第一章 ラグタイム──Ragtime


 大阪湾を眼下に一望する大観覧車の窮屈なシートに腰掛け、萩原はぎわらゆたかは膝の上に娘の美雪みゆきを乗せて窓の景色を眺めていた。


 大学の同級生と卒業後すぐに結婚し、僅か三年の結婚生活に終止符を打ったのは一昨年の八月のことだった。しかもそのうちの二年はアメリカに単身赴任していた。結婚の二ヶ月後に生まれ、今年六歳になる美雪とはたったの十五ヶ月しか一緒に暮らしていなかった彼は、今となっては月に一度こうやって彼女に会うのが何よりの愉しみとなっていた。

「ほら美雪、見てみ。あそこに朝、美雪とパパが待ち合わせした公園が見えてるやろ」

 萩原は美雪を抱き上げて窓のそばまで近づけてやった。

「あ、ほんまや。美雪、あそこでママといっしょにパパの来るのを待ってたん」

 美雪はそう言うと萩原を見上げてにっこりと笑った。栗色の髪と大きな瞳は 母親譲り、卵型の顔と凛々しい眉は父親譲りの利発そうな少女だった。

 萩原も微笑んで美雪を見た。娘と同じ眉にそれと対照的な伏し目がちの瞳が、表情に孤独感を与えていた。

「あ、パパ、いちばん上まで来たよ」

 美雪は窓に顔を張り付けるようにして言った。

「せやな。美雪、怖ないのんか?」

「こわくない。パパは?」

「パパはちょっと怖いな」

「ええ? パパ、おとなやのに?」

「大人かて怖いものはあるんや」

 美雪は笑った。「しょうがないわねえ」

 萩原ははっとした。美雪が言った今の言葉を、萩原は別れた妻にしょっちゅう言われていたからだ。言い方があまりにもよく似ていたので彼は驚いた。美雪もきっと、普段から母親に今のように言われていて、それで無意識に真似をしたのだろう。そう考えると、自分も妻にはこの娘と同じように子供扱いされていたのだと思えてきて可笑しくなった。

 やがて観覧車はゆっくりと一周し終え、二人は地上に下りた。

 時計は四時十分前で、そろそろ美雪の母親が迎えに来る時間だった。

「美雪、新しい幼稚園はどうや? 楽しいか?」

「うん、たのしい」美雪はこっくりと頷いた。

「友達出来たか?」

「うん。けいこちゃんとみほちゃんとこうたくんと……あと、アリスとレスリーも」

「外人の子もいてるんか」

「うん。でもね、えいごの時間はその人たちは日本語のおべんきょうするの」

「英語の時間なんてあるんか?」

「あるよ。前のようちえんでもあったよ」

「ふうん」

 萩原は感心して頷いた。英語の早期教育が唱われて久しいが、ここまで当たり前になっていたとは。

「それでね、美雪、先生に言うたん」

「何を?」

「『美雪のパパはえいごがしゃべれます』って」美雪は萩原を見上げた。「そうでしょ、パパ?」

「あ、ああ……」

「そしたらね、先生が『七月のお誕生会には美雪ちゃんのパパに英語でお話ししてもらいましょうね』って」

「え?」

「美雪は七月がおたんじょう日やから、おたんじょうかいやってもらうの。ようこちゃんとゆりちゃんといっしょに」

「美雪──」萩原は困っていた。「でも、パパはお仕事があるから無理やな」

「でもどよう日やもん。パパ、どよう日はおしごとおやすみでしょ?」

「美雪、あのな」と萩原は努めて穏やかに言った。「美雪の今のパパは──」

「知ってるよ、あのおじさんでしょ」

「──そうか」

「でも、ほんまのパパはパパやもん」

 美雪は顔を強張らせて言った。「あのおじさんもそう言うてた」

「美雪、おじさんって言うのはやめなさい。 美雪を一生懸命可愛がってくれてはるんやろ?」

「かわいがってくれなくていいもん」

「美雪──!」

 美雪は黙って俯いた。小さな肩が震えていた。

 萩原は彼女を不憫に思った。親の都合、それも父親一人の身勝手で離婚したのだから、美雪は完全に被害者だった。それでも彼女はこうしてその父親を慕ってくれている。それだけでも充分ありがたいことなのに、母親の再婚相手に懐かないからと言って彼女を責める権利が自分にあるはずもない。そんなことで今さら父親面するくらいなら、なぜもっと早くに親の自覚をちゃんと持とうとしなかったのか。

 萩原の頭の中は、突然自責の念で一杯になった。


 観覧車を降りると、すでに智子ともこが待っていた。

 再婚して、夫の経営する花屋を手伝っているらしく、服装が以前と違ってずっとカジュアルになっていた。娘と同じように長かった栗色の髪も今はバッサリと切って、自然なウェーヴを活かしたショートヘアーにしていた。

