第4話
翌日。山のさらに奥深くへと進んでいくと、傾斜が次第にきつくなり、ごつごつとした岩場が増えていきます。
ときには倒木や土砂が行く手を阻み、来た道を引き返して迂回しなければならないほどでした。
しかし先導する白髪の狩人は、ぜえぜえと息を荒げて歩くわたしを尻目に、足場の悪い山道を猿のようにすいすいと進んでいくのです。
「山の愛を受けいれるだけの度量はあるようだな。今のお前は鞭打たれた罪人のように従順ではないか、シイよ」
「あなたの案内がなければ、ここまで進むことができなかったでしょうし、あるいは遭難して、のたれ死んでいたかもしれませんからね。……しかしだいぶ寒さが険しくなってきたように感じますけど、そろそろ天頂が近いのでしょうか」
「ほう、わかるのか。ちょうど今、目当ての場所に到着したところだからな」
その言葉を聞いたわたしは、はっとして周囲の景色を見回します。
山の頂だけあって手を伸ばせば触れるのではないかと思うくらいに空が近く、いつのまにやらうっすらと、白い霧が立ちこめておりました。
しかしほかにあるものといえば道中でも頻繁に見かけた岩くらいで、狩人に言われなければ、そのまま素通りしかねない程度には特徴のないところでした。
「で、ここでなにをすればいいのです?」
「竜が現れるまで待つ。それだけだ」
白髪の狩人はそう言うと、岩場の陰に身を潜めました。
わたしも彼にならいつつ、再び問いかけます。
「目安としてはどれくらいなのでしょう。竜狩りのお役目には期日がありまして、今より一月半後には王都へ戻らなければなりません。つまりその間に見つけられなければ、手ぶらで帰ることになるわけですけど」
「お前の都合なんぞ知ったことか。俺はここではじめて竜を見てから、かれこれ三年は待ち続けているのだぞ」
「は? その間に一度も?」
「竜狩りとは不毛なものだ。そうは思わないか、シイよ」
◇
過酷な修練に幾度となく耐えてきたわたしですが、なにもせずにいるというのはさすがに経験したことがありませんでした。
日が明けてから暮れるまで岩場にじっと身を潜め、たまに食料を得るために交代で場を離れる。
そうやって三日、さらには一週間、延々と待ち続けるのです。
なのに竜は一度も姿を見せることなく、どころか気配すら感じません。
びゅうびゅうと吹き荒れる山頂の風を浴びて肌は荒れ、髪は艶を失い、身体はフユゴモリに負けず劣らずの異臭を放つようになります。
やがてわたしも白髪の狩人のような、浮き世離れした風貌になっていきました。
こうしてなにも起こらぬまま一ヶ月が経った、ある日の昼さがり。
「……たまには話をしませんか。隣にあなたがいるというのに、うっかりするとひとことも口を聞かずに一日を終えることになりますから」
「しかし待つ以外に手段はない。あるいはこのまま期日を終えたとしても、な」
「きっと、そうなのでしょうね。実のところ、最初はあなたが竜の化身なのではないかと疑っておりました。もしそうならもったいをつけずに、正体を見せてくださいませんか」
すると白髪の狩人は、きょとんとした顔を浮かべました。
言葉の意味を理解すると、心の底から呆れたような態度で、
「お前は相変わらず、なにも視えていないのだな。そんな調子だから、いつまで経っても竜が現れぬのではないか」
「わたしのせいにしないでください。ということはあなたも人間なのですね」
「ごらんのとおり、俺は竜の虜になった哀れな男でしかないぞ」
「しかしあなたは、わたしの迷いを言い当てました。そして案内人として、こうして導いてくれたのです。まるで心を読んだかのように」
「なるほど、それで竜の化身と疑われたのなら皮肉な話があったものだ。この際だから白状するが……俺はただ、己と向きあっていたにすぎぬ」
わたしは言葉の意味がわからなくて首をかしげます。
狩人は観念したように、すべてを打ち明けてくれました。
「つまりお前に告げた言葉のすべては、かつて俺の中にもあった迷いということさ。拒まれていると感じながら、すべてを拒んでいたのは俺だ。山の調和を乱していたのも、過去と向きあうことを恐れていたのも、記憶の中にしかない果てなきものを追い求め、不毛な道を進み続けていたのも――この地に足を踏みいれたときの、俺自身なのだ」
白髪の狩人は翡翠色の、澄んだ瞳でわたしを見つめてきます。
彼はわたしに言い聞かせているようでいて、実は過去の自分と向きあおうとしていた、ということなのでしょうか。
「あるいは俺も認められたかったのだろう。しかしいくら願おうとも、記憶の中にしかないものと語らうことはできない。そのうちになにもかも嫌気がさし、世俗のしがらみから逃れようとしたのだ」
「そしてこの山で、あなたは竜を見たのですか……?」
「ああ、自分のなにかが変わってしまうほどに、超然とした姿だったよ。だからあの美しい角を――その一部を得ることができたなら、お前が誤解したように、俺は竜の化身になれるかもしれない。かれこれ三年もの間、そんな夢想に憑りつかれているわけさ」
白髪の狩人は岩陰から山頂の景色を見つめたまま、うわごとのようにそう呟きました。
わたしはその姿を視て、飾り気のない言葉を聴き、ようやく彼という人間を識ることができたのです。
「しかし待つというのは思いのほか難しい。情けないことに根をあげていたのだよ、俺は」
「ではあなたが、案内人を引き受けてくれたのは――」
「さすがに変化が欲しくてな。ちょうど山のふもとに降りたときに昔の自分がやってきたのだから、運命というものを感じたよ。あのときと同じ条件は揃ったのだから、あとは祈るだけだ」
それから彼は落胆したように「しかし期待外れだったかもしれん」と言いました。
憤慨すればいいのか同情すればいいのかわからなくて、わたしは空を見あげます。
すると、パラパラと雨が降ってきました。
さきほどまで快晴だったというのに。
今なお空は明るいというのに。
「そうだ。これだ。ようやくだ。俺はこの空気を覚えているぞ」
「では……!?」
「来るのだ、ついに、俺が、お前が、求めたように」
わたしは異様な気配を感じ、にわか雨の空を見あげます。
竜というものは、飛んでくるものだと考えていたからです。
ところが実際は逆でした。
ぼこぼこと奇妙な音がしたかと思えば、枯れた枝と葉にまみれた地面が盛りあがり、突如として山頂に新たな傾斜ができあがったのです。
赤黒い、岩盤。いえ――あれは鱗。
山そのもののような、ゴツゴツとした背中。
爛々と輝く、黄昏色の瞳。
狩人は目の前の獣を指さし、こう言いました。
「あれが竜だ、シイよ」
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