前日までの長雨の名残が大きな水溜まりとなってあちこちに見られるアスファルトの路地を、鍋島と芹沢は男を追って疾走していた。

 前を走る男は、その無意味なくらいでかい図体からは考えられないほどの俊足で、路地の両側に置かれたポリバケツや空のビールケースを弾き飛ばして走っていく。当初、男がアパートの自室の窓から飛び出したときは、鍋島も芹沢も男がこんなに逃げ足の早いやつだとは思っていなかった。ところが、すぐに捕まえられるとばかりに油断して全力で追わなかったせいか、男はみるみるうちに二人を置き去りにした。二人は慌てた。

 この男が女の太股に異常な執着を持つ暴行傷害という前科を持っていたため、陰湿で気の小さい異常者とばかり思い込んでいたのだ。その男がこんな能力の持ち主だったとは。鍋島はこめかみから流れる汗を拭おうともせず、ただひたすらに男の背中を目指して走り続けた。

「──おい、俺は反対から回り込む!」

 十字路の手前まで来たとき、前を行く芹沢が鍋島に振り返って叫びながら左へ折れた。

「分かった、遅れるなよ……!」

 そうは言ったものの、鍋島自身の足にも相当疲れがきていた。去年の始めまでは警察署内の草野球チームで一、二塁間を守り、やがてはショートにコンバートされようかというところまで行った時点で仕事に追われて辞めてしまったという経験があっただけに、足には多少自信があった。しかし、堅いアスファルトの上で水溜まりを避けてジグザグに走ることは、土のグラウンドで動き回ることよりもはるかに足に負担がかかる。鍋島はこれ以上長く今の速度を保つ自信がなかった。けれども、逃げる男のスピードは相変わらずだ。

 鍋島はブルゾンの懐から拳銃を抜いた。今日は空砲ではない。あたりに人は見当たらず、万が一威嚇のために発砲しても危険はないと判断した。

「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」

 鍋島の叫び声に、十五メートル以上先の男の背中が止まった。ゆっくりと振り返り、鍋島の右手に握られた拳銃を見て大きく目を開いた。

「……ちょっと話を聞きたいだけやないか……」

 荒い息に大きく肩を上下させながら言い、走るのをやめた鍋島は引きずるような足取りで男に向かって歩いた。

「な、何もしてへん」男は言った。

「……何かしたって言うたか?」

 鍋島は息を切らせ、拳銃を納めた。「それとも、刑事を見て逃げなあかんことでもあるんか?」

 鍋島はゆっくりと男に近づいた。男の方も下を向いて肩を揺らし、唾を飲み込んで大きな息を吐いた。

 しかし、二人の間に広がった水溜まりに姿が映るくらいに鍋島が近づくのを確認した瞬間、男は鍋島に激しく体当たりしてきた。

 鍋島はまったく身構えができていなかったとあって、レスラーのような男に思い切りぶち当たられては吹っ飛ぶのみだった。そばに積み上げてあった段ボールの箱の真ん中に背中から倒れ、脇を流れる細い溝に肘を突っ込んで落ちた。

「……くっそぉ……」

 鍋島はふらりと身体を起こし、逃げようとしている男の左足に飛びついて引っ張った。その弾みで男は前のめりに倒れ込んだ。しかしすぐに身体を翻すと、自由の利く足の方で鍋島の顎を思い切り蹴り上げた。

 身長165cmの鍋島は、バラバラに散らばった段ボールの中に鉄砲玉のように突っ込んでいった。

 男は鍋島が起き上がってこられないのを確かめると、立ち上がってまたすぐに路地を進んだ。しかし今度はその前方に芹沢の姿が現れたのを見つけ、思わず立ち止まった。

「……そのへんにしといてやれ」

 芹沢は肩で息をしながら、ゆっくりと男に向かって歩いてきた。その甘い顔立ちとは不釣り合いな鋭く冷めた目つきで、男を正面から睨みつけている。男はその意外なまでの凄みに思わず怯み、二、三歩後ずさりした。

