裁判所の裏手にある画廊喫茶で、鍋島はテーブルを挟んで中大路と向かい合っていた。

 鍋島は煙草を吹かしていた。自分の方がこの男に用があったわけではないので、何も話すことがなかった。だからと言っていつまでもこのニコニコ笑っているだけの男を眺めていても仕方がない。人の笑顔を見て自分も楽しい気分になるほど、今の鍋島には余裕は無かった。だからやがて彼は切り出した。

「あの失礼ですが、麗子とはどういう──」

「あ、すいません、お呼び立てしておきながら」

 と中大路は目を見開くと、すぐにまた笑顔に戻って言った。

「ご安心ください。三上さんには鍋島さんのお勤め先をうかがっただけですから」

「そうですか」

 鍋島は少しだけほっとした。いくら麗子が男女の区別なく誰とでも気さくにつき合える性格だとは言え、初めて会う男から彼女の名前を聞かされるとやはりあまりいい気がしなかった。案外、俺も嫉妬深い方なのかも知れないと、鍋島は思って胸の中で苦笑した。

 ところが、男はさっきまでの笑顔を消した。そして大きく息を吐くと、重々しく口を開いた。

「──僕がご縁のあるのは、三上さんではなくて……野々村ののむらさんなんです」

「えっ?」と鍋島は顔を上げた。「真澄ますみ……ですか?」

「ええ、そうです。真澄です」

 中大路は頷くと、じっと鍋島を見つめた。


 野々村真澄は麗子の従妹だった。四年ほど前、まだ友達だった麗子から従妹だと言って紹介されたのが真澄と鍋島の最初の出会いだった。

 真澄は京都に住む開業医の娘で、自宅で茶道と華道を教えており、アメリカ育ちで自立心の強い麗子とは正反対の箱入り娘タイプの女性だった。

 そして、そんな彼女がどういうわけか鍋島に恋をした。それに鍋島がようやく気づき始めたのが、知り合って三年経った去年の秋頃だった。周りにさんざんけしかけられたせいもあって、鍋島は一途な彼女の気持ちに応えようと、自分の誕生日でもあるクリスマス・イヴに真澄をデートに誘った。しかし、そこで気づいたのは、自分が本当に好きなのは彼女ではなくて麗子の方なのだということだった。鍋島は卑劣にも──自分でそう思っているのだが──自分から誘った真澄をふったのだ。

 しかも、その日のうちに麗子に気持ちを打ち明け、二人はつき合い始めたのだった。

 それ以来、鍋島は真澄のことを考えると胸が痛んだ。ふった相手のことをいつまでも憐れむのは相手に対するものすごい侮辱だと分かってはいたが、申しわけなく思わずにはいられなかった。それというのも、その日以降も鍋島は何度も真澄と顔を合わせていたし、その都度、彼女は以前と変わらず明るく振る舞い、そして相変わらず鍋島に対して好意的に接してくれていたからだ。鍋島はそんな真澄を見ると、どうしても彼女に対する罪悪感を感じてしまうのと同時に、自己嫌悪に似た気持ちを抱いてしまうのだった。

「──鍋島さん?」

 中大路に声を掛けられ、ぼんやりと考え込んでいた鍋島は顔を上げた。

「あ……はい」

「僕、今年の一月に野々村さんとお見合いをしたんです」

 鍋島はどきっとした。その見合い話が真澄に持ち上がったとき、彼女は自分に対する鍋島の気持ち次第ではその話を断ろうとしていたのだ。鍋島もそのことを麗子から聞かされ、一時は本気で悩んだこともあった。

 その後、真澄が見合いをしたことは知っていたが、相手がどういう人物で、つき合いが続いているのかどうかまでは知らなかったし、訊けなかった。

「そうですか──それで、おつき合いなさってるんですか?」

「ええ、まあ」と中大路は返事を濁した。

「で、俺に何か?」

 中大路がなぜ自分に会いに来たのか、何となく想像がつきながらも、鍋島はあえて訊いた。と言うより、そう訊くしかなかったのだ。

「見合いをしてから半年近く経ちます。こんなことを初対面の方に言うのも何ですが、とてもうまく行っていると思ってます。僕は彼女を生涯の伴侶にと決めました。彼女の方もそうです。いえ、決して自惚うぬぼれているんじゃありません。彼女もそういう意味のことは言ってくれてますし、何より僕に対する言葉や態度から、僕と結婚すると決めたことが感じられるんです」

