世界の中心で愛を叫んだケモノ——
乃井 星穏(のい しおん)
世界の中心で愛を叫んだケモノ——
ミシリ……と、手の内で何かが壊れる音がした。
「ごめんな……ごめんなあ……」
謝るくらいならやらなければいい、なんて自分でも思う。自身の理性が咎めるにも関わらず俺の手に入る力には、腕に乗せる体重には、飛ばされないように踏ん張る体には、躊躇も戸惑いもなかった。
雲が動いたのか外から月明かりが差し込み、俺の手元もゆっくりと照らされていく。気づいた時にはソレは既に息絶えていた。
「あ…あ…あああ……」
うめき声のようなものが、獣の慟哭が、知らず知らずのうちに漏れ出る。どうしてこうなってしまったのか、どうして……どうして……答えの出ない思考がグルグルと頭を回っていく。
ふと瞼の裏に少女の姿が浮かんだ。顔は思い出せない、アセビの花と笑う少女の姿が——
*****
流行り病で妻が死んだ。花を愛でるのが好きな女だった。彼女は病床にあっても最後まで凛々しく、強く、美しく——そして枯れるように死んだ。私には悲しんでいる暇はなかった。私と彼女の間にはまだ小さい娘があったのだ。彼女に託された小さな花を、枯らさないように育てなければならなかったのだ。
そして五年後。娘が十歳の誕生日を迎えるころ、娘は病にかかった。流行り病だった。医者が宣告したその病名を覚えてはいない。私が覚えていることは二つ。その病には治療法が確立されていないこと、身体の各々の筋肉がデタラメに弛緩、緊張すること。病人の姿からその病気は『ケモノ病』と呼ばれている。二度も流行り病に大切な家族を奪われてなるものかと私は必死だった。必死に稼ぎ、必死に医者を訪ねて周った。あらゆる手を尽くし、その全てが尽く失敗し、気づいた時には17ヶ月という時が過ぎていた。
疲弊しきった私はいつも通り、夜遅くに家に帰ってきた。
「ただいま」と言っても返事はない、いつも通りだ。
それはリビングの奥のベットにひっそりと横たわっている、いつも通りだ。
本当にどうかしていたと思う。思ってはいけないことを思ってしまったと思う。しかし17ヶ月間見続けてきたその姿を見たとき、私は不意に思ってしまったのだ。
——果たしてこの『ケモノ』は本当に俺の娘なのか、と。
理性が咎める間も無く、俺はソレに馬乗りになって首を絞めていた。懺悔を繰り返しながら、ミシミシとその細い首をゆっくりと締め上げていった。ソレは嗚咽のような鳴き声で、不自由な体を暴れさせ、瞳に涙を溢れさた。その姿はまさしく『ケモノ』だった。
——やはり目の前のソレは俺の娘ではなかったのだ。力を込める俺の下で暴れる力が徐々に弱まっていき、そしてソレは最後に不器用に微笑みながら「ありがとう」と言って生き絶えた。微笑んでいたはずがない。礼なんて言えたはずがない。しかし俺の手元に残ったソレは、間違いなく俺の娘だった。
残された男は一匹、ひどく哭いていた。
世界の中心で愛を叫んだケモノ—— 乃井 星穏(のい しおん) @noision
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