第五章 六節 イザベル

「……んぐっ……! ……あ……が…………っ!」


 食器が次々に床に落ちて、皿の砕け散る音が屋敷中に響いた。

 エルドたちは苦しそうに胸元を押さえていた。そして手足の先から徐々に痺れが体中を巡り、全身の力が抜けていくのが嫌でもわかった。

 痺れが全身に回る手前で椅子に座っていることさえ困難になり、エルドたちは床に力無く倒れ込んだ。


「これは……毒か……⁉」


 エルドの口と思考がまだ正常に機能するところを見るに、C地区でグレイブと戦ったときに受けた毒ナイフより効き目は弱いらしい。

 だが、身動きが取れないということに変わりはない。それ以上に重要なのは、この毒入りシチューを誰が盛ったのかということだが……考えるまでもなく既に答えはわかっていた。


「くっ……あははははっ! こんなに簡単にいくとはねぇ! アンタたち、もう少し人を疑うってことを覚えたほうがいいんじゃない?」


 エルドたちを見下ろしながら高笑いをしているのは、誰であろうこの毒入りシチューを作った張本人だ。


「イ、イザベルさん……なんで……?」


 エリスはかろうじて動く顔を上げて、見下ろしているイザベルを見上げた。


「なんで……ですって? そんなの決まってるじゃない! アンタの代わりに王宮へ行くためよ! ……うふふ。今からアンタの顔や体をズタズタに引き裂いて、二度と人前に出られない様にしてあげるわ。そうすれば……アンタさえいなければ……!」


 イザベルはテーブルに置いてあった食事用のナイフを手に取り、倒れ込んでいるエリスへ歩み寄った。


「……な、なぜそんな事を……⁉ そんな事をしても、君が王宮へ招かれるわけじゃない……!」


 エルドは徐々に動かなくなる顔を必死にあげてイザベルへ抗議した。


「………………うるさい虫だこと」


 だが、イザベルはエルドを一瞥するだけで、すぐにまたエリスへ歩み寄った。

 その時のイザベルの瞳には光が無く、出会った時のような微笑みは消え失せ、本当に虫を見るように無感情な、そして無慈悲な闇を孕んでいた。

 彼女は正気ではない。いや、これが彼女、イザベルの本来の姿なのかもしれない。

 狂気に満ちた瞳にエリスは優しかったイザベルと重ねることができず、ただただ恐怖した。


「……うふふ。アンタを刻み殺したあとで、他の虫たちも駆除しておかないと。……そうしたら、身なりを整えて、ジークハルト様をお出迎えしなきゃ……ねぇえええ!」


 イザベルはナイフを両手で握り込み、エリスの真上で大きく振り上げた。


(もうダメ……! お姉ちゃん……!)


 今まさにナイフを振り下ろさんとするその瞬間、部屋の扉を蹴破って小さな影がイザベル目掛けて一直線に飛んできた。


「なっ! なんだお前はっ!」


 カキンッという金属音が部屋中に響き渡った。

 ナイフとダガーの鍔迫り合いの中、イザベルは目の前の小さな邪魔者に向かって怒鳴りつけた。

 その者の背中はこの場の誰よりも小さく、しかしエリスの目にはとても懐かしくて、未だ体は動かないというのになぜか自然と安心できた。

 その理由はとても単純なものだった。


「お……姉……ちゃん……っ!」


「あたしの妹に……手を出すなぁああああっ!」


 アリスはイザベルのナイフを弾き飛ばし、渾身の力を込めた蹴りをイザベルの腹部へ放った。

 イザベルは蹴られた衝撃で窓を突き破り、外へ放り出された。

 道行く数少ないF地区の人々が何事かと足を止めるが、誰一人としてイザベルに駆け寄ることも、騎士団へ通報することもできず、ただ遠巻きに見ているだけだった。

 壊れた窓から外に出てきたアリスは、そんな街の人々を見て『どこまで無関心なんだ』と内心悪態をついたが、騒ぎが大きくならないことに少しだけ安堵した。


「……がっ……ごほっ! ……ぐ……こ、こんな……ところで……っ!」


 イザベルは軋む体を無理矢理起こし、どうにか立ち上がった。


「……なんでそこまでして立ち上がるんだ? 王宮に拘らなくたって、ここで十分じゃないのか?」


「…………はっ、アンタらにはわかんないだろうね。……私はね、国王であるイヴァン様がこの圧政を敷く前、『庶民』だったのよ。それも、庶民の中でも最底辺だったわ。その日の食べ物の事だけを考えて生きていた。夢や希望なんて考える隙間が微塵も無いほどにね」


 それを聞いたアリスは、A地区での暮らしを思い出していた。


「……でもあの日、私の人生は変わった。イヴァン様が国王に即位されたあの日、イヴァン様が私にチャンスをくださった! この『胸囲の格差社会』のおかげで、私は最底辺の生活から抜け出してここまで来た! あと一歩……あと一歩で頂点に届く! 夢見ることさえも叶わなかった頂点に! その為なら、あの女を殺すことだって厭わないっ!」


 イザベルは袖の中に縫い付けていたダガーを取り出し、アリスへ切っ先を向けて襲い掛かった。


「……そっか。そんな事があったのか…………だけどッ!」


 アリスはダガーを左手に持ち替えて、勢いよくダガーを振り上げているイザベルを前に一歩も動かなかった。

 そんなアリスに向けて満身の力を込めてダガーを振り下ろそうとするイザベルに、アリスはあろうことか勢いよく前進した。

 懐に入られ過ぎたイザベルは、振り下ろす打点の位置を調節しようとするが上手くいかず、戸惑いが振り下ろす手を一瞬止めてしまった。

 その隙をアリスは見逃さなかった。


「……妹に手を出すやつは、あたしがぶっ飛ばすッ!」


 アリスは渾身の力を込めた拳をイザベルの顔面目掛けて叩き込んだ。

 イザベルは再び数メートル吹っ飛ばされ、今度こそ立ち上がることはなかった。

 そんなイザベルにアリスは歩み寄り、気を失いかけているイザベルを見下ろした。


「……だけど、妹の世話をしてくれたことには、感謝してる。…………ありがとう」


 アリスはイザベルに礼を言うと、イザベルの腕を肩に回して体を起こし、破壊された窓から光が漏れる家へと向かって歩き出した。


「……あんたの気持ち、少しだけならわかるよ。私も、似たような生活を最近まで……六年間してきたからさ」


「……っ! ……そっか、アンタA地区に……ははっ、通りで。……アンタからは、私と同じ匂いを感じたよ。……そうだったね……今もまだ……そんな人達が…………」


 そのままイザベルは気を失った。

 アリスもそれ以上は何も言わず、早く家の中へ運ぼうと足を進めた。


「これは一体何事だ?」


 そんなアリスの背後から威圧的な声が響いた。

 恐る恐る振り返ると、そこには騎士団長ジークハルトが多くの騎士団員を従えて立っていた。

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