第3話 私と佐久間

 それから私と佐久間はデートを重ねた。中でも印象的なのは、近所のショッピングモールに行くときだった。私と佐久間はきまってペットショップに行き、窓ガラス越しのペットたちを見ていた。

 子犬の目は愛くるしい、という人がいる。私もそれには概ね同意する。しかし世の中には例外というものがある。人類が七十億を突破しようという中、ほんのその中の一億二千万の日本の、ごく一握りの中学のクラスメイトの中にさえ変わり者がいるように、そう、佐久間のような者もいるように、犬の中にもさまざまな性格のものがいて、そこが面白くも愛くるしくもあるものなのだと、私は思う。

 私は佐久間とその日もペットショップに足を運んだ。私の家族が動物アレルギーなので、ペットショップに来るときはいつだって一人か、佐久間と一緒だった。

 そのころ、私にはお気に入りの子犬がいた。柴犬で、非常に外交的で活発な、まるまるとした顔立ちだった。私は時折彼を抱かせてもらったりして、そうして帰宅するたびに鼻水をすする妹や母のひんしゅくを買うのだった。

 私と佐久間がいつものようにペットショップへ足を運ぶと、その子はいつも店の内側の客に対して盛んに「かまってほしい」、とガラスケースの中から愛想を振りまいてくるのだが、その日はじっと座った姿勢からペットショップの外側へとまなざしを向けていた。

 彼のケースには、「売約済」の札が貼ってあった。彼の見ているものは、往来の激しいショッピングモールの通路でだった。

 私ははっとした。そうしてすぐに直感した。この子犬は、緊張しているのだ、と。これから彼が向かうのは誰とも知れぬ人の下であり、そうして外界なのだ。私は思わず店を飛び出し、外側から彼を見た。彼の前に立つのははばかられて、少し斜め前方から覗き込むように彼をうかがった。

 その時の彼の顔は、少し形容しがたいほど、すっきりとしたものだった。ただ時折動く尻尾と、鼻をなめる舌が印象的だった。丸々とした顔だちにも関わらず、りりしささえ感じた。彼はじっと、ガラスケースの向こう側を見据えていた。私は彼のことを思い出すたび、子犬とは必ずしも愛くるしさばかりではなく、どこかさめたような、リアリストの美しさを持つものもいるのだ、と思わずにはいられない。

 そんな私の様子を、佐久間はどう見ていたのだろうか。思えば、その時は、佐久間を見ず、子犬のことに集中していたようにも思える。自分でも不思議なくらい、その瞬間には、佐久間の存在を感じ取れずにいた。


「頭痛がするんだ」

 佐久間はテーマパークに行った翌日からそういうようになった。

「頭痛が、ガーンって、する」

「大丈夫なの?」

「わからない。殴られるっていうより、頭上から何かが降ってきたみたいな、予感が先に来る痛みなんだ」

「医者に行ったら?」

「わかるもんか、俺の眼にも何も言わなかったような病院が」

 それに、と付け加え

「頭痛がすると、視界がスーッって、セピア色になるんだ。起きている時に青色以外の色を見るの、初めてなんだ。これって、ひょっとすると『青いバラ』なのかもしれないだろ?」

 私には赤いバラにしか見えない者が、彼にとっては青く映ったらしい。


 結論を言ってしまえば、佐久間は病気だった。頭痛に何か原因があるわけでもなく、精神的なものだったらしい。日常的に強烈なストレスがかかり続けた結果なのだとか医者は言っていた。しかし、私も佐久間も決して青い視界のことは口に出さなかった。

 佐久間はそれ以来、言動にも少しずつ齟齬が見え始め、三年生のはじめに入院してしまった。精神病の関連上、保護者のほかに面談は断られたが、私は佐久間が強く会いたいと希望し、一時退院の際には佐久間の家で会うようにしていた。

