第四章 セレナーデ──Serenade


 通り魔殺人事件──昨日の時点で連続通り魔殺人事件となった──の捜査本部に入ってから、鍋島と芹沢の勤務体制は普段とはまるで変わってしまっていた。通常は、朝八時半から夕方五時半までの日勤が四日続いたあと、夕方五時から朝九時までの宿直が一日、そしてそのまま翌日一杯までが非番となる。この七日間をワンサイクルとしたローテーションを刑事課一係から四係までの十六組の刑事が二組ずつ、つまり八つのグループで回しているのだが、捜査本部事件や長引く事件を担当してしまうと、たちまちその規則性は崩れてしまう。と言うより、実質この勤務体制は宿直当番以外はなきに等しかった。


 刑事課のメンバーは課長を含めて三十七人、その全員が毎日のように出勤しており、しかもほとんどが十五、六時間は働いている。宿直が明けてもそのまますぐに帰宅できるようなことは滅多にない。つまり彼らは一日、いや一週間、いや一年のほとんどをこの西天満周辺で過ごしていると言っていい。

 そして彼らのほとんどは、かつて警官になるにあたって一番恐れていたのが殉職であったことに馬鹿らしさと懐かしさを感じており、同時に今は、自分は間違いなく過労死で天国なり地獄なりへと逝くのだと確信しているのだった。

 今回の事件もそうだった。鍋島と芹沢が宿直の時に事件が発生して以来、二人は大幅な勤務時間の拡大を強いられていた。それどころか、犯人を逮捕できないとずっとこのままだ。非番など当然なしだ。

 おまけに、普段二人が同じ事件を追うことの多い高野や島崎は宝石強盗の方に回っているから、西天満署から捜査本部入りしている人員は少なく、その中では彼らが中心となって動かなければならなかった。肉体的にも精神的にも、相当疲れが溜まってきていた。


 今日も二人は朝七時には刑事課に上がってきていた。昨夜この部屋をあとにしたのは午前二時を回っており、二人とも署から三十分以内のところに住んでいるおかげで他の捜査員たちのように署に泊まる必要こそなかったが、帰ってから三、四時間も経つともう出勤時間がやってくると言う毎日が続いていた。

 鍋島は起きがけにシャワーを浴びてきたのか、洗い髪に無精髭のまま出勤してきた。日頃身だしなみには気を遣っている芹沢も徐々にそんな余裕はなくなってきたらしく、はき古したジーンズに黒のデニムシャツを無造作に羽織り、手櫛で適当に整えた髪の下から眠そうな目を覗かせていた。ただし彼の場合、そんな無頓着な格好をしていてもあえてそこに何かしらのファッショナブルなメッセージが込められているように見えてしまうのだから、はいはい分かった、あんたはいいよな、もう何でも好きなようにやってくれと、周りの人間たちは羨ましさを通り越して完全降伏の白旗を揚げているかのごとく心境に達しているのだった。

 ともあれ、そんな疲労をため込んだ刑事たちを見て、捜査本部の幹部たちは必要以上に長い会議は連中の士気を奪っていくだけと、凶悪な事件にしてはめずらしく短い時間で朝一番の会議を切り上げた。

 会議では、次の点が確認された。


 司法解剖結果──胸と背中を中心に合計三ヶ所の刺し傷、腕などに合計八ヶ所の切り傷があった。また、一件目の被害者と同じく太股にも一ヶ所深い傷を受けていた。致命傷は背中から心臓に達した一突き。死因は失血死、血液型はO型。性交渉の痕跡なし。死亡推定時刻は六月二十四日午前十一時から正午の間。

 現場検証結果──凶器は未発見。犯人らしき人物の指紋は採取できず。現場には無数足跡があり、血痕によって出来たものもあったが、いずれも不鮮明のため履いていた靴やサイズ等は判明できず。現時点で有力な目撃証言等もなし。

 被害者について──西端千鶴にしはたちづる、二十一歳。梅田地下街のカレーハウス『プチ・デリー』店員。住所は天王寺区大道だいどう。ワンルームマンションで独り暮らし。なお、被害者の当日の所持品と思われるものは現場周辺や職場から一切見つかっていない。


 そうやって今日も長い一日が始まり、すでに時計は午前十時を指していた。昨日に引き続いての現場検証から戻った二人は、捜査本部の置かれている会議室で植田課長に報告を入れていた。

