第2話


 鮮やかに色づいた茂みの奥から、異様な匂いを漂わせて、見あげるほど大きな影が姿を現しました。

 そして灰褐色の毛皮に包まれた獣が、うなり声をあげて襲いかかってくる刹那――わたしの脳裏にふと、過去の記憶が蘇ってきたのです。



 ◇



 それは避暑のためにおもむいた、大陸の東にある湖畔でのこと。

 当時まだ齢十にも満たなかったわたしは、家族とともに緑豊かな湖の周りを散策しておりました。

 そして理解したのです。

 自然とは美しいだけではなく、危険なものでもあるのだと。


 草葉の陰から飛びだしてきたのは、飢えた野犬。

 口からよだれを垂らし、鋭い牙をむくその姿は、今なお恐怖とともに心の奥に刻まれています。

 あのとき父の助けが間にあわなかったら、わたしは大人になることなく生涯を終えていたことでしょう。


 しかし野犬から身をていして娘をかばったあのひとは、右肩に深い傷を負ってしまいました。そして筆頭騎士としての引退を、余儀なくされたのです。

 わたしがもし、母の言いつけをやぶって脇道にそれていなければ……王国最強と謳われた彼の剣技は今なお冴え渡っていたことでしょう。

 ディエム草の淡い桃色の花を、父にも見せてあげたかった。

 ただ――それだけのことでしたのに。



 ◇


 

「ぼさっとするなっ! 伏せろ!」


 背後から狩人の声が響き、わたしはとっさに姿勢を低くします。次の瞬間、鋭い風切り音とともに、幹のような獣の腕が頭上を通りすぎました。

 肌を刺すような恐怖が全身を駆けめぐり、鞘から剣を引き抜いたわたしは、伸びきった腕めがけて刃を一閃。

 すると灰褐色の毛皮から鮮血がほとばしり、ぴゅっと孤を描きました。

 

「ふむ、一応は騎士というわけか。見ろとは言ったものの、牙をむく獣を前にして呆けているとは……融通がきかぬほど真面目なのか、それとも愚かなのか。どちらなのだ、女よ」

「だからシイとお呼びください。わたしの名を覚えられぬほど耄碌もうろくしているのでなければ」


 わたしは獣がひるんだ隙に、じりじりと後退していきます。

 その間、白髪の狩人は背負った筒から矢を抜くと、友人にご挨拶するかのような自然な動きで弓を射ます。

 一切の殺気を感じさせぬその攻撃は、しかし獣の右目に深々と突き刺さり、山の景色を震わせるほどの悲鳴を、周囲に響かせました。


 十分に距離をとったところで、わたしは彼にたずねます。


「なんという獣なのですか、あれは。熊なのかと見まごうほど大きいですが、顔つきはイタチによく似ています。いずれにせよ、かなり凶暴そうですね……」

冬篭フユゴモリだ。活きのいい餌を求めて、山の中をさまよっていたところのようだな」 

 

 活きのいい餌というのは、つまりわたしたちのことでしょうか。

 腕と目に浅くない傷を負ったにもかかわらず、フユゴモリは一向に逃げだす気配がなく、飢えた獣のように渇いたうなり声を、こちらに浴びせてきます。

 灰褐色の腹はでっぷりと肥えていて、危険をおかしてまで獲物を狙うほど、追い詰められているようには見えないというのに。

 元々が気性の荒い種族なのでしょうか。それとも……。


「しかと聴け、シイよ。フユゴモリを介して、お前に問うているのだ。なにゆえ我を拒むのか、なにゆえ調和を乱すのか。山がそう、問うているのだ」

「どういうことですか。あれはただの動物でしょう」

「いいや、あれは使者だ。この地の獣のほとんどは秋の間に栄養を蓄え、ほら穴や木のうろに身を潜め、寒い冬を越えるために長い眠りにつく。ちょうど今、目の前にいるフユゴモリも木の実や茸をむさぼっている真っ最中だった。それはわかるな?」

「はい。しかしあれほど肥えているというのに、餌がまだ足りないのでしょうか」


 わたしがそう問うと、狩人はくんくんと鼻を鳴らします。

 彼が示したのは、異様な匂い。

 茂みの奥から獣が現れたその瞬間から――名も知らぬ異国の料理のような、あるいは怪しげな薬のような体臭が、空気を染めるように、周囲に充満しているのです。


「フユゴモリが哮っているのは、飢えているからではない。土壌によって育まれた木の実や茸をむさぼるがために、彼らはこの時期、山の気にあてられてしまう。そのためこうして、山の使者としての役目を負わされることがあるのだ」


 狩人の言葉は、にわかに信じられないことでした。

 しかしフユゴモリから漂う異様な芳香は、まさしく大地に流れる霊気そのもののようで――ただ嗅いでいるだけでわたしも山に操られてしまうのではないかという、恐怖が芽ばえてきます。

 あるいはさきほど記憶が呼び覚まされたのは、この匂いにあてられたからなのかもしれません。

 だとすれば彼の言うとおり、わたしは山に問われているのでしょうか。


 なにゆえこの地に足を踏みいれたのか、と。

 

「お前は拒んだ。ならば山も拒むだろう。しかし受けいれるのなら、山もまた受けいれるはずだ。問われたのなら、示せばいい」

「なにを受け入れろというのですか。それに示せというのは、いったい……」

「ありのままを、だ」


 やはり狩人の言葉はなにひとつ、理解できません。

 どうするべきかもわからずに混乱して、ぽろぽろと涙がこぼしてしまいました。

 わたしはきっと、拒まれているのでしょう。

 山に。フユゴモリに。

 あるいは父に。

 しかし狩人は、ほかでもないわたしが、彼らを拒んでいるというのです。


 ずっと騎士になりたかった。

 愚かな自分が奪ってしまった、あの勇敢な背中になりたかった。

 若き日の父が今は亡き先王に捧げたように、この山で竜の角を手にすることができれば、きっと誰もが認める、立派な騎士になれるはずなのです。

 認めてもらいたい。褒めてもらいたい。

 ただそのためだけに――この地に、足を踏みいれたのですから。


 なにを示すべきかわからないのならば、立ち向かうほかありません。

 わたしは再び、剣を構えます。

 そして全身を震わせて吠える獣めがけて一歩、足を踏みだしました。

 ところが、


「……え」


 フユゴモリはそのまま、茂みの奥に姿を消していきました。

 結局なにがどうなったのかもよくわからないまま、わたしは剣を構えたまま呆然としてしまいます。

 すると一部始終を見守っていた白髪の狩人が、しゃがれた声でこう呟きました。


「よかろう、お前は受けいれられた。しかし示したのなら、向きあわなければならない」

「誰と……? 山ですか? それとも、竜ですか?」

「あるいは過去と、だ」


 彼はわたしの心を読んでいたかのように、静かにそう告げます。

 そして再びスタスタと歩きだした背中は、黄昏に染まった山の景色と見事に調和していて、わずかに目を離しただけで、霞のように消え失せてしまいそうでした。


 竜は時に人の姿をとって、旅人を山の奥深くに誘うと言われています。

 ……前をゆくこの男は果たして、本当にただの狩人なのでしょうか。

 ふと心に抱いた疑念は、歩けば歩くほど、いっそう強くなっていくようでした。

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