 しかし背後で鍋島がようやく起き上がってきたのを感じ取ると、もう芹沢に向かって行くしかなかった。

「ちくしょうっ!」と男は叫び、芹沢に飛び掛かった。

 滅茶苦茶に振り回した男の岩のような拳が芹沢のこめかみあたりに命中した。

 芹沢は天を仰ぎ、大きく反り返って後退した。かろうじて倒れずにすんだが、頭がぼうっとして、一瞬だけ意識が遠くなるのが分かった。

「野郎……」

 今度は芹沢が向かってくる男の顎をめがけて見事なカウンターの正拳突きを見舞った。空手三段の腕前なのだ。

 男の顔がボールのように弾み、鼻から血が飛び散った。そこへ鍋島が首の後ろを殴り、男はビルが爆破されたときのようにゆっくりと膝から崩れた。

 二人は大きく息を吐いて男を見下ろした。二人とも、かなりひどい顔だった。

「──芹沢、こいつ、現逮やな」

「ああ。立派なもんだぜ、これだけ暴れると」

 鍋島が顔を背けて唾を吐いた。しかしそれは唾と言うより、口の中に溜まった血のかたまりだった。



 署に戻った二人は男を一旦地下の留置所に放り込むと、刑事課に上がった。

「──それで、その男の逮捕容疑は?」

 芹沢をデスクの前に立たせて、植田課長は言った。

「公務執行妨害です」

 芹沢は答えた。男に殴られた目尻には絆創膏が貼ってあった。

「頷けるな、そのありさまを見たら」と課長は笑った。「犯人と見てよさそうか?」

「まだ分かりません。あそこまで必死で逃げたところを見ると、捕まりたくない事情でもあるんだろうし」

「鍋島は?」

「口の中を切ったみたいで、今、救護室で手当してます」

「相変わらずおまえらはやることが派手やな。気ィつけんとそのうちまた大怪我するぞ」

「自分たちではやりたくもないんですけど」

「鍋島の手当てが済んだら、その男の調べにかかってくれ」

「分かりました」

 芹沢は自分のデスクに戻ってきた。向かいの島崎の席には一条が座っていた。上目遣いで芹沢を見ると、顔をしかめて首を振った。

 芹沢は絆創膏を剥がした。見れば血が滲んでおり、彼は頭を振って傷口を指でそっと触った。

「痛っ……」思わず顔をしかめた。

「──触らない方がいいわよ」

 芹沢が顔を上げると、一条が眉をひそめて彼を見ていた。

「もっと大きなのを貼った方がいいんじゃない?」

「……平気だよ」と芹沢は俯いた。

「でも、何だか腫れちゃってるみたいよ」

「大丈夫だって。放っといてくれよ」

「あ、そう」一条はつんとして言い、手許に視線を戻した。

 芹沢はそんな一条を見て小さく笑った。そしてデスクの引き出しから絆創膏の箱を取り出し、新しく傷口に貼った。

 そこへ鍋島が戻って来た。彼の方も口許に大きな絆創膏を貼り、左手で顎を押さえている。右手には血の付いた タオルを持っていた。

「どうだ、治まったか」

 こちらに向かって歩いてくる鍋島に芹沢が言った。

「あかん。止血剤を飲んだんやけどな。効いてくるのはもっとあとやろ」

 鍋島は顔を歪めて席に着いた。

「何も食えねえんじゃねえか」

「どうせ何食うても血の味や。舌噛まへんかっただけマシってやつやな」

「あれほど手荒なやつだとは思わなかったぜ。正直、油断したな」

「靴の踵で思い切り蹴り上げよった」

 鍋島は言うとタオルを顎に当てた。 「……まだガクガクしてる」

「どうする? 無理なら、俺一人で野郎を締め上げてもいいぜ」

「大丈夫や。その前にもう一回、口の中洗うわ」

 鍋島は立ち上がり、窓際に備え付けられた小さな洗面台の前まで行った。蛇口を捻り、両手で水をすくって口に含む。吐き出した水はピンク色に染まっていた。