「ひでぇよ、病院は」

「なにが?」

「壁が全面、白なんだ」

「白ってわかるの?」

「いや、青の濃淡がみんな均一だから、なんとなく」

「……」

「本当は青なのかもしれん」

「……」

「そもそもみんな青なのかもしれん」

「……」


「楽しみだねぇ!」

 そう言う友人の顔はちょっといたずらっぽい。学園祭の前日、午後の授業が切り上げられ、学校中が明日を待ちきれないかのように身もだえしていた。隣のクラスからはしきりに金槌を打つ音が聞こえ、窓の下の中庭からは、明日の発表の追い込みだろうか、ダンス部のステップがポップスに乗って響いた。

 私のクラスでは仮装喫茶をする予定であった。そのための教室レイアウトもあらかた済んでいた。後はテーブルクロスや紙食器を運び込めば、一通りの体裁は仕上がる。明日にはクレープを焼いたりインスタントコーヒーを出したりと、学園祭らしい風景が見られるだろう。

「男子、どんなふうになってるかなぁ!」

 私は横目で友人の一人のほうを見た。背の小さいその友人が身に付けているのは、ゲームキャラクターのネズミの着ぐるみだ。黄色のフードから見える、褐色に焼けた肌に汗が伝う。梅雨を過ぎた季節には随分と過ぎた代物だが、友人はそんなことそっちのけで廊下に期待のまなざしを向けている。

 私は視線を廊下に戻す。女子しかいない教室の、ほぼすべての視線が廊下へと注がれる。男子は今ちょうど階下の更衣室で、衣装の初お披露目の準備中だろう。

佐久間のいない、一人きりでの下校道を歩き、たびたび佐久間の病院に寄り道するのもすっかり慣れてしまった。この場に佐久間がいたらどうなるだろうか。他の男子たちと一緒になってコスプレに協力するだろうか。真っ青にしか見えていない中で、どんな色の服を選ぶのだろうか。男子たちの着替えを待っているとき、もどかしい浮遊感が湧いてきた。

あの男子達のことだから、恥ずかしがってきっとひとりずつは来ない。徒党を組んでやって来るんだろう。廊下を歩く女装集団に佐久間がいるのを想像すると、笑顔がこぼれるようでもあったし、しかし実際には佐久間はいないのだから、寂しい気持ちもした。佐久間だったらいつものようにおどけた調子で、安物の女子高制服姿でスカートを見せびらかすのだろうか、などと考えていた。


 そんな学園祭の前日、私は一人で屋上に出ていた。佐久間が入院している間、私はずっとひとりぼっちだった。実際には友人がいたが、心のどこかがぽっかりと空いてしまっていて、なんとなく孤独感を感じていた。学校には、「佐久間は大病をしているらしい」と噂が流れたけれど、それも次第に尾びれが付いて、死に至るだとか、気が違ってしまっただとか、いろいろ言われて、でもみんな人前では腫れ物みたいに話題を避けていた。