「どう、花屋は」

 少し前を行く美雪の背中を見守りながら、萩原は隣の智子に訊いた。

「結構大変。うちは観葉植物とか肥料なんかもたくさん扱ってるから、毎日肉体労働よ」

 両胸にポケットのついた真っ白なシャツにライトブラウンのパンツをはき、両手の指にいくつもの絆膏を巻いた智子はにっこりと笑って答えた。

「主人が仕事でよく家を空けるから、そのときはバイトの女の子とふうふう言いながらやってるの」

「その手がよう物語ってるな」

「でしょ。考えられへんでしょ? こんなこと」

 萩原と一緒だった頃の彼女は、派手に着飾ってこそいなかったが、いつもそこそこ綺麗に身なりを整えていた。結婚して、子供が産まれてからも毎日ちゃんと化粧をして、爪も伸ばしこそしなかったがマニキュアを欠かさなかった。どんなときもエプロンを取るとすぐにでもデパートに出掛けられるような格好をしていたものだ。

「萩原くんこそ、子供と遊びに来るにはちょっと改まった格好ね?」

 確かに、萩原の今日の格好は娘と遊ぶには不釣り合いと言えた。

 明るいブルー・グレーのスーツにクリーム色のオープンカラーシャツを着て、それより濃いクリーム色のレザーシューズを履いていた。銀行員で、スーツが仕事着であるとはいえ、こんなに良い天気の休日にまでそれを着たがるとは思えなかった。

「これから結婚式の二次会があるんや。ほら、覚えてないか? 陽一よういちや」

「陽一くんが? へえ……でも、ちっともおかしくないわよね。みんなもう三十前やもん」

 智子は懐かしそうな眼差しで微笑んだ。


 この二人がこうして穏やかに話ができるようになったのも、ここ半年ほどのことだった。

 一昨年の五月に萩原の口から離婚話が出てからの毎日は口論ばかりで、三ヶ月後に離婚が成立したときにはお互いに疲れ切っていた。その後しばらくのあいだも萩原は智子と美雪に逢おうとはせず、二人の間は音信不通となった。

 やがて萩原が月に一度美雪に逢うようになってからも、智子と萩原が挨拶以外の言葉を交わすことはなかった。

 そして去年の秋、智子が再婚すると知った萩原は美雪を引き取ると言いだし、二人は再び言い争いを始めたのだった。大学時代の四年間をほとんど一緒に過ごし、同級生の誰もが口を揃えてお似合いのカップルだといった二人も、しょせんはアカの他人だったのだ。血の繋がった娘を巡っていがみ合い、やがて萩原が諦めることでやっと和解したのだ。それもすべてが美雪のためだった。

「──ところで、あののことやけど」

「何か?」と智子は少し顔を曇らせた。

「上手くいってるんか? その──」

「主人と?」

「ああ、そう」萩原は曖昧な返事をした。「俺が訊くのも余計なお世話やけど」

「あの人も努力してくれてるんやけど……あのくらいの年齢の女の子って、結構難しい年頃みたい」

「……そうか」

 萩原はため息をついてずっと前を歩く美雪に視線を移した。

「あの娘が何か?」

「その──幼稚園の先生に父親やて言うて俺の話を──」

「……そうやったの」と智子は俯いた。「この前の父の日の参観日も、主人には来て欲しくないって、さんざん手こずらせて──」

「ご主人も、気の毒にな」

「萩原くんに来て欲しかったのよ、きっと」

 そう言うと智子は淋しげに笑った。「一緒にいるときも、あの娘はほんまにお父さんが大好きやったもの」

「そのことなんやけど」

「え?」

「その──俺、しばらく美雪に逢うのを控えた方がええかな?」

「そんな、萩原くんに気を遣ってもらったら悪いわ」

「でも、そうでもせんとあの娘はいつまでもご主人には心を開かへんのと違うか?」

「ううん、ええの」智子は毅然として言った。「そんなことしたら逆効果。あの娘、それを主人が仕組んだことやと思てしまうわ」

「そうか」

 智子は笑顔になった。「どうしたの、萩原くん? ちょっと前までは考えられへんこと言い出すんやね」

「何や、その言い方」と萩原も笑ったが、すぐに真顔に戻って言った。「ほんまにそうして欲しかったら、遠慮なく言うてくれよ。もちろん、俺が美雪と会いたくないから言うてるとかやないで」

「うん、わかってる。ありがとう」

 美雪が二人に向かって走ってきた。二人は美雪の笑顔を見て微笑んだ。

 傍目には、この三人はごく普通の幸せな家族に見えた。

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