第三章 ブルース──Blues

 まだ午後一時をまわったばかりだというのに、陽の射さない薄暗い刑事部屋では天井に張り付けられた蛍光灯の半分以上が点灯されていた。

 開いたブラインドの向こうでは、河に浮かんだ中州に建つネオ・ルネサンス様式の中之島なかのしま中央公会堂が、透き通った雨に洗われて鮮やかな緑を蘇らせた木々に囲まれて静かに佇んでいた。手前を走る阪神高速は東へ向かう車で溢れ、そのタイヤからは飛沫が盛んに上がっている。三日連続の雨だった。

 

 昼食を済ませて刑事部屋に戻った鍋島は、向かいのデスクで出前の炒飯を食べている高野警部補と話し込んでいた。

「──それで、おまえらは怨恨の線は薄いと見てるんか」

 高野が言った。

「ええ、断定はできませんが、その可能性は低いんやないかと思てます。昨日と今日で、かなりの人員を割いて被害者の周辺を洗いましたが、まったく評判は悪くないんですよ。学校の友達から近所の住人、バイト先の同僚まで、みんな口を揃えてええ子やったって言うんです」

「母親の方はどうや? 親への恨みが娘にいったのかも知れんぞ」

「それも当たりました。けど、どうやらそっちもシロですね」

「──やっぱり、頭のイカれた野郎の犠牲になってしもたということか」

 高野はうんざりしたように言った。「気の毒にな」

「ただ──引っかかる点はあります」鍋島は口元を歪めた。

「何や」

「そんな模範的な娘やった彼女が、何であんな遅くにあの場所にいたかってことですよ。なんぼ家から歩いて十分ほどのところやていうても、真夜中ですよ」

「死亡推定時刻は一時から二時っていうてたな」

「ええ。地下鉄も終わってる時間です」

「誰かと一緒やったとか」

「やっぱりそう考えるでしょ、普通」

「母親に心当たりは?」

 鍋島は首を振った。「バイトが終わったらすぐに帰ってくるもんやと思てたらしいです。前日の土曜日にも同じバイトがあって、そのときは九時半には帰ってきてたそうですから」

「──やれやれ、子供を信頼しすぎるのもこうなってしまうと考えものやな」

 高野は食べ終えた皿をデスクの奥へ突いて、湯呑みの茶を啜った。「電話で喋った友達には、誰かに会うようなこと言うてたんやろ?」

「はあ。でもあの夜のことなのかどうかは分からへんのですよ。ただ『もうすぐ逢える』とだけ言うてたらしいから」

 鍋島は両手を頭の後ろに回し、椅子の背に倒れ込んだ。「十八歳の女の子の恋物語に過ぎひんのかも知れんしね」

「それは言えるな」と高野は頷いた。「ケータイの通話記録の中に、怪しいのはなかったんか」

「全部素性のはっきりした相手です。アドレスやメールも含めて、すべてを確認しましたが、今のところ疑わしい人物はいません」

「ともあれ、バイトが終わってから殺害されるまでの行動が空白である以上、偶然通り魔に襲われたとも断定でけへんな」

「そこなんですよ。現場にはほとんど手がかりは残ってへんし、今のところ苦戦してます」

「芹沢は?」高野は鍋島の隣のデスクを顎で示した。

「所轄の俺らは通り魔の線を調べることになったんで、帳場のパソコンから本部のデータベースの前科者リストを洗ってます。暴行犯の危険人物のリスト・アップです」

「なんや、まだやってへんかったんか?」

「とりあえず事件発生直後に一度はやったんですけどね。その全員がシロやったから、もう少し網目を細かくして調べてくれって、捜一の班長が」

 高野は同情的な眼差しで鍋島を見た。「いつもの例に漏れず、本部事件はキツイな。ワシも横浜の事件がなかったら、ほんまやったらそっちに掛かるとこなんやが」

 鍋島は頼りなく笑った。「どうなんです? 宝石強盗」

「こっちもなかなかのもんや」と高野は意味ありげに笑った。

「仲間に轢き逃げされた男が、こっちの施設で育ったんですってね」

「ああ。その施設から高校まで通って、西宮にしのみやの会社に就職したんやけどな。そこを足がかりに交友関係をあろてるんやけど、とにかく友達の少ないやつなんや──いや、少ないと言うより、ゼロに等しいな」

