2
ベッド脇のサイドテーブルに置いた目覚まし時計が鳴った。
ブランケットから手が伸び、探るようにして宙を泳いだかと思うと、時計のてっぺんにあるボタンを押してベルを止めた。
そのまま手は時計を掴み、まだ枕に沈んでいる頭のそばへと運んでいった。
「五時か──」
当たり前だ。五時にアラームをセットしておいたのだから。
レースのカーテンを通して射し込んでくる夕方の眩しい太陽の光が、寝返りをうった途端に目に入ってきた。思わず顔に手を当て、そのまま無意識に目をこする。やがてゆっくりと身体を伸ばして片目を開けた。六畳の和室は、オレンジ色のセロハンを貼り巡らせたように美しい朱色に染まり、写真の現像でもできそうだった。
欠伸をしながら
彼は警官だった。刑事になってからは三年半が経つ。そのあいだにこうした怪我をさせられたのだから、これらはすべて彼の警官としての証なのだった。
腹の傷は去年の秋に逃走中の若い男に刺されたときのもので、そのときは右足の太股にも傷を受けた。腕の方は同じ年の正月にサラ金強盗ともみ合ったときにやられた。今はもう鉄格子の向こうへと送り込んだとはいえ、彼は決して相手のことを忘れてはいなかった。一歩間違えば、西日の射し込むこの部屋のベッドではなく、冷たい墓石の下で先祖代々の魂とともに眠る羽目になっていたのだ。目覚まし時計で自由に目を覚ますというわけにはいかない。それに彼はまだ、少年のようなあどけなさの残る顔立ちをした、二十九歳の独身青年だったのだ。
たっぷりと時間を掛けてシャワーを浴びたあと、彼はタオルで髪を拭きながらキッチンに入った。冷蔵庫からスポーツドリンクのボトルを取りだし、キャップを開けながらリビングのローテーブルの前に来て座った。シャワーの前からつけっぱなしにしていたテレビが、休日の長閑のどかなニュースを流していた。
ドリンクを一口飲み、ボトルをテーブルに置いた。そのあいだも髪を拭く手は止まっていない。彼の髪は短い方で、乾かすことで手入れの半分以上が済んだことになり、あとはローションか何かで整えれば終わりだったから、つい乾かすのに夢中になってしまうのだ。
寝室に戻り、クロゼットの中に並んだ洋服をごそごそとかき回していると、玄関のチャイムが鳴った。どうやらそのことを予測していたらしく、彼は特別慌てもせずにバスタオルを肩に掛けたまま廊下を進んだ。
玄関まで行くと、何も言わずにドアチェーンを外し、ロックを回してドアを開けた。
「──なんや、風呂なんか入ってたんか」
ドアが開くなり、立っていた萩原が言った。
「寝てたから汗かいたんや」
「……ひょっとして、
「アホか。連れが来るって分かってんのに、女と寝てる奴がどこにいてる?」鍋島は呆れ顔で振り返った。「夜勤や。今夜十二時から働かなあかんのや」
「あっそう。ご苦労なことで」
「ええよな、完全週休二日のやつは」
この二人は大学時代からの親友だった。二人とも一浪していて、受験した大学が同じで、しかもそのうち不合格をもらった学校までが同じだったとあって、附属高校からの現役入学生が多い中で始めから妙に気が合った。
卒業したあとは銀行と警察に進路が別れはしたが、それ以降も学生の時と同じようにつき合ってきたのだ。
そして今日も二人は揃って同級生の結婚式の二次会に招待されており、会場となっているレストランが近いこともあって萩原がわざわざ鍋島のアパートまで、彼を迎えに来たのだった。
「早よせえよ。六時からやぞ──あと二十分で用意して行けるか?」
「何とかなるやろ。ちょっとぐらい遅れたって文句言われるわけでもなし。俺ら新郎新婦やないんやで」
鍋島はクロゼットに取り付けられた鏡の前に立ち、のらりくらりとドレスシャツのボタンを留めながら言った。
「ほんま、おまえって時間にルーズやな、せやから誕生日っていうとあちこちから時計をプレゼントされるんや」
「俺は時間で区切って動けるような仕事には就いてへんからな。時間が来たらさっさとシャッターを下ろすどっかの業種みたいに」
鍋島は面白くなさそうに萩原を一瞥し、吊り下げられたネクタイの束から三本を抜き取ってハンガーに掛けたジャケットに当てた。真ん中の一本を残し、あとは元に戻した。
「それはそうと、他に誰が来んのか知ってんのか?」
ローテーブルの前に戻って、萩原は鍋島に訊いた。
「さあ、二次会やからそこそこみんな来るんやろうけど、よう知らんな。陽一の連れていうたら、
「由貴ちゃんか……」と萩原はテーブルに肘を突いた。「来るんかな」
「気になるか」鍋島は戸口から顔を出した。
