奇妙な光景だと思った。

 北浜きたはまにある小さな割烹料理屋の座敷で、萩原は榊原と向かい合っていた。傍目から見れば、スーツ姿の萩原が彼よりラフな格好の客を接待して商談を進めているという、このあたりではよく見掛けるシチュエーションのようにも思えた。しかし実際は、この二人は時期こそ違えど同じ女性と婚姻関係を結んだという共通点で引き合わされた者同士だったのだ。

 榊原は生成りのポロシャツに紺のブレザーを着て、ベージュのスラックスをはいていた。がっしりとした筋肉質の男で、陽に灼けた温厚そうな顔には、自分の新妻の前の亭主を目の前にした今もにこにこと笑みが絶えなかった。

 年齢は三十四歳だったが、その穏やかな表情がもう少し年上のような貫禄さえ漂わせていた。


「──いやあ、今日お電話いただいたときは嬉しかったです」

 榊原は徳利を持つと萩原に差し出して言った。「一度こうしてゆっくりお話がしたいと思っていましたから」

 萩原は軽く会釈して杯を受けた。「半年前に一度お目にかかったきりでしたね」

「ええ、あのときは思いがけず。しかも、立ち話でお別れして」

「今日もわざわざ出てきていただいて申し訳ありません。なにぶん、就業時間があってないような会社に勤めているものですから」

「大変でしょう、銀行も今は。私にも取引銀行はありますが、他行との競争が厳しく、大変ご苦労なさっているようです」と榊原は神妙に頷いた。

 萩原は愛想笑いをした。榊原が自分に対して極めて好意的な態度で接してくるので、美雪のことで彼に意見してやろうと思っていた萩原の意気込みは頭打ちにあったようだ。

 それどころか、榊原のこの態度は、自分が放棄してしまった夫や父親としての務めを変わりに果たしていることによる自信の表れなのかも知れないとさえ、萩原は考え始めていた。

 萩原は気を取り直して言った。「あの、榊原さん」

「はい、何でしょう」

「実は──話というのは、他でもない美雪のことなんですが」

「誕生会のことなら、先生からお聞きになられたと思いますが。どうぞ気になさらずに出席してあげて下さい」

「それは出来ませんよ」

「ご都合がお悪いですか?」

「いえ、そういうことではなくて」

 そう言うと萩原は一つ咳払いをした。「あの、俺──いや僕がこれからお話しすることは、本来なら僕には言えた義理でもなんでもないんやってことを、僕自身が重々分かってて言うてるんやと思って聞いて下さい」

「とんでもない。どうか遠慮なさらずに」

 榊原は困ったように頭を掻いて笑った。白い歯だった。

 萩原は彼を見据えて頷き、火を点けようとして手に持っていた煙草を箱に戻した。

「誕生会のことは、単に美雪のわがままです。聞いてやることはありませんよ」

「えっ、でも──」

「いいえ、そうなんですよ。だから榊原さんが行って下さい」

「萩原さん……」

「あのは──僕がああいう身勝手なことをしたばっかりに、思いがけず犠牲を強いることになりました。それは確かにそうなんですが、だからと言うて周りの大人が──僕を含めてですが──ちょっと甘やかしすぎたんです。 可哀想な子や、不憫な子やって」