「住んでた場所の近所では?」

「挨拶程度のつき合いや。それはめずらしくもないやろ」

「まあね」自分にも思い当たる節のある鍋島は苦笑した。「──で、宝石をこっちでさばいてるらしいっていう、残りの連中はどうなんですか」

「そっちや、問題は。現場の足跡から二、三人はいるようなんやけどな。それが今、バラバラになってるようなんや」

「と言うと?」

「宝石が見つかった店──ほれ、天満てんま蓉美堂ようびどうや。あそこの主人に言わせると、きちっとした身なりの五十過ぎの男が問屋やと言うて訪ねてきたらしい。会社が倒産して、現物だけもらって首切られたって」

「そんな話に引っかかったんですか、あそこの親父」

 鍋島は呆れたようにふんと鼻で笑った。「だいいち、盗品リストが回ってきてたんと違うんですか」

「回ってたことは回ってたが、横浜の事件なんで親父は見てもいいひんかったそうや。で、その男が勤めてたって会社の名前がどこかで聞いたことのあるような感じで、今年の始めに南港で開かれた見本市にも出店してたって言われて、コロッと騙されたんやて」

「そんなもんですかね」と鍋島は頬杖を突いた。「──で、主任とあのお嬢さんは?」

「その男のモンタージュ持って、今日は質屋巡りや」

「けど相手は複数で、バラバラに動いてるんでしょ? もう大阪を出たんと違いますか」

「ワシもそう思うんやけどな。お嬢さんがえらい張り切っててな」

「それで係長は留守番ですか」

「それだけやないて。課長が署長に呼ばれてて、さっきからずっと署長室や。ワシはそっちの方の留守番や」

「そういや、さっきから静かやと思たらいてへんのか」

 鍋島は部屋の上座を陣取っている課長のデスクに振り返って言った。

「何の用なんやろ」

「そら、この二つの事件の進展状況を聞かれてるのに決まってるやろ。横浜からエリートの刑事が来てるんや、本部長も注目してる」

「中間管理職のしんどいとこですね」

「ああ。ワシもうかうかしてられん」と高野は腕を組んだ。


 間仕切り戸を開けて芹沢が入ってきた。片手に数枚のデータらしき用紙を持って、俯いて近づいてくる。 渋い顔をしていた。

「どうやった」鍋島が声を掛けた。

「あんまり。二次調査だから、これって言うやつはいねえわ」

 芹沢はリストをデスクに投げおいた。「念のために二人だけリスト・アップしてきたけど」

 鍋島はリストを取って眺めた。「どうなんやろな。この二人のうちどっちかの仕業なんか──犯行時間が時間なだけに、この二人にちゃんとしたアリバイがあると思うか? はっきりせえへんかったら、曖昧な容疑者が増えるだけや」

「当たってみるしかねえだろ」

 芹沢は投げやりに言って頬杖を突いた。「所轄の刑事にゃ、こういう仕事がお似合いってことさ」

「……そうやったな」

 鍋島は言うと高野を見た。高野は気の毒そうに頷いた。


 その時、威勢の良いヒールの音を立てて廊下を一条刑事が歩いてきた。刺繍の入った白のオープンカラーのブラウスにサーモン・ピンクのスーツ姿で、上品さを漂わせている。そしてその後ろから、島崎が面倒臭そうに歩いてきた。まるで、わがままな社長令嬢とやる気のないボディーガードのようだ。