「やっぱり何も見つからんかったか」課長は言った。

「ええ。二日掛かりで捜索して駄目ってことは、凶器も含めて犯人が持ち帰ったと考えていいと思います」芹沢が答えた。

「実家とは連絡取れたんやな」

 今度は鍋島が答えた。「はい、何しろ身元が割れたのがゆうべ遅くやったでしょう。せやから今朝早くにようやく」

 殺害されたとき、被害者は身元の判るものは一切身につけていなかった。その身元が判明した経緯はこうだ。

 昨夜十時頃のニュースで事件を知ったカレーハウスの店長が、報道されている被害者の特長が自分の店のウェイトレスによく似ているようだと言って署に連絡してきたのだ。そのウェイトレスは昨日の昼休みに店を出ていったきり戻っては来ず、携帯に連絡したが応答がなかったので店長も不審に思っていたという。

 そして店長が遺体を確認したのだが、彼女はつい二週間ほど前に引っ越したばかりで店長はまだその住所を知らされておらず、また急募によるアルバイト雇用だったためにまともな履歴書も提出されていなかったので、携帯の電話番号から彼女の住所を突き止め、部屋を捜索して実家を割り出したのが今日の未明のことだった。実家は兵庫県の篠山ささやまで、父親が町役場の職員、母親は中学校の事務職員をしている。お堅い家だった。

「先に病院に行ったあと、こっちに来る予定です」芹沢が言った。

 課長は溜め息をついた。「こうなったものの、西天満署うちからの増員はちょっと無理やな。係長と島崎は例の横浜の事件ヤマから離れられへんし、みなと北村きたむら老松おいまつ通りの骨董屋強盗の事件が大詰めを迎えてる。小野おのが研修から戻るのもまだ先や」

「ええ、分かってます」と鍋島は言った。「それで、さっき捜一の班長にも許可を取ったんですけど、今日から俺らは別々に動くことにしました。俺は派出所の連中と一緒に、現場周辺を中心に目撃者探しです」

「こっちは被害者の同僚に聞き込むことになってます。昨日は店長からしか話が聞けてないみたいなんで」芹沢が続けた。

「そうか」と課長は頷いた。「この二件は間違いなく同一犯や。ということは、昨日の戸田って男は釈放したんか?」

「ええ。奴を尋問してる間に事件が起こった以上、奴にはこれ以上ない完璧なアリバイが出来たんですから」

 二件目のドタバタで自分たちが報告しなかったとは言え、このおっさんは何も知らんなと思いながら鍋島は答えた。

「それから」と芹沢が言った。「この二件は、いわゆる通り魔的な性質のものとは違うと思うんです」

「それは……対象が無差別ではないと言う意味やな?」

 ええ、と芹沢は頷き、鍋島に振り返った。「な?」

 鍋島は頷くと続けた。「昨日殺された西端千鶴は、仕事の昼休みにやられてるんです。休み時間が終わっても戻って来ぇへんから、おかしいと思てたんやって店長が言うてます。けど普段から割と気紛れな子で、今までにも無断欠勤したことがあったらしくて、昨日は店も暇やったから早引きでもしたのかと思てたらしいんです」

「それにしたって昼休みにわざわざ梅田から天満まで来るなんて、ただ休憩するだけにしちゃ不自然でしょう。おまけにあんなところで」

「つまり、誰かに呼び出されたということか」

「山蔭留美子の場合だってそうです。バイトが終わってから五時間もあとに殺されてる。すぐに帰ったらそんな目に遭わなくて済んだのに。しかも、その五時間の行動がいまだに不明なんです。捜一の連中が徹底的に洗ってますがね。二人とも、誰かに会ってたと考えるしかないでしょう」

「結局は二人の共通点を探すことになるか。そこに共通の人物がいるかも知れん」

「そういうことです。俺たちがすぐに通り魔の線から外されたのがその証拠です」

板東ばんどう浜崎はまさきは──ネットカフェを当たるって言うてたが──」

 課長は顎に手を当てながらゆっくりと言って、二人の後ろに視線を移した。

「どうかしましたか」と鍋島が言った。

「いや、さっきから彼女が──」

 二人が振り返ると、後ろに並んだ長机の灰皿を片付けていた婦警の市原いちはら香代が、伺うようにこちらを見ていた。彼女は刑事課で庶務を担当しているのだが、こうして刑事課の関わる会議があるときなどは後片付けなどを手伝いに来る。

