第五章 四節 尾行

 カジノを出た仮面の男は路地裏を進んでいたのだが、ふと立ち止まって周囲に人目がないことを確認すると、さらに奥まった路地に入っていった。

 その様子を物陰から観察している小さな影があるとも知らずに。


(面白そうだったから尾行してみたけど、一体どこまで行く気なんだ……?)


 アリスは仮面の男から少し距離を取って観察していたが、表通りからどんどん遠ざかるにつれて危険な予感が強まっていった。

 だが、アリスはそんな事は気にせず