「……見た目は文句なしなのにな」芹沢が呟いた。「残念」

「高野警部補、お願いしたいことがあります」

 部屋に入ってくるなり一条は言い、こちらに向かってきた。

「はい、何かな」

「わたしを一人で動かせてください」

「何で」

 高野は無感情に言うと一条を見上げ、そしてすぐに島崎に視線を移した。「何かあったんか」

「……俺とじゃ、ご不満らしいですよ」

 島崎はふてくされて言った。いつもの飄々とした、どこかのんびり屋の島崎にしてはめずらしいことだった。

「一条さん、どういうことです?」

「別に島崎さんに対して不満があるわけではないんです。ただ、あたしの思い通りに捜査がしたいと思っているだけです」

 一条は腕を組んだ。「二人で動いていると言ったって、交替で同じことを訊いてるだけじゃ効率が悪すぎるわ。人手不足はどこの警察だって同じことなんだし」

「けどね、犯人が複数である以上、一人で動いてもらうわけには行かんのや。どこでどんなことに出くわすかも分からんしな。それにあなたは──」

「女だからっておっしゃりたいんですか?」

 一条は高野の言葉を遮った。「見くびらないでください。これでもきちんと研修を積んで、警部の階級にあるんですから」

 島崎がやれやれと言わんばかりに溜め息をつき、鍋島や芹沢と視線を交わした。

「そんなこと言うてるんやないよ。あなた、ちょっと被害妄想になってるんやないですか?」

「そうでしょうか」

「ねえ、そこまで言うってことは、一人ででも犯人を挙げる自信があるってことなんやろうね?」ここで島崎が言った。

 鍋島はおっ、という感じに顔を上げて島崎を見た。芹沢はさっきのリストを眺めながら口の端だけで笑った。

「自信がなけりゃ、横浜から一人で来やしません」

「あ、そう。ほならどうぞ、お一人で思い通りに動いてくださいよ、警部どの」

 島崎は大仰に頷き、高野に振り返った。「係長、ええでしょ? そうしてもらいましょうよ」

「何を言うてるんや、そんなもん許可できるか」

「彼女がそうお望みなんやから、ええやないですか。それで何があっても彼女が自分で責任を取ればええことです」

「責任問題を云々言うてるんやない。よそ者の彼女一人で動いたところで成果が上げられるのかってことや」

「あら、ずいぶん軽く見られたものね」

 一条は憎々しげに言った。「とにかく、わたしのことは放っといてもらえません? ちゃんとそちらに迷惑の掛からないようにやりますから」

「それやったら何でうちに来たんや」

 とうとう鍋島が口を挟んだ。

「やめとけ」と芹沢が言った。「俺たちにゃ関係ねえんだから」

「そうよ。こんなとこにじっと座ってこっちの話聞いてないで、さっさと自分の仕事に掛かりなさいよ」

「あんたに指図されることでもねえ」

 芹沢は一条に振り返り、突き刺すように言った。「上司気取りか? なに勘違いしてる?」

「口を挟んできたのはそっちでしょ?」

「ええ加減にせぇ」

 高野が言った。一条は俯き、芹沢と鍋島は立ち上がって部屋を出ていこうとした。

「おい、二人とも待て。おまえらにも言うてるんや」

 二人は渋々戻ってきた。鍋島はふてくされて自分の席にどっかりと腰を下ろしたが、芹沢は立ったままだった。

「おまえらみんな、何でもっと穏やかにやれへんのや。日頃から女の捜査員がいたらええのにって言うてたやないか。鍋島、おまえには妹がいてるやろ? 同じような年頃やないんか、一条さんと」

「知りませんよ、そんなこと」と鍋島は吐き捨てた。

「高野警部補。ひとこと申し上げておきますけど、わたしだって別に可愛がってもらおうなんて思ってませんので。そういう子ならここにだっているでしょう、制服の子が」

「あんたもや、一条さん」高野は一条を見た。「こっちも、早よ犯人を挙げてやろうという気持ちには変わりはないんや。お互い協力しようという気持ちが必要なんと違うか? 現場のワシらとは比べもんにならんスピードで偉うなっていくキャリアのあんたが、あえて現場に出て、しかも今回の事件では一人で大阪こっちに来てるぐらいやから、あんたは横浜むこうでも信頼されてるんやろけど、こっちにもそれなりの経験と自信がある。あんたの言うとおり、少ない人員で山ほどの事件を抱えてるんやから、もっとスムーズに仕事できるように協力してもらえへんもんかな?」

 一条は黙っていた。

「とにかく、それでもどうしても一人がええって言うんやったら、課長に聞いてみ。それで課長がええと言うたら、そうすればええ。ワシらも文句は言わへんし」

「……分かりました」

「鍋島、芹沢、悪かったな。もう行ってくれてええぞ」

 二人はぎこちなく頭を下げ、黙って部屋を出ていった。


 階段を下りながら、芹沢は低い声で言った。

「おい、二度とあの女に絡むなよ。俺は金輪際加担しねえからな」

「……分かったよ。悪かった」

 鍋島は小さく頷いた。

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