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萩原の方も、さっきから相当腹に据えかねていた。
「──なあ、萩原。おまえは何か勘違いしてるんやないのか?」
貸付課のロー・カウンターの椅子に座り、米倉が萩原を目の前に立たせて咎めるように言った。閉店後とあってフロアには客は見当たらず、何かのミーティング中で行員の数も少なかった。
「……申し訳ありません」
萩原は俯いて言った。しかし、その口調に反省の色は感じられなかった。
「いくらおまえが預金課の人間やなくても、お客にとったらそんなこと関係ないやろ。それを、ATMの使い方を訪ねてきたお客を無視するやなんて──おまえ、何年銀行員やってるんや?」
米倉はわざとらしくのらりくらりと言った。
「ちょっと急ぎの用件があって──こっちもお客さんを待たせていたものですから」
萩原は小声で答えた。自分の仕事場で、よその課の人間に注意を受けているのが恥ずかしかったからだ。しかも米倉はそんな彼の気持ちを計算ずくで、わざわざ一階から上がってきているのだ。萩原にはそれがよく分かっていた。
「たかだか振込みだけの客より、一億の融資を依頼してきた客の方が大事やということやな」
「まさか、そんなこと──」
顔を上げた萩原に、米倉は陰険な眼差しでにやりと笑い、言った。
「さすがに、家庭を犠牲にしてまで出世してきたやつは違うな」
萩原は黙って拳を握り締めた。
「──米倉さん」
カウンターの中から山本が声を掛けた。自分のデスクに腰を掛け、受話器を手で覆ってこちらを見ている。
「なんや」米倉は迷惑そうに振り返った。
「
「分かった」と米倉は頷き、萩原に振り返った。「萩原、今の話、よう肝に銘じとくんやな」
「はい」
米倉は威圧的な態度で椅子から立ち上がり、冷めた目つきで萩原の全身を眺め渡すと、階段へと去っていった。
萩原はその姿を見送ることなく、そのまま立ち尽くしていた。しかしやがて米倉の足音が消えると、大きく息を吐いて腹立たしげに首を振り、今まで米倉の座っていた椅子を蹴り上げた。その音でカウンターのすぐ向こうの女子行員が驚いて顔を上げ、萩原をじっと見つめた。
「萩原……まあ落ち着けよ」
山本が席を立ち、カウンターを回って萩原のそばまでやって来た。
「ああ、悪いな」と萩原は情けなさそうに笑った。
「ええから、ちょっと来いよ」
そう言って山本は萩原をフロアの隅の一角にある来客用ソファーへと促した。
二人は向かい合って腰掛け、そしてほぼ同時に溜め息をついた。萩原は山本から視線を逸らせ、俯いたままだった。
「なあ。あんな言われっ放しでええんか?」
「しゃあないやろ。一応は大学の先輩なんやし」
「先輩て言うても、学生の頃から知ってたわけやないんやろ? 就職の時に世話になったわけでもなさそうやし」
「まあな」
萩原は腕を組み、ソファーの背もたれに身体を預けた。
「それに大学のことはどうだろうと、今はおまえの方が役職は上なんやから。 もっと毅然としてたらええんや。なにもあのおっさんに細かいことでいちいちうるそう言われる筋合いはないんやで」
山本は舌打ちした。「──ったく、気分の悪いおっさんや」
「おまえには感謝してるよ」
「俺のことはええから」
山本は照れ臭そうに手を振って言うと俯いた。「正直言うて、おまえがアメリカから帰ってきてここへ来た頃は、俺も今のあのおっさんみたいな気持ちになったこともあったよ。でも実際こうして同じ職場でおまえのこと見てると、だんだんとおまえの出世が理解できるようになってきたんや」
「やめてくれよ、気持ち悪いな」と萩原は笑い、左手で山本を追い払うような仕草をした。
そうか、と山本も笑ったが、すぐに真顔に戻って萩原をじっと見た。
「とにかく、おまえの出世はインチキでもまぐれでもないんやから。もっと堂々としててもええんやぞ」
「係長でか?」と萩原は困ったように笑った。
「主任よりは、っていう意味や」山本も頬を緩めた。
「──萩原係長、三番にお電話です」
カウンターの中から、さっきの女子行員が萩原を呼んだ。
「あ、ありがとう」
萩原は立ち上がり、山本を見た。「おまえもサンキューな」
デスクに戻った萩原は、気分を切り替えようと大きく深呼吸してから電話機のボタンを押し、受話器を取った。
「──お電話代わりました。萩原です」
《萩原豊さんですね?》若い女性の声が、明るく訊ねてきた。
「ええ……失礼ですが、どちら様でしょうか」
《あ、私、神戸
「あ、その、実は──」
どう答えていいか分からず、萩原は言葉を濁した。
《ええ。事情は存じ上げています。でも……お父様ですよね?》
向こうも言いにくそうだった。
「まあ、そうですが。美雪に何か?」
《実は、萩原さんにお願いがあるんですが》
「何でしょう」
《来月の三日の土曜に、七月生まれの児童たちのお誕生会があるんですが……それで、その──》
「ええ、彼女も七月生まれですね」萩原はわざと素っ気なく言った。
《それで、美雪ちゃんから聞いたんですが、萩原さんに来ていただけるとか》
「えっ?」と萩原は身を乗り出した。「それは違いますよ」
《ご都合がお悪いんですか?》
「いえ、そういうことじゃなくて……彼女がそう言ってるだけで、こちらにもいろいろ事情がありまして、その──」
《ええ。私どももそのことを考えまして、さっきあちらのお宅に電話でお伺いしたんです》
「母親に?」
《いえ、ご主人とお話をさせていただきました》
相手はここで一息をつくと、すぐに続けた。《そうしたら、萩原さんさえ良ければ出席していただけるとありがたいとおっしゃって》
「それ、本当ですか?」萩原は驚いて言った。
《ええ。何より美雪ちゃんの希望でもあることですし》
萩原は椅子に深く身体を預け、再びゆっくりと深呼吸をした。
《萩原さん?》
「──あ、失礼」
《それじゃ、お願いしてよろしいでしょうか》
「申し訳ありませんが、少し時間を頂けませんか? その……仕事の都合もありますので」
《そうですか……分かりました。それじゃ、なにぶんよろしくお願いします》
「なるべく早くお返事しますので」
萩原は相手が電話を切るのを確かめてから、自分も受話器を置いた。
そして今度はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、アドレスから一つの電話番号を呼び出して電話を掛けた。呼び出し音が鳴っている間、目の前の書類を取って眺めていた。
「──あ、もしもし?」萩原は顔を上げた。「あの……萩原ですが」
少しの間、相手の話すのを黙って聞いていた。顔には僅かではあるが険しさが伺えた。
「実は今、幼稚園の先生からお電話をいただきまして」
手元の書類をペラペラとめくった。「──ええ、その話です」
電話の相手は、智子が再婚した
「榊原さん、そのことでお話がしたいんですが。いつかお時間取っていただけませんか?」
そして書類を閉じて表紙上部の承認欄に印鑑を押し、デスクにあったバインダーに綴じた。
「──今夜ですか?」
萩原はバインダーを置いて右手に電話を持ち替えると、左手の腕時計を覗いた。今は三時四十分だった。
「結構ですよ。八時には身体を空けられると思います」
そう言うと萩原は相手の話に耳を傾けた。「──そうですか。じゃあお願いします。──ええ、ではそのときにまた。失礼します」
萩原は電話を切った。そしてしばらくのあいだは腕を組んでデスクの一点を見つめていたが、やがて腕組みを解くと左手にペンを持ち、椅子を引いて仕事に掛かった。
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