが、その代わりこの季節にしてはいくぶん温度の低い、霧のように細かな雨が音もなく空から落ちてきて、潮風に揺れる窓辺のカーテンのように優しく街を包んでいた。

 地下鉄の淀屋橋駅に向かう途中、鍋島は夜道に浮かぶ電話ボックスに入った。いまどき信じられないことだったが、彼は携帯電話を持っていない。財布から小銭を出し、何枚かを投入口に入れてボタンを押した。

 相手の電話が呼び出し音を鳴らしている間、鍋島はガラス一面に張り巡らされた風俗店のシールをぼんやりと眺めた。同じ一係の板東と浜崎が今日一日ネットカフェ巡りをしたが、山蔭留美子も西端千鶴も、今のところは浮かんできていない。

《──はい、三上です》

「麗子」

 鍋島はほっとしたような溜め息とともに言った。

《勝也? どうしたの?》意外そうな麗子の声だった。

「……疲れたよ」鍋島は言った。「毎日朝の七時から夜中まで、ずっと働きっぱなしや」

《……そう聞かされるだけでいやんなっちゃうわ》と麗子も溜め息をついた。《今、どこから?》

「地下鉄の駅の上」鍋島はガラスにもたれ、外を見た。「雨が降ってる」

《早く帰らないと風邪ひくわよ。傘持ってるの?》

「持ってへん」

《ほら。早く帰りなさいよ。タクシーでもいいじゃない》

「──今日、真澄の見合い相手が来たよ」

《……そう》

「おまえに教えてもらってきたって言うてた」

《ええ。あたしが会うように勧めたのよ。いけなかった?》

「いいや」

《それで……何て答えたの?》

「俺やないって言うたよ。俺であるはずがないって」

《……そう言った方がいいわね、やっぱり。その方が中大路さんも安心だもの》

「おまえにも心配掛けたみたいやな」

《あたしが? あたしは別に》と麗子は笑った。

「この前俺んとこに来たのも、ほんまはその話があったんやろ?」

《そうだったかしら》

 今度は鍋島が小さく笑った。強がるあたりが麗子らしいと思い、また可愛くも思えた。

「言いにくかったんか?」

《……そうね》

「何でや? 俺が怒ると思たんか?」

《分からないわ》と言って麗子は短く沈黙した。《たぶん──言ったあとのあんたの反応を見るのが怖かったのかも》

 鍋島は俯いて微笑んだ。そして言った。

「麗子」

《なに?》

「逢いたいよ」

《勝也……》

「今から行ってええかな」

《何言ってんのよ》

 言葉とは裏腹に、麗子は嬉しそうだった。《十一時半よ。明日も早いんでしょ?》

「ええねん。おまえの声聞いたら、顔も見たくなった」

 麗子はまた溜め息をつき、そのまま黙っていた。鍋島も何も言わなかった。決断を麗子に委ねることによって、彼女にイエスの返事をさせるつもりだったのだ。

《──分かった。じゃ、あたしがそっちへ行くわ》

「え?」麗子の意外な答えに、鍋島は少し戸惑った。「でも、おまえ──」

《いいのよ。あたしは明日講義がないし。大丈夫よ、タクシー呼ぶから。どこなの? そこ》

淀屋橋よどやばしの南詰。銀行の前や」

 鍋島は外を見ながら言うと、電話に振り返った。「いや麗子、俺は──」

《あたしも逢いたい。三十分で行くわ》

 そう言うと麗子は電話を切った。

 鍋島は受話器を見つめてふうっと息を吐いた。しかし、諦めたように受話器を戻すと、返ってきた小銭を取ってドアを開けた。


 麗子の方は切った電話ですぐにタクシーを呼び、大急ぎで着替えをした。やがて到着したタクシーに飛び乗り、車中で化粧を直した。タクシーは彼女が乗り込むときに注文した通りハイスピードで国道を飛ばし、思ったよりも早く淀屋橋に到着した。

 タクシーを降りた麗子はあたりを見渡した。銀行の前に鍋島の姿はなく、おそらく彼がここから彼女に電話を掛けたのだろうと思われる電話ボックスにも人影はなかった。相変わらず霧のような雨は降り続いていた。麗子は手に持った傘を広げ、頭の上にかざしてもう一度鍋島の姿を探した。

 広い車道を隔てて北へ掛かる淀屋橋の欄干のそばに人の姿があった。橋の向こうから近づいてくる車のヘッドライトに背中から照らされ、シルエットで浮かび上がって顔は見えなかったが、麗子にはそれが鍋島であることが分かった。

 麗子はゆっくりと歩き出した。車道を横切り、鍋島に近づくにつれて足早になっていった。鍋島は麗子が駆け寄ってくるのを見守りながら数歩前に出た。そして彼女が目の前まで来ると、その手を取って抱き寄せた。麗子が持っていた傘が落ちた。

 しばらくの間何も言わなかった。麗子は鍋島の肩に両腕を回し、鍋島は麗子の背中を抱え込んだ。お互い、相手の鼓動が感じられるほど、しっかりと身体を寄せ合った。やがて麗子の方が小刻みに震え、泣き出しそうになっているのが分かった。

「勝也、ごめんね」

 麗子が弱々しい声で言った。「あたし……ずっと真澄に遠慮してたんだわ。どうしても彼女からあんたを奪ったような気がして仕方がなかったの。だから中大路さんがあんたのことであたしを訪ねてきたとき、あたし、毅然とした態度でいられなかった。真澄があんたのことを好きだなんて、そんなはずない、勝手な勘違いしないでくれって言えなかった。あんたに会われると迷惑だって、恋人だったら当然言うはずの嘘が言えなかったのよ」

「分かってるよ。おまえにそんなことができひんことぐらい」鍋島は優しく言った。

「──あたし、どこかまだあんたの彼女になり切れてない。あんたを好きな真澄の従妹のままなのね」

「……麗子」

「だけど、本当は不安だった。勝也のことよく分かってて信じてるつもりでも、何だか心配で……真澄が今でもあんたのことを忘れられないでいるって知ったら、少しでもあんたの気持ちが揺らぐんじゃないかって」

 そこまで言うと麗子は感極まったように息を呑み、そして続けた。

「分かるでしょ? あたしはこんなだけど──あんたが大切なの。真澄にも、誰にも渡したくないのよ」

「ああ」

 鍋島は頷くと麗子からそっと身体を離し、彼女の顔を覗き込んだ。

 麗子の瞳は潤んでいた。しかし、強気な表情で鍋島を見上げると、かすれきった声で憎まれ口を言った。

「……笑いたきゃ、笑いなさいよ」

「笑わへんて」

 そう言って鍋島は穏やかな笑みを浮かべた。それから彼女の額に自分の額をくっつけ、ゆっくりと顔を近づけながら囁いた。

「……俺はおまえのもんや」

 麗子の表情が歪み、唇が重なった途端に細い涙が流れた。

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