「それは良かったですね」

 鍋島は頼りなく言った。しかし、言葉通りにほっとしたというのも事実だった。

「ところが、僕の中でまだ解決していないことがあるんです」

「……何ですか」

「実は、初めてうたとき、彼女、正直に言うてくれたんです。『まだ心の中にどうしても忘れられない男性ひとがいる』って……おそらく、僕との話を断るつもりやったんでしょう」

「そうなんですか」

 激しい心の動揺とは裏腹に、鍋島はとぼけた対応をすることに決めた。

「彼女、ほんまは今もまだその気持ちが強いようなんです。自分では気づいてないようやけど」

「でも、あなたとの結婚を決めたんでしょう? そんな素振りを見せて、あなたの気持ちを試そうっていうちょっとした悪戯心でしょう。女の子の好きそうなやり方ですよ」

「でも、式を挙げるにはもう少し時間が欲しいって言うんです」中大路は心細そうに言った。

 鍋島は何も言わなかった。何を言ってもその相手が自分だということがばれてしまいそうだった。

 その態度に何かを感じたのか、中大路は顔を上げるとじっと鍋島を見据え、ゆっくりと言った。

「──鍋島さん。やっぱりそうなんですね?」

「は?」

「真澄さんが忘れられない相手というのは、あなたなんでしょう?」

「違いますよ」鍋島はあっさりと否定した。「彼女がそう言うたんですか?」

「いいえ、でも──」

「じゃあ何か根拠でも?」

 鍋島はわざと素っ気なく訊いて煙草を咥えた。しかし、本音ではなぜ分かったのか知りたくて仕方がなかった。

「彼女とつき合うようになって三ヶ月ほど経った頃です。三上さんと初めてお会いしたのは」

 そうやったんか、と鍋島は思った。麗子はそんなことひとことも言わへんかったな。

「三上さんと会うたび、真澄さんは彼女に訊くんです。あなたとの仲はうまくいっているかとか、喧嘩は駄目やとか──とにかく、あなた方をその……気に掛けているという感じの言葉です。それでいて鍋島さん、とてもあなたのことを気にしている」

「俺と麗子とは、長い間ただの友達でしたから。しかも、会うとしょっちゅう喧嘩ばかりで。真澄──野々村さんはそう言うことをよく知っていますから。きっと心配してくれてるんですよ」鍋島は何とか言い繕おうとした。

「それだけでしょうか?」と中大路は言った。「それやったら、何で三上さんはあなたとのことを真澄さんに話したがらないんでしょう?」

「さあ。その場に居合わせてないんで、何とも言えませんけど」

 そう言いながらも、鍋島は中大路の勘の鋭さに驚かされていた。そしてこの男を刑事にして取り調べでもさせたら、結構うまくやれるんじゃないかと無意味なことを考えたりもした。

「──三上さん、真澄さんに遠慮してるって感じでした」

 中大路は言ってまた鍋島をじっと見た。

「照れ臭いんでしょう。今までさんざん憎まれ口を言い合ってた相手と、結局つき合うてるんで」

 内心ドキドキしながらも、鍋島は何でもなさそうに言って肩をすくめた。

 ──取調中の容疑者の心境。今、目の前にいるのが中大路でなくて芹沢だったら、きっとあいつは俺の顔を見て不適に笑い、こう言うだろう。『そのツラはそうですって言ってるぜ』と。

「じゃあ、やっぱり僕の思い過ごしだと?」中大路は言った。

「そうなんじゃないですか」と鍋島は頷いた。「その──もしも野々村さんにまだ忘れられない相手がいたとしても、それは俺やないです。確かに、あなたがそう思われるのも分かります。俺は四年近く前から彼女を知ってるし、麗子がドイツに留学している間もよく彼女と会いました。けど、二人きりで会うなんてことはなかったですよ」

 そうですか、と中大路はようやく白い歯を見せてにっこりと笑ったが、頼りなげな表情は残して言った。

「どうか、お気を悪くなさらないでください。馬鹿で気弱な男の妬きもちやと思って」

 いいんですよ、と鍋島も笑った。「──でも、俺に会うてどうなさろうと?」

「実は先日、三上さんにこの事情を話したんです。そうしたら、どうしても心配なら直接あなたに会って確かめればいいとおっしゃったものですから……こうして、のこのこと」

 鍋島は小さく頷いた。下手な小細工の嫌いな麗子らしい言い方だと思った。

「やっぱり、気になるもんですよ。自分の勝手な思い込みにしろ、一度そう言う不安を抱いてしまうともう消すことができない。彼女が忘れられないほど好きやった相手はどんな男なのか、自分と比べてどこがどう違うのかって……年甲斐もなく、ティーンエージャーの小僧のように」