萩原は答えなかったが、嬉しそうな迷惑そうな、何とも複雑な表情をしていた。
「知らんのやろ、おまえらが離婚したの」
「知らんと思うで、誰かから聞いてなかったら」
「おまえ、また言い寄られるかもな」鍋島は面白そうに言った。
「……なに喜んでるんや」
「別にぃ」鍋島はにやりと笑って寝室に引っ込んだ。
萩原は舌打ちすると、上着のポケットから煙草を取り出して口に挟んだ。「──おい、早よしろよ。置いて行くぞ!」
その夜、同級生の結婚二次会に出席したあと、鍋島と萩原は
「──陽一のやつ、ごっつ美人の嫁さんもらいよったな」
バーのカウンターに頬杖を突き、萩原はため息混じりで言った。
「ああ、あんな可愛い子、そうどこにでもいるもんやない」鍋島も深く頷いた。
「社内恋愛やて言うてたな」
「確かに、あいつは昔からそう言う姑息なとこがあった」
萩原は言うと、じっと鍋島を見つめた。「──ところで、おまえらはどうなってるんや」
「俺ら? 俺らって?」
「とぼけるな。おまえと
麗子というのは彼らのもう一人の親友で、同じく大学の同級生だった。そして今では、鍋島の恋人でもあった。
「結婚せえへんのか」
「まだ早いやろ」
「早い? 何で」
「その──あいつとそういう関係になってから、まだ半年しか経ってへんし」
「つき合い出してからは半年かも知れんけど、知り合ってからはもうそろそろ十年やぞ。今さら、何を迷うことがある?」
鍋島は煙草を箱から一本引き抜いて、それを右手の中指を使ってくるくると回した。「もうちょっと、気楽っていうか──自由でいたいって気持ちがあるんや」
「自由か。おまえらしくもない言葉やな」と萩原は呟いた。「いつまでもそんなこと言うてると、結果的には俺みたいなことになるぞ」
鍋島は返事に困って萩原を見た。萩原の離婚理由の一つが、彼がアメリカにいた頃の自由な生活を、帰国してからも忘れることができなかったからというものだったのだ。
「そういや、言うてなかったな」萩原は言った。「先月、智子が再婚したんや」
「そうか」と鍋島は手許のグラスに視線を落とした。
「今日の昼に会うてきたけど、すっかり花屋の女房やってた」
「ちょっとは安心したやろ。そうなると今度はおまえや」鍋島はわざと明るく言った。
「何が」
「せやから、誰かええ相手見つけろよ」
「俺はええよ。ちょっと結婚は考えられへん」
「仕事一筋ってやつか? おまえも変わったなぁ」
「まさか、そんなんやないって」
と萩原は顔の前で手を振り、すぐにちょっと考え込むような表情になって言った。
「そうやな──もっと気楽なつき合いやったらしてもええけどな。結婚とか、子供とか、そういうややこしいこと抜きの」
「誰かてしたいやろ、そんなんやったら」
「まあな」
バーには照明らしい照明はなかった。それぞれのテーブルの上と、長いカウンターのところどころに置いた蝋燭の明かりが店内をぼんやりと浮かび上がらせていた。四角形や円形のテーブルに囲まれるようにして置かれたグランドピアノで、繊細な顔立ちのピアニストが、さっきから流れるような旋律の曲を演奏している。なかなか上手いな、と萩原は思った。
「あのピアニスト、美人やな」
鍋島が萩原の視線をたどって言った。萩原はしたり顔で鍋島を一瞥した。
「麗子の方が数段上やと思てるくせに」
「……別に、関係ないよ」
「素っ気ないな」
「あいつは自分が美人やて言われるのを嫌がってる。俺もそんなことはどうでもええと思てるし」
「まあな。おまえら二人とも、つき合いはじめてからもそれまでと全然変わらんもんな」
「今となったら変われるもんでもないで」
「投げやりやな。うまいこと行ってへんのか?」
「そうやないけど」
「ほな何が気に入らへんのや」
「……よう分からん」と鍋島は肩をすくめた。
「またか。おまえは自分のこととなるとほんまに歯切れが悪すぎるぞ」
萩原は眉をひそめて溜め息をついた。
「そう、それも相変わらずや」と鍋島は情けなさそうに笑った。
演奏が終わり、何人かの客がぱらぱらと拍手をした。ピアニストは座ったまま軽く頭を下げた。すると、彼女のすぐそばのテーブルにいた年配の男の客が、何かの曲をリクエストした。
ピアニストはにこやかに笑って、再び両手を鍵盤に置いた。
萩原は耳を傾けた。明るく、ちょっととぼけた感じのテンポのその曲は、
『Twelfth Street Rag』だった。
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