「おまえに用があるんとちゃうか」

 課長は小声で言って芹沢を見上げた。 「ほれ、聞いてやれ」

「何でも俺に振らないでくださいよ」

 芹沢は顔をしかめて課長に抗議した。それでも結局は振り返り、例の完璧な笑顔で声を掛けた。「香代ちゃん、どうかしたの?」

「──あ、いえ」

 香代は芹沢を見ると、ちょっと恥らうように微笑んだ。しかしすぐに真顔に戻り、課長の座っている長机の後ろのホワイトボードを見て言った。

「あの、そこの写真なんですけど──」

 三人はホワイトボードに振り返った。そこには、西端千鶴の事件に関するさまざまな確認事項が書かれており、空いた場所に現場や被害者の写真がマグネットで留められてあった。

 机を拭いていたふきんを持ったまま、香代は近づいてくると写真の一枚を指差した。「その、被害者の胸元の拡大写真のことです」

「これがどうかしたか?」と課長が言った。

「そこに写っているペンダントですけど──あたし、それに見覚えがあるんです」

「というと?」

「……横浜の事件の盗品リストの中にありました」

「何だって?」

 芹沢は言うと思わず鍋島を見た。鍋島も驚いた表情で香代を見ていた。

「……どう言うことか、詳しく話を聞こう」

 課長は静かに言うと立ち上がった。「ただしここではまずい。うちの部屋に行こう」

 鍋島と芹沢は課長の思惑を理解した。ことがことだけに、間違いは許されない。はっきりしたことが確認されるまでは、捜査一課の誰かに聞きつけられてはまずいと思ったのだろう。そしてそれは、明らかに所轄署としての縄張り根性の裏返しでもあった。

 刑事課に戻る途中、香代は小声で話した。

「──先週、一条警部が来られるよりも先に横浜から事件の捜査資料が送られてきたんですが、その中に宝石店から盗まれた商品のリストとその写真もあったんです。ところが写真は封筒の中でバラバラになってました。それで私が係長に頼まれて、リストと照らし合わせて写真の裏に一つ一つ商品名を書き入れる作業をしたんです」

