第5話

 青天から降りそそいできた小雨は濃い霧に変わり、山頂は徐々に白いベールに包まれていきます。

 竜が霧を喚んだのか、それとも霧に喚ばれて姿を現したのか。

 あらゆる輪郭が曖昧になった視界ごしに、霊峰のごとき巨大な影がぼうっと浮かびあがっておりました。

 そして見あげれば、燭台のように揺らめくふたつの光。

 ――竜がこちらに近づいてきている。

 そう気づいたときには、もう手遅れでした。


「心を静謐に保て、シイ!」

「え……?」


 頭にぱっと火花が散り、遅れて衝撃がやってきます。

 周囲の景色がぐるんと反転し、地べたにがつんと接吻をかわしたあと、わたしは竜の腕に思いきり打ちすえられたのだと理解しました。


 襲われている。このままだと殺されてしまう。

 焦りと恐怖が全身を駆けめぐる中、それでもなんとか立ちあがり竜と距離を取ると、揺れる視界の中に狩人の鋭い声が響いてきました。


「竜は山の気を、そして人の気を詠むと言っただろう! お前が抱いた恐怖は、目の前の獣にとっては耳障りな音のようなものなのだ!」

「――わたしの感情が伝わっているということですか!?」

「そうだ。ゆえに怯えれば怯えるほど、竜の心をざわつかせてしまう。まずは山の空気を吸い、震えあがった心を落ちつかせろ!」


 白髪の狩人にそう言われて、恐怖のあまり息を止めていたことに気づきました。

 霧のベールごしにゆらめく竜眼の灯火を見すえつつ、わたしは山の気を全身にめぐらせ、高鳴る心臓の鼓動を押さえこもうとします。

 ふと傍らを見れば、狩人がそばまでやってきていて、

 

「俺は時折ふもとへ降りて、この地で語り継がれている竜の伝承を集めた。そのほとんどが運悪く竜とまみえたものの、無事に逃げおおせたというものだ。とはいえ……言葉として残されているほかにも凶暴な爪牙の餌食となり、山中で朽ちていった邂逅もあったろう。すべての伝承に共通しているのは、その恐ろしい姿を見た瞬間に逃げることを諦めた。つまり、死を受けいれたということだ」

「しかし皮肉にも死を受けいれたものだけが生き延び、語り部となって伝承を残す結果となった、というわけですか」


 彼らのように死を受けいれるつもりはありませんが、わたしは深呼吸を繰り返し、恐怖を外に追いだします。

 すると白い霧の向こうで、竜の影があらぬ方向にさまよいはじめました。

 

「山の気や心を詠む力を備えているせいか、視力は並の獣以下ですね。心を落ちつかせるだけで、わたしの居場所を見失ってしまうとは思いませんでした」

「ただ逃れたい、あるいは見るだけでいいのなら、心を静謐に保ち、竜が去るまで待てばよかろう。しかし、狩るとなれば話は別だ」


 狩人の言葉に、わたしはうなずきを返します。

 霧が立ちこめる直前に見た竜の姿は脅威そのもの。赤褐色の鱗に包まれた表皮は鉄の甲冑さながらで、おまけに羆のごとき巨大な体躯をしているのです。

 そんな恐ろしい獣を狩るとなれば――死を受けいれるのではなく立ち向かうのだという、不断の覚悟が必要となるでしょう。 


「俺はこの瞬間を待ち続けていた。ただの夢想にすぎぬかもしれんが、超然とした存在に打ち勝つことができれば、自分の中のなにかが変わるかもしれないと信じて。……お前はなんのために、竜の角を求める。命じられたままに、命を賭けるだけか」