 特に、私の前では。


 ガチャ、と背後の扉が開いたとき、私は先生に見つかったのかと思った。

 しかし、それは佐久間だった。

 佐久間は病室で見た入院着のまま、大きなブリキ缶を抱えていた。学園祭で看板塗りに使ったものだろう。

「わかった、わかった」

 佐久間は笑っていた。

「みんな青なんだ、こんなの」

「こんなの間違ってる」

 佐久間はブリキ缶を重そうに抱えながら近づいてきた。

「まぶしすぎるよ」

「こんなの違うんだ」

 佐久間は近づいてきた。

「これは真実じゃない」

「すべて青のはずなんだ」

「青じゃなきゃ……」

 佐久間は私の前三十センチまで近づいてきた。

「お前、こんなにへんな色だったんだなぁ」

 佐久間の眼は真っ赤で、涙の後が頬に伝っていた。

「かわいそうだ」

 佐久間はブリキ缶を持ち上げて、私の上で傾けた。私は「ひっ」と言ってうずくまった。私の頭から背中にかけて、冷たい水が流れた。

 青のペンキだった。

「避けるなよ。青にならないじゃないか」 

 佐久間は笑っていた。泣きながら笑っていた。

 私はその時はじめて、佐久間には本当に世界が青く映っていたのだと知った。


 それから、佐久間は措置入院扱いで精神病棟に押し込められた。当然、面会も出来なかったし、一時帰宅の機会があるのかさえ分からないままだった。

月日は巡り、先輩の卒業式の時期がやってきた。三月の空の下で、制服がさよならを言っていた。そう、私にはわかった。私の眼下には通い慣れた中庭がある。別れを惜しむ高校生が群れを成している。校舎と校舎に挟まれた中庭ではあまり風は無いらしく、在校生と卒業生はお互いに何か言い合っている。泣いている人もいるようだ。体育館からは吹奏楽団が、先ほど終わったばかりの壮行演奏の片付けをしながら出てきている。ところどころにある卒業生輪の中心には、元担任の先生がいた。私は普段生徒が立ち入らない、吹きさらしの屋上に立って中庭を見下ろしている。

 潜水艦のハッチみたいな丸い扉を押し広げて、はしごを登った先に、私と佐久間の秘密の場所があった。この季節は風が冷たい。はき出した息が前から押し返されて眼鏡が曇った。でも、それも一瞬だった。首元のマフラーも制服のリボンも、スカートの裾もみんな風に靡いている。誰も私を見上げたりしない。私は今、この学校で一番高いところにいる。田舎町の高校だから周辺に高い建物もない。ほんの少しだが、自分が厚い雲に近づいているように感じた。

 日没の時間が迫っているのに、卒業生たちはうじうじと学校に留まっている。曇天で太陽は見えないけれど、空の明度は刻々と落ちていった。きっと明日まで校舎に居座ることを決めた人もいるだろう。例年、活発な生徒は卒業してから一晩、学校に立て籠もる伝統行事のようなものがある。ばからしいとは思わない。今の私では考えられないけれど、来年は彼らのようにガンバッてみようかと思う。卒業生たちの顔にはどこか物足りなさというか、寂しさのようなものがあった。気持ちは痛いほどわかった。

 佐久間に油性ペンキの洗礼を受けた場所は、未だに青色が点々と残っていた。私はペンキをかけられたとき、半ばパニックでどうすればいいのかわからなかったが、今になって思い起こせば、そう、まさに洗礼を受ける殉教者のようにひざまずいてでも受け入れるべきだったのではないか、と思った。笑顔がステキで、弾性にしては長い髪がいつもつややかだった佐久間。そんな佐久間が私に青ペンキの洗礼を施すときの、じっと私の眼を見つめた時の表情は鮮明だった。その時を思い出す度に私は眠れなくなる。真っ黒な瞳がじっと私を見つめて、口元は笑っているのに、白目のところは充血していて、涙をながしていた。顔はしっかりと引き締まっていたのに、目元は微かに震えていた。私はそっと手すりを掴んだ。冷たさが手のひらからじんわりと染みてくる。佐久間の手元からこぼれたペンキの冷たさが学校に流れているようにも思えた。

 厚い雲からはついに雨粒が落ちてきて、私の頬に冷たく刺さった。佐久間は、危ないから、と梅雨の間、決して私をこの場所には連れてこなかった。でも、私は密かに佐久間が一人で小さな折りたたみ傘を持って屋上に上がっていたことを知っている。本人も知らない、秘密の場所の私だけの秘密だ。新入生も授業になれて部活に慣れて、上級生も後輩に慣れてくる。そんな梅雨の時期が、私も佐久間も好きだった。

「肩を組んで歩き出すのは四月じゃない。梅雨はちゃんと屈伸運動して、夏になったら一斉に足並み揃えて歩き出すのさ!」

 佐久間は常々力説していた。佐久間は閉鎖病棟で時を止めた。こちらは、新入生が暫くすればやってくる。雨が強くなってきた。中庭の生徒達は徐々に玄関から校舎に入ったり、正門から外へ出て行ったりしている。街並みの光が灯り始めた。空は暗くなっていく。眼下を見る。来年はあそこにいるのだ。その時ここには誰がいるのだろう。吹きさらしの屋上に立ち、風よけのない街に繰りだそうとする人々を一別し、私は通用口に戻った。

 佐久間のご家族が、佐久間の退学届を出したと知ったのは、その数週間前のことだった。


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