「そうですかね」

「だからあなたのような、あのに対してその……何の負い目もないっていうか──まだ真っ白な関係の人が、あのに対して厳しくしてやってもらいたいんです」

 そこまで言うと萩原は急に顔をしかめた。「いや、こういう言い方はあきませんね。あなたが気を悪くなさる」

「萩原さん、勘弁してくださいよ」と榊原は言った。

「は?」

「まるで腫れ物に触るって感じじゃないですか。それほど僕は偏屈じゃありませんよ」

「……申し訳ない」

 榊原は小さく首を振って微笑んだ。「しかし美雪ちゃんも、まだまだ甘えたい年頃でしょう」

「けど、いつまでも僕の方ばかり向いてられたら、あなただって不愉快でしょう?」

「不愉快だなんてとんでもない。あのの気持ち、よく分かってるつもりですから」

 榊原は顔の前で手を振り、やがて真顔になって言った。「それとも、萩原さん。あなたが迷惑してらっしゃるとか?」

「まさか。僕はあのの父親ですよ」

 思わず突いて出た言葉に、萩原はまたしても顔をしかめて舌打ちした。

「まったく──節操がないって言うか──」

「いいえ、あなたは確かに父親なんですから。それより僕の方こそ失言でした。申し訳ない」

 そう言って頭を下げた榊原に萩原はバツが悪そうな笑みを見せ、それから美しく盛り付けされた刺身を箸でつついて口に運んだ。

「萩原さん、あなたご兄弟は?」

 榊原は話題を変えるように訊いてきた。

「兄が一人います。あ、そう。確か榊原さんと同い年ですよ」

「ご結婚していらっしゃる?」

「ええ、四年前に」

「じゃあ、お子さんは?」

「二歳半になる男の子がいます」

「……可愛いでしょう?」と榊原はにっこり笑った。

「ええ、やんちゃ盛りですよ、今」

「他人の子とは違う可愛さを感じるでしょう?」

「……ええ、まあ」何が言いたいんやろうと萩原は思った。

「でも、息子ではない」

「それはそうですが、でも──」

「そう言う感じなんですよ、僕も」

 と榊原は萩原の言葉を遮って言った。「僕も……美雪ちゃんにはそういう気持ちなんです。正直言って、申し訳ないが今は……」

「榊原さん──」

「だから萩原さん、あまりそうあっさりと僕にバトンを渡さないでください。僕も一生懸命努力しますから。あなたのおっしゃるように、美雪ちゃんが甘やかされ過ぎているというのなら、それはよく考えて正すようにします。 だけど彼女にはもう少し時間が必要だ」

「ええ、そうですね」

「やっと六歳の女の子に、大人と同じ時間の流れを強いるのは無理なんですよ」

「確かにそうです」

「その……失礼な言い方だが、あなたは彼女の逃げ場なんです」

「しかしそれでは僕一人が善人で、あなたはいつまでたっても──」

「大丈夫。僕もいつまでも悪者でいるつもりはありませんから」

 榊原は言って強く頷いた。その顔には確かな自信が読みとれた。

「分かりました」と萩原もゆっくりと頷いた。「ただ、やっぱり誕生会には僕は行かない方がいいと思うんです。幼稚園に対しては、あなたが保護者であることをはっきりと示しておくべきです」

「そうですね」

「どうしても男親が出席しないといけないんですか?」

「いえ、そうでもなさそうです」

「じゃあ、智子に行かせれば?」

 萩原のこの言葉に、榊原の顔が一瞬にして曇った。

「……失礼。奥さんに行っていただくとか」萩原は俯いた。

「ええ、その方がいいでしょうね」

「すいません。いろいろ失礼なことを申し上げて」

「とんでもない、よく分かりますよ。美雪ちゃんのことを思えばこそですよね」

 榊原はまた穏やかな笑顔を見せたが、やがてふと暗い顔になった。

「……僕にも息子がいましたから」

「えっ?」萩原は驚いて顔を上げた。「榊原さん。あなた初婚ではないんですか?」

「ええ、違いますよ。智子から聞いておられませんか?」

「そういうことは何も──そうですか」

 萩原は少し乗り出していた身を退いた。自分で勝手に思い込んでいたこととはいえ、榊原が初婚だと信じていたからこそ美雪を引き取って育ててくれていることに感謝し、気を遣っていたところがあったのだ。萩原は少しがっかりした。

 しかしその一方で、子供を手放してしまった親の辛い気持ちが理解し合えるのだという妙な連帯感も沸いてきて、何とも複雑な気持ちになった。

「──やっぱり、離婚ですか」

「いえ、そうじゃありません」

 榊原は俯き、手酌で酒を注いだ。「事故です」

 萩原はああ、と頷いた。そしてこれ以上は訊くまいと決めて、黙って酒を呷った。

「──神戸に住む前には長野にいました。その頃僕はまだ自分の店を持たない花屋の従業員で、妻と息子の三人、小さなアパートで暮らしていたんです」

 萩原は黙って酒を飲んだ。胃にしみ込んでゆく熱い液体に顔をしかめ、榊原と同じように下を向いた。

「火事でした。同じアパートに住む小学生の火遊びが原因で──木造の簡単な建物だったんで、あっという間に火が回って」

 話を続ける勇気を搾り出すかのように、榊原は大きく溜め息をついた。

「……二階の、階段から一番遠い部屋でしたから、煙に阻まれて二人とも逃げ遅れてしまったんです」

 萩原は言葉を失っていた。空の杯を持ったまま、置けないでいた。

「私が花の買い付けに富山まで行っている間の出来事でした」

 萩原はゆっくりと顔を上げた榊原と目が合った。何と言えばいいのか、まったくと言っていいほど何も思い浮かんでこなかった。

「七年前の出来事です。妻は二十五歳、息子は十一ヶ月でした」

 榊原がそう言ったあと、二人はしばらくのあいだ黙っていた。これ以上この話を続けても何も生まれてこないことを、彼らにはよく分かっていたのだ。

「──僕のような男を見ていると、腹が立つでしょうね」

 ようやく萩原が口を開いた。

「いいえ。それぞれに理由があってのことです」

「でも、離婚の経緯をお聞きになったでしょう? 実に僕一人のわがままで……」

「仕方のないことですよ」と榊原は一つだけ頷いた。「それに、萩原さんがそう思った以上、そのまま義務感だけで結婚生活を続けていたっていいことはありませんよ。それどころか、智子も美雪ちゃんもますます不幸になる」

「──でしょうね」

 萩原は諦めに近い溜め息をついた。

 障子の向こうで、鹿威しが石に当たる心地の良い音が響いた。


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