第6話

 白髪の狩人は目を剥いて、狼狽したようによろめきました。

 しかしすぐさま心の静謐を取り戻し、横たわった竜のもとに近づいていきます。

 彼は羊飼いのように慣れた手つきで、鱗の生えていない柔らかな腹をまさぐり、


「なるほど。卵か胎児なのかもわからぬが、孕んでいることだけは間違いなさそうだ。しかし……どうする。この竜を狩れば当然、中に宿っている命も息絶えるぞ」

「角だけを切ることはできないのですか? わたしが言い渡された使命は生きた竜を狩ることですけど、献上品さえ持ち帰れば貴族たちも納得するでしょう」

「それも難しそうだな。間近で眺めてみると、中にもしっかりと神経が通っていることがわかる。身重の獣が痛みに耐えられるとは思えぬし、結局のところ、ふたつにひとつ。腹の子ともども殺し、目当ての角を得るか。あるいはこのまま見逃すか」

 

 選択を迫られたわたしは、力なく首を横に振りました。


「献上品として持ち帰る角は、新たな王の即位を祝して贈るものです。生まれる前の命を奪ってまで得るのでは縁起が悪いですし、母竜から切ることができぬ以上、見逃すべきでしょう。フズムに帰還したのち、正直にそう伝えるほかありません」

「しかしそれでは誰も納得しまい。口からでまかせだと罵られるのは、避けられぬぞ」

「だとしても、です。わたしは幼きころ、野犬に襲われたところを父に助けられたことがあります。親に守られ命を繋いだものが、身重の獣を殺せましょうか」


 決然とした態度で告げたあと、わたしは逆に問いかけます。


「あなたはどうなのです、狩人。超然とした存在に打ち勝ったとき、自分の中のなにかが変わるのだと、竜のようになれるのだと――そう信じるがために、今ここで地に伏している母を殺すのですか」

「あえて問わずともわかっていよう。俺の姿を視て、この声を聴いているのなら」


 竜が身ごもっていると告げられたときから、狩人の顔は落胆に満ちていて、その声は干からびたように掠れておりました。

 彼は地に伏した竜の傍らに立ちつくしたまま、その弱々しい姿に向けて呟きます。


「眠り薬を塗った矢で仕留め、視界を覆う霧が晴れてみれば、目の前にいるのはフユゴモリとそう変わらぬ、ただの獣とはな。孕んだ腹を引きずり命を繋ぐとなれば、この竜とて山の摂理に従うだけの存在にすぎぬ。……俺があのときに見た山の化身ともいうべき超然とした姿は、やはりただの夢想だったのだろう」


 

 しかしそのことに気づけたのなら、彼はきっと変われるはずでした。

 実際、竜の呪縛から解放された男の瞳には今までになかった精気が宿っており、数十歳以上も若返っているようにすら感じられます。

 

「竜狩りは諦めるほかあるまい。しかしその道を選ぶがゆえに、俺は求めていたものを得られる気がする。お前も同じ気持ちなのではないか、シイよ」


 わたしはその言葉にうなずきを返し、笑みを浮かべます。

 地に伏していた竜は早くも回復しつつあるのか、そこで天に向かって一声、大きく啼きました。



 ◇



 山をおりたあとに白髪の狩人と別れ、フズムに戻ることにいたします。

 そして数日後。

 生まれ育った実家の書斎で、わたしは竜よりも恐ろしい相手と対峙しておりました。


「まさか手ぶらで帰ってくるとはな。今回の結果を知れば、議会はおおいに落胆するだろう」


 かつては歴代最強と謳われた筆頭騎士、我が父キデックは豪奢な革張りの椅子に腰かけたまま、こちらを振り返りもせずに言いました。

 わたしが山でのことをかいつまんで話したところ、やはり信じてはもらえず、


「それほど弁が立つなら、社交界でも抜かりなくやっていけるな。華奢な腰にさげた剣を置き、貴族の令嬢らしくドレス姿でも披露してみせたらどうだ」


 皮肉めいた調子でそう語ると、父はようやくこちらに向き直りました。

 わたしが微笑んでみせますと、彼は口を開け、唖然とした表情を浮かべます。


「なんだ、その格好は……」

「貴族の令嬢らしくドレス姿でも披露せよと、今おっしゃったばかりではございませんか。あえて父上に言われずとも、わたしはそのように振る舞うつもりでおりましたので」


 父はまじまじと、着飾った娘を見つめます。

 筆頭騎士の礼装である白のサーコートこそまとっているものの、わたしの身体を包んでいるのは真っ赤なドレス。

 朱に染めたシルクに金糸で刺繍を施した華やかなもので、スカート部分の裾を短めに取っておりますから、有事のときは軽くたくしあげれば動きを妨げることはありません。


「議会の規定を確認したところ、白のサーコート以外の身なりについてはとくに記されておりませんでした。今までは慣例にならって男のような格好をしておりましたが、さきほど父上がおっしゃったようにわたしは騎士であると同時に、貴族の令嬢でもありますから」