「それが騎士の道であるといえば、よほど聞こえがいいでしょうね。しかし実際は父に認めてもらいたい、褒めてもらいたいだけなのかもしれません」


 そこでわたしは目を閉じ、狩人がそうしているように、迷いのない瞳で白い霧の先を、霊峰のごとき巨大な影を見すえます。


「でも今はいっそ、父の渋面に竜の角をぶつけてみようか、とも考えております。あなたを越えましたと言って鼻で笑ってやれば、娘と向きあわずにはいられないはずですから」

「ハハハ! 認めないというのなら、認めさせてやるというわけか。それほど痛快な見世物を披露するのなら、お前はやはり騎士の象徴となるべき女だ、シイよ」


 そしてお互いに武器を構えます。

 わたしは腰にさげた剣を、彼は肩にかけていた弓を。


「では参ろう。今日こそ変わるのだ、俺とお前は」


 その言葉が狩りの合図でした。

 狩人は白いベールの先に潜む竜めがけて弓を射ます。今や霧はさらに深く濃く立ちのぼり、攻撃が命中したのかどうかすらわかりません。

 しかし竜は矢が飛んできた方向からこちらの居場所を割りだしたのか、黄昏色の眼光を揺らしながら近づいてきます。

 わたしは笛を吹くように長く息を吐き、ぼうっと浮かびあがった巨大な影に剣を一閃。金属同士がぶつかるような鈍い音とともに火花が散り、しかし振りおろした腕もろとも刃は弾かれてしまいました。


「……さすがは竜の鱗ですね! 恐ろしく硬い!」

「感心している場合か! すぐに反撃を仕掛けてくるぞ!」


 言われるまでもなくわたしは身をひるがえし、霧を裂くように飛び出してきた岩のような腕を回避。続けざまに剣を振りあげ、斬るのではなく叩くようにして一撃を浴びせます。

 すると竜は苦悶の叫びをあげ、痛みにひるんだように後退していきました。


「前に見たときよりも動きが鈍いな。飢えているのか老いているのか、はたまた病に冒されているのか。いずれにせよ天上の神々は俺たちに味方しているようだ」

「竜が感知できるのは恐怖や怒りだけで、こちらがいつ攻撃を仕掛けるか、というところまでは伝わっていないようですね。ならば打ち倒すこともできましょう」

「しかしシイよ、いずれ霧は晴れる。その前にけりをつけたほうがいいやもしれぬ」

「わかりました。では、一気に攻めます」


 そう言うなり霧の中に身をおどらせ、巨大な影に再び剣の一撃を浴びせます。

 直後、狩人からの援護射撃がひゅっと風切り音を鳴らします。

 視界が悪いというのに狙いは正確、そのうえ鏃に毒でも塗ってあったのか――狩人の矢を受けた竜はさらに動きが鈍くなっていきます。

 ふたりで幾度となく攻撃を繰り返すと、やがて竜は地に伏したまま動かなくなりました。

 

「この地の野草で作った眠り薬が、思いのほか効いたようだな。さて、弱っている今のうちに仕留めるとしよう」

「待ってください。なにか……様子がおかしいです」


 ふと違和感を覚えたわたしは、再び弓を射ようとする狩人を制します。

 そうこうしているうちに霧が晴れ、白いベールに包まれていた竜の姿が鮮明になっていきました。

 赤褐色の鱗に包まれた巨躯。爛々と輝く、黄昏色の双眸。

 岩のような頭に目を向ければ、乳白色の美しい角が一本、塔のように生えています。

 しかし恐ろしかった竜は騎士と狩人の前に敗れ去り、今や静かに震えるのみ。

 わたしは弱りきったその姿を視て、懇願するような声を聴き、そして目の前の獣を識りました。


「狩人よ。この竜は飢えているのでも、老いているわけでもありません。病んでいるわけではありませんが、万全な状態ではなかったのも確かでしょう」

「ではなにゆえ、動きが鈍っていたのだ」


 狩人は翡翠色の透んだ瞳で、こちらをじっと見つめます。

 あるいは男ではなく女だからこそ、気づくことができたのかもしれません。

 わたしは悲痛な声で、ありのままを伝えました。


「竜は身ごもっているのです。その腹に、小さな命を」

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