「──ねえ、ほんとに大丈夫なの?」

 再び一条が芹沢に声を掛けてきた。

「何が」

「何がって──彼よ。あんなに血が出て……」

 一条は鍋島の様子を眺めながら言い、芹沢に振り返った。「ちゃんとお医者さまに診てもらった方がいいんじゃない?」

「平気だよ。あいつはそんなヤワなやつじゃねえから」

 と芹沢は顔の前で手を振った。「今はちょっと出血がひでえだけで、すぐに何でも大食いするようになるさ」

「そうかしら」

 一条はちらりと芹沢を見ると、また鍋島に視線を移した。

 芹沢はにやりと笑った。「意外に心配性なんだな」

「……別に」と一条は俯いた。

「あんたも気をつけなよ。自分の事件だから自由にやりたいってのも分かるけど、相手によっちゃ俺たち二人でもこのザマなんだぜ」

 芹沢は真顔でじっと一条を見つめた。「──まあ、あんたは俺たちと違って優秀な刑事デカなんだろうけど」

「いやな言い方ね」と一条は口を真一文字に結んだ。

「嫌味じゃねえよ。もしものことがあったらそれで終わりだ。エリートコースもそこでストップ。それにだいいち、お嫁さんの口がなくなっちまうだろ、マジでさ」芹沢は笑っていなかった。

「セクハラよそれ」と言うと一条は手に持っていた書類を閉じた。「ご心配なく。わたしが刑事になったことを喜んでくれてるボーイフレンドがちゃんといるから」

「あ、そう」と芹沢は片眉を上げた。「そりゃ余計なお世話だったな。どうも失礼しました」

「よろしくてよ」

 一条はわざと高飛車に言うと、見下したような眼差しで芹沢に笑いかけた。

「ちっ、いやな女」

「──お愉しみのところ申し訳ないけど、俺はもうええぞ」

 鍋島が戻ってきて、芹沢の肩越しに囁いた。

「なに言ってんだよ」

 と芹沢は眉をひそめて鍋島を睨んだ。それから一条に振り返り、意地悪く笑って言った。

「おまえのことを心配してくださってるんだよ、一条警部が」

 鍋島はちらりと一条を見た。「そらどーも」

「……最初で最後よ、これが」と一条は吐き捨てた。

「さ、早いとこ片づけよ」

 鍋島は受話器を取り、内線のボタンを押した。「あ、刑事課の鍋島です。さっきの男、上へ上げてもらえますか──そう、あのバカでかい男です。──お願いします。荒っぽいから気をつけて」

 男が連行されてくるのを待っているあいだ、二人は黙って席に着いていた。芹沢はデスクに向かって手の中に隠れてしまうくらい小さな鏡を覗き込み、赤く腫れた目の上をじっと見つめている。鍋島は相変わらず手を顎に当てながら苦虫を噛み潰したような顔をして椅子にもたれかかり、両足を手前に出した引き出しの上に乗せていた。まだ昼前だったが、二人はすでに一日分の仕事をしたような疲労を感じていた。


 廊下をさっきの大男が現れた。両手に手錠を掛け、腰に巻かれた紐を制服警官にしっかりと引っ張られて、ふてくされながら歩いてくる。捕まるときに芹沢に殴られた跡が、顎から左の頬に掛けて青アザとなって残っており、左の鼻の穴には止血のための綿が詰められていた。

 鍋島と芹沢は、男が三つある取調室の一つに入っていくのを見ると黙って立ち上がり、まるでこれから自分たちが取り調べを受けるかのような重い足取りで刑事部屋を出ていった。

 二人のそんな様子を見ながら、一条は警官という職業が決してテレビや映画に出てくるときのように格好の良いものではないなと思った。

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