「俺を見たら安心なさったでしょう。ああなんや、こいつではないなって」鍋島は笑いながら言った。

「いえ、逆にやっぱりあなたなんやないかって思いました」中大路は大真面目だった。

 ──俺は絶対に犯罪を犯すのはやめとこう。こんな素人にまで嘘を見抜かれるやなんて、これではとてもやないがプロの刑事には太刀打ちできそうにもない。

 鍋島は俯いて溜め息を漏らした。そして、それでもどうにかして切り抜けようと顔を上げた。

「中大路さん。考えてもみてくださいよ。万が一、仮の話ですよ。真澄……野々村さんが俺のことを想ってくれてたんやとしても、俺みたいな男が彼女に相応しいと思いますか? 俺のこの格好、そしてこの顔を見てください。昨日、レスラーみたいな男としたくもない鬼ごっこをして、挙げ句にそいつの汚い靴の踵で顎を蹴飛ばされたんです。昨日一日、口の中は血の味しかしませんでした。仕事とは言え、こんな傷を毎日のように身体のどっかに作ってる」

 そこで鍋島は声のトーンをぐっと落とした。「……おまけに、このパーカーの下には、ほんの1センチも指を動かせば人を殺せる道具を持ってるんですよ」

「仕事と人格は別でしょう。だいいち、警察官の方がいらっしゃらなかったら我々は安心して暮らせません。立派なご職業です」

「本当にそう思いますか? 警察官のことを聖職者なんて言うた時代もあったけど、もう大昔の話です。さっき署から出てくるとき、玄関の階段とのところで捜査員に抱えられて上がってくる男とすれ違ったでしょう。あいつはタイやフィリピンの女を専門に売春の斡旋をする人物です。覚醒剤やら性病やらに身体を蝕まれて、明日にでもくたばってもおかしくない女を日本人の男に抱かせて、その女から金を巻き上げるクソ野郎ですよ。俺は毎日あんな連中を相手にアホな猿芝居をやってる。そのあいだにそいつらから唾を吐き掛けられることもしょっちゅうなんです」

「はあ……」

「それでも絶対に人格に影響はないって言い切れますか? こんな仕事をやってて、いつまでも聖人のように清らかな心を持ち続けられるって、本当にそんなことができると思いますか?」鍋島は訴えかけるように言った。「正直、俺には自信がないですね。野々村さんにも、そんな俺が我慢できるはずありませんよ」

「──三上さんなら、我慢できると?」

「ええ。あいつは、今さっきあなたもおっしゃったように、俺と俺の仕事を切り離して考えることができるんです。警察官になる前からの俺を知ってますから」鍋島は確信に満ちた表情で言った。「もっと根本的なところで俺を選んだんです」

「……分かりました。あなたがそこまでおっしゃるなら、僕もそれで納得することにします」

「お願いします」

 二人は氷の溶けたアイスコーヒーを飲んだ。鍋島は新しい煙草に火を点け、一服吸い込むと長い煙を吐いた。

「──中大路さんのお仕事は何ですか?」

「家具やインテリア雑貨の輸入業です。まだ親から引き継いで間がありませんが」

「へえ、若旦那なんや」

 そんなお上品な商売のお坊ちゃんにこっちの仕事を云々言われてたのかと、鍋島はちょっと腹立たしく、そしてアホらしくなって密かに苦笑した。

「ところで鍋島さん、お歳は──」

「今年で三十です」

「えっ? 本当ですか?」中大路は驚いて身を乗り出した。「もっとお若いのかと……」

「よく言われます」と、今度は素直に笑った。

「ほな、僕と同い年なんですね。何月ですか?」

「十二月です」

「や、僕もですよ。何日です?」

「二十四日」

 こんなことでも夢中で話せるところが真澄とよく似ているなと思いながら、鍋島は素っ気なく答えた。それから、西端千鶴はどうやってあのペンダントを手に入れたのだろうかと考えた。

「僕は二十五日なんです。一日違いか……へえ、奇遇やなあ」

 奇遇やなくて皮肉って言うた方がええかもな。嬉しそうに微笑む中大路を見ながら、鍋島は心の中で呟いた。

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