「だからそんなバカげた服装を……?」

「格式を重んじる父上には、剣を佩いた淑女はいささか奇異に見えるのでしょうか。しかしこれが今のわたし、あなたの娘が選んだ道なのです」


 わたしは腰にさげた剣をカチャンと鳴らしながら、ドレスの裾をつまんでご挨拶いたします。

 父の反応を見るかぎり、竜の角をぶつける以上の効果があったようでした。


「女というだけで騎士だと認めぬのなら、どうぞご勝手になさってください。あなたが目を背けている間に、わたしは民の模範としてこの国を豊かに、そして華やかに変えてみせます。性差や身分に関係なく、誰しも自らが望むものになれるのだと――そう示すことで」


 どんなに辛辣な言葉を浴びせられようとも、わたしはありのままの自分を貫きとおすつもりでおりました。

 男でなければ務まらぬというのなら、女でなければ成せぬ道を示してみせるのです。


「いったいなにを血迷ったのか知らないが、ドレス姿で騎士のまねごとをするとなれば、一部の人間にとっては嘲りの対象だ。あるいは侮辱と受け取られ、これまで以上に貴族から圧力がかかるかもしれないのだぞ」

「だからなんだと言うのです。否定する者の言葉に耳を傾けるのではなく、認めてくれる人間を増やすべきでしょう。それがどれほど不毛な道でも、竜を狩るより、夜空の星を集めるより困難だとしても、たとえ父であるあなたが認めてくれなくても――わたしは筆頭騎士として、変わりゆくフズムの象徴になると決めたのです」


 鼻息を荒くしてそう演説すると、かつての筆頭騎士は再び顔を背け、年相応にくたびれた様子でため息を吐きました。


「すこし見ない間にずいぶんと威勢がよくなったものだ。昔のお前は慎みのある優しい娘で、いずれはよき妻、よき母となって、女としての幸福をつかむものだと信じていたよ」

「お言葉ですが父上。女としてのかどうかはわかりませんが、わたしはすでに幸福をつかんでおります。幼きころに憧れたあなたと同じ、筆頭騎士になれたのですから」


 驚くほど素直に、父と向きあうことができました。

 だからでしょうか。

 父もまた若干の諦観をにじませながら、こう言ったのです。


「ならば好きにするがいい」

「――よろしいのですか!?」  


 これほどあっさりと認められるとは考えてもいませんでしたから、思わず幼子のようにはしゃいでしまいます。

 しかしそのあと彼がぽつりと呟いたのは、意外な言葉でした。


「私はどうやら誤解していたようだ。お前にてっきり、背負わせてしまったのかと」

「なにを、です?」  


 父がそれ以上なにも言わないので、自分で考えなければなりませんでした。

 そして長い静寂のあと、わたしはようやく理解します。

 あのときに傷を負って引退したことが、娘に自責の念を背負わせ、女の身でありながら騎士を目指す道を選ばせたのではないか――父はそう恐れていたのだと。


 父は認めていなかったのではありません。

 ただ、案じていたのです。

 あえて苦難の道をゆこうとする、わたしのことを。

 そのことに気づいたとき、口から自然と言葉が漏れていきました。


「今更ながらですが、わたしはあなたに騎士として褒められたいからこの道に進むことを決めました。それが全部ってわけではなくてやっぱり自分でもやりたいしつらいし楽しいしってのは勿論ありますが、それと同じくらい大きい理由です。ありがとうございました」


 涙がぽろぽろとこぼれ、そのせいで昔に戻ったように要領を得ない話ぶりでしたけど、それでも感謝の気持ちだけは伝わったはずでした。


 あの山で狩人が告げた言葉の意味が、ようやくわかりました。

 わたしは騎士である前に娘であり、ならば示すべきは成果や矜持ではありません。

 父が願うのは娘の幸福なのですから、ただそれを伝えるだけでよかったのです。

 

 実の娘に泣き顔を見せたくないのでしょうか。

 父は椅子に腰かけたまま姿勢を変え、再びわたしから顔を背けます。

 そして再びぽつりと、こう呟きました。


「……念のため言っておくが、孫の顔を見るのを諦めたわけではないからな」


 わたしはつい、吹きだしてしまいました。

 目の前にいるひとがどこまで父であることが、可笑しくて。

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