「そこにこのペンダントらしきものがあったってことか」

 課長は上着の左胸を叩いた。その内ポケットに、ボードから外してきた西端千鶴の胸部の傷を写した写真を入れてあるのだ。

「ええ、そうです」

 課長は後ろの二人に振り返った。二人は黙ったままだった。


 刑事課に戻ってくると、課長は廊下からカンウター越しに一係のデスクで話し込んでいる高野たちを呼んだ。

「高野係長──島崎も一条警部も、ちょっと来てくれ。盗品リストとその写真も一緒に頼む」

 一条と高野が立ち上がり、こちらへ向かってきた。島崎はデスクの捜査資料の中からリストと写真を選び、 一足遅れてあとに続いた。

 廊下の四人は先に向かいの取調室の一つに入り、三人がやってくるのを待った。

「──何です? 何があったんです」

 部屋に入るなり、高野が訊いてきた。鍋島と芹沢の二人はともかく、庶務係の香代までが一緒なのが 不思議でならない様子だった。

「昨日の殺しの被害者ガイシャが、そっちの盗品ブツを身につけてた」

「何ですって?」

 中央のデスクを挟んで課長の向かいに座った一条が思わず身を乗り出した。「どこで手に入れたんです?」

「それ、何の宝石ですか?」

 入口付近に立った島崎が詰め寄るように訊いた。

「宝石やない。プラチナのペンダントや」

 課長は言うとポケットから例の写真を取りだして机に置いた。高野、島崎、一条の三人は一斉に覗き込んだ。

「島崎さん、宝石店に出回った盗品の中に、こんなのありましたっけ?」

 一条が島崎に振り返って言った。

「いや、全部何らかの石が付いてたはずや。リストを確認したら分かる──」

 島崎は持っていた捜査資料をデスクに置き、がさがさと掻き回し始めた。

「出回ったものじゃありません。横浜の宝石店の被害リストの中にあったんです」

 香代が言って、島崎と一条は彼女に振り返った。

「それ、本当なの?」

「ええ。間違いないと思います。確認してください」

「──あった、これや。プラチナのオープンハート」

 島崎が資料の中から一枚の写真を取り上げ、西端千鶴の遺体の写真の横に置いた。全員が身を乗り出した。

 両方の写真に写っていたペンダントは、どうやら同じもののようだった。

 誰もが写真を見つめたまま、しばらくのあいだ黙り込んでいた。

「──デザインは同じだけど、モノとしては別ってことじゃないんですか」

 ようやく芹沢が口を開いた。「ほら、同じブランドの同じ商品とか」

「いや、これは──店のオリジナルやと書いてある。つまり、この店だけで売られてた商品ってことや」

 島崎がリストを見て言った。

 課長は眉間に深く皺を寄せて俯いた。「と言うことはやな、つまり被害者はこれを──」

「犯人から直接手に入れた」

 五人の刑事が、ほぼ同時に言った。

「……そう言うことやな」

 あって欲しくないことが起こってしまい、聞きたくない言葉を聞いたときのように、課長は諦めがちに言うと溜め息をついた。

「じゃあ、通り魔殺人も宝石強盗犯の仕業ってことになるのかしら?」

 一条は言って隣に立った芹沢の顔を見た。

「目的は?」

「上手く言って盗品を売りつけたものの、正体がバレたとか」

「どうだろうな。それなら売ったブツをそのまま遺体に残しておくか?」

「殺しの犯人が宝石強盗犯からブツを手に入れて、それをダシに女の子を誘いだしたとも考えられるんやないか?」鍋島が言った。

「それも言えるわね」

「だとしたら、最初に殺された女子大生にもそれらしい遺留品があったってことか?」島崎が訊いた。

「いや、少なくとも殺されたときには身につけてませんでした」

「ほな家に残ってる可能性もあるわけや」

「けどそれだったら、ブツをダシに誘い出されたってことにはならねえって」

「うーん、繋がりがあるのかないのか……」島崎は腕を組んだ。

「ただの偶然かも知れんしな。極めて確率は低いが」と高野。

「でも、少なくともこっちの事件の手がかりにはなりそうよ」

 そう言うと一条は鍋島と芹沢の二人を見た。「ねえ、その被害者の周辺を洗うなら、わたしも同行させてもらえないかしら。どこでそのペンダントを手に入れたのか知りたいわ。どっちが行くの? それとも他の誰か?」

「俺だけど、でも──」芹沢は高野に振り返った。

「警部のやりたいようにさせてあげてくれ」

 高野は言うと、課長に振り返った。「構いませんよね、課長?」

「ああ、良かろう。の連中には適当に言うとく」

 芹沢は最後に鍋島の顔を見た。その目は、必死で助けを求めていた。しかし鍋島はにやりと笑っただけだった。

 その時、入口そばのデスクに置いた内線の電話が鳴った。香代が取り、すました声で応対に出た。

「──はい、ちょっとお待ちください」

 香代は受話器を手で覆って刑事たちに振り返った。「受付からですけど、鍋島さんにお客様だそうです。ナカオオジさんとおっしゃる男の方ですって」

「ナカオオジ?」と鍋島は首を傾げた。「……知らんな。この忙しいのに誰やろ」

「どうします? 帰っていただきますか?」

「行ってこいよ。俺は警部とご一緒させてもらうから」

 芹沢がわざとらしく言った。

「あ……ああ」

 鍋島は頼りなく答えると香代に言った。「ロビーで待っててもらうように言うてもらえるかな」


 刑事部屋に戻ってスタイリング・ローションで髪を整え、鍋島は一階のロビーへと向かった。昨日の顎の痛みはまだ残っており、口許にも昨日よりは小さくなってはいるもののまだ絆創膏が貼ってあった。服装も、着古したパーカーにくたびれたTシャツ、色褪せたジーンズといういつもながら情けないありさまで、こんな日に初対面の、しかも得体の知れない人物と会うのは嫌だった。女でなかったのがせめてもの救いやなと、鍋島は重い足取りで階段を下りながら考えた。

 ロビーに出た鍋島はあたりを見渡した。

「鍋島巡査部長」

 受付の婦警に声を掛けられ、鍋島はそちらを向いた。婦警はロビーの中央に置かれた公衆電話のそばに立っている男を手で示した。

 鍋島は男に近づいていった。身長180cmくらいのがっしりとした体格で、黒のポロシャツにベージュのパンツをはき、腕には同系色のジャケットを掛けていた。縁のない眼鏡を掛け、人懐っこそうな瞳をレンズの奥から覗かせている。年齢は三十歳前後と思われた。そして、彼の方も鍋島の顔を知らないらしく、こちらに向かって歩み寄ってくる気配はなかった。

「──あの、ナカオオジさんですか」

「あ……」

 男はじっと鍋島を見つめた。明らかに驚いているのが分かった。(こいつが刑事か?)とでも思っているのだろうと鍋島は考えた。

「刑事課の鍋島です」と彼は自己紹介をした。「失礼ですが、どちらの──」

「どうも、お忙しいところを申し訳ありません」

 と男は頭を下げた。「中大路寛隆なかおおじひろたかと言います。こちらへは、三上麗子さんに教えていただいて参りました」

「麗子に……?」

 鍋島はぼんやりと呟いた。

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