その夜、萩原が自室のベッドでうとうとし始めていると、テーブルに置かれた携帯電話が鳴った。意識が完全に覚醒していなかった彼は、探るようにして電話を掴むとボタンを押した。

「──はい、もしもし」

《……萩原くん?》

 消えてしまいそうな女性の声だった。

 萩原は少しのあいだ黙っていた。しかしやがて思いついた表情になると、慎重に言った。

「──智子?」

《そう。ごめんなさい、こんな時間に》

「いや、いいけど」

 萩原は身体を起こし、枕元の時計を見た。十一時半だった。

「美雪に何かあったんか?」

《ううん、違うの》

「ご主人は?」

《今日と明日で大学の同窓会旅行へ出掛けてるわ》

「ええのか? そんなときに俺に電話なんか掛けてきて」萩原は小さく笑った。

「……美雪は?」

《もうとっくに夢の中》

「それで──何か話でも?」

《実は……ゆうべのことなんやけど》

「ゆうべって、俺とご主人が会うたことか?」

《そう、そうなの》と智子は強く同意した。《何の話やったの?》

「ご主人から何も聞いてないんか?」

《ええ。ただ、美雪の話をしてきたとだけ》

「その通りや。美雪の誕生会の話をしたんや」

《それだけ?》

「それだけって?」

《だって、その……萩原くんがわざわざ主人を呼び出すから、つい》

「また良からぬことでも言いだしたと思たか?」

《そうやないけど、帰ってきても主人が何も言わへんから》

「心配することないって」と萩原は穏やかに言った。「いや、美雪のことで榊原さんがいつまでも俺に気を遣ってはるみたいやったから。せやかて、俺に誕生会に行ってもらいたいやなんて、やっぱりちょっと具合悪いやろう? もう俺のことはええから、美雪の今の父親は榊原さんなんですからってことを俺の口からはっきり言うといたら、榊原さんも安心やろと思て。それで会うたんや」

《──そう》智子の声に安堵感が流れた。

「まあ、大人同士の話し合いだけですべてが解決する問題でもないやろうけど」

《ごめんね、疑ってるみたいな電話して》

「ええよ。きみにそう思われるようになったのも、自業自得やから」

 智子は何も言わなかった。自分と結婚していた頃の萩原にはこんな弱気とも思えるほどの謙虚さは微塵もなかったし、周りに細かく気を遣うタイプでもなかった。逆に子供のようなわがままさがあり、それでいてどこか危険な脆さの漂う男だったはずだ。智子はちょっと残念な気がした。

「美雪は相変わらずか? 榊原さんに対して」

《そうね──普段はそうでもないんやけど、幼稚園で何か行事があるときとか、それから萩原くんに逢うたあとなんかは、どうしても拒絶してしまうみたい》

 そうか、と萩原は溜め息をつくとテーブルの煙草を取って火を点けた。

「──けど榊原さんも言うてはったよ。子供には子供のペースがあるから、大人がそれを急がせるのには無理があるって」

《あの人が?》

「ああ。何で? 不思議か?」

《あの人──美雪が何を言うても怒ったりしいひんし、かと言うて逆になだめるようなこともないから、やっぱり扱いに馴れてないんやと思ってたから。興味もなさそうやし》

「それは違うよ。あの人は美雪が可愛いはずや」

《萩原くん、分かるの?》

「いや、その……そういう感じがしたから」

《あの人、意外と見た感じとは違うのよ》

 萩原は灰皿の中で煙草を潰し、テーブルに戻した。

「──なあ、智子」

《何?》

「信じてたらええよ、あの人を」

《萩原くん……》

「きみを裏切った俺が言うと怒るかも知れんけど──あの人は大丈夫や。ちゃんときみと美雪を幸せにしてくれるよ」

《萩原くん、あまりそういうこと言わんといて》

「え?」

 智子から意外な言葉が返ってきて、萩原はちょっと驚いた。

《もう、萩原くんのことは恨んでないから。そうやって自分を責めるようなことは……》

「ごめん、つい──」

《ほら、それ。萩原くんらしくないわよ》智子は笑っているようだった。《もっと強がっててよ》

「分かった」萩原も苦笑いをした。

 こうして夜更けに電話で話していると、二人にはまだつき合い始める前の大学一年の頃が思い出された。

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