人気のない刑事課のデスクに背を向けて、芹沢せりざわ貴志たかしは大きな欠伸をしながら新聞を読んでいた。

 壁の時計は十一時五十五分だった。夕方の五時に日勤の刑事たちと交替の手続きを済ませ、宿直の勤務が始まって七時間経とうとしている。比較的静かな夜で、腰のあたりまでしかない間仕切り戸の向こうの廊下をずっと行くとその先に少年課があって、そこで何人かの少年が刑事に向かって悪態をついているのが聞こえてくるほどだった。

 芹沢はそんな様子を気にも留めずに新聞の記事に熱中していた。

 ちょっと神経質そうな透明の肌をしていたが、精悍な眉に涼しげな瞳、そして女性が羨みそうな豊かな唇の好青年で、少し上向き加減の細長い鼻が生意気そうに見えなくもなかった。肩から腕に掛けてのラインが意外にもがっしりとしており、ワイシャツの袖を肘のあたりまでめくり上げ、ブルー系のレジメンタル・ストライプのネクタイを緩めている。肩にはSW三十八口径のリボルバーが納められた革のホルスターを着けていた。ただし中味は空砲だった。

 新聞から顔を上げ、芹沢は腕時計を見た。十二時ちょうどだった。廊下に目をやったが、半日休暇を取って十二時から出勤することになっている相棒の鍋島はまだ現れなかった。

 溜め息をつくと、再び紙面に目を落とした。

「──よう、悪りぃ悪りぃ」

 廊下をのんびりと歩いてきた鍋島が、芹沢を見るなり小走りになって言った。

「白々しいんだよ、おまえは」芹沢は顔を上げずに言った。

「まあそう言うなって。何か通報あったか?」

「あったらこんなとこで新聞なんか読んでねえよ」

 芹沢は投げやりに言うと新聞を閉じ、鍋島を見た。「あれ、めずらしいな。スーツなんて」

「結婚式の二次会の帰りや」

「可愛いいたか」

「……別に、いちいち覚えてない」

 間仕切り戸を開けて入ってきた鍋島は呆れたように言うと、部屋の奥にあるコーヒーメーカーのところへ進み、簡易型のカップにコーヒーを注いだ。「おまえはほんまにそればっかりや」

「当たり前だろ。誰かさんみたいに美人の彼女がいるわけじゃねえんだし」

 芹沢は頭の後ろで手を組むと、面白くなさそうに鍋島を一瞥した。

「……ったく、おまえにそんな余裕かまされるとは思ってなかったぜ。ムカつくったらねえな」

「なんや、今日はいやに絡むな」

 鍋島は自分のデスクに腰掛け、芹沢を見下ろして言った。

「別に」芹沢はふんと顔を背けた。

「女にでもフラれたか」

「…………」

「え? ひょっとして図星?」鍋島はにやりと笑った。「そら残念でした」

「放っとけよ」

「どうせ浮気がバレたんやろ。『二兎を追うものは一兎をも得ず』を地でいったってわけやな。おまえの場合、追ってるのは二兎どころではないんやろけど」

「うるせえな、黙ってろって言ってんだよ」

「ま、一応同情しとくよ」

「要らねえよ、おまえの同情なんか」と芹沢は吐き捨てた。


 二人がバディを組んで二年半になる。階級はともに巡査部長。大学を出て府警に入り、それぞれの配属先で制服警官をたった一年経験しただけの若さで昇任試験に合格し、刑事となったという異例の経歴も同じだった。

 そして、鍋島の方が一年先輩で、先に刑事経験を積んではいたものの、この西天満署刑事課に同時に配属となった時点で、二人の腐れ縁が決定したと言って良かった。

 それ以来、見るからにやんちゃそうでまるっきり大阪人の鍋島と、見た目はハンサムでスマートだが中味はかなり屈折した精神の芹沢は、お互いの長所を認め合い、短所を嫌いながら仕事を続けてきた。歳は鍋島の方が二つ上だったが、童顔で小柄な鍋島は長身の芹沢より若く見られることもしばしばだった。

 それに、今夜は二人ともスーツを着ていたが、普段の鍋島は芹沢の言うように、彼らが日頃相手にしているゴロツキたちとそう大差のない格好をしていることが多かった。


 それから二人は相変わらずくだらない話をしながら、日頃後回しにしがちな書類整理などの雑用を片づけて時間を過ごした。その間もたいした通報はなく、刑事部屋は夜中になって降り出した雨が署の前のアスファルトに浸み入っていく音が聞こえてくるほどの静けさで、このまま何ごともなく朝の八時を迎えられるだろうと二人は考え始めていた。

「──あ、そうだ」

 芹沢は書類から顔を上げて鍋島を見た。頬杖を突いて捜査資料をめくっていた鍋島は目線だけ上げた。

「ちょっと前に横浜で宝石店の強盗たたきが起こったろ。犯人ホシの一人がひき逃げ死体で見つかったってやつ」

「ああ、そいつの身元がなぜかまだ分からんってやつな」

「それが昨日やっと判明したらしくてな。大阪こっちのやつなんだってよ」

「へえ、それで」

「しかも今日、盗まれた宝石ブツの一部がこっちでさばかれてるのが見つかったらしいんだ」

「どこでや」

「それが、うちの管内なんだよ」

「うちで?」と鍋島は目を細めた。「……ほんで?」

「犯人はどうやら、こっちに土地勘のある連中──と言うより、こっちのやつらしいってことになった」

 芹沢はデスクにボールペンを投げ出した。「明日、横浜から捜査員が来るんだと」

「ふうん」

 鍋島は何かを思いついたような表情で言った。「それに協力させるつもりやな」

「だろうな。こっちの面倒なんてお構いなしってことさ」

 そのとき突然、部屋の静けさをかき消すようにけたたましく電話が鳴った。芹沢は顔をしかめて舌打ちし、受話器を取った。

「刑事課」

 鍋島はまた書類に視線を戻した。

「はい、ええ──」

 芹沢は不要な紙にボールペンで走り書きをし、鍋島をちらりと見て言った。「すぐに行きます」

 芹沢のその言葉に反応し、鍋島は椅子の背に掛けてあった上着とホルスターを手に取った。芹沢も受話器を戻しながら立ち上がり、同じように上着を取ると言った。

紅梅町こうばいちょうで殺しだ」

「殺し?」

 鍋島は一瞬驚いたが、すぐにがっくりと肩を落として大きく息を吐いた。

「……よりによってこんな夜に夜勤やなんて」

「夜だろうと昼だろうと、人が殺されたら呼び出されるんだ」

 そう言うと芹沢は廊下に向かって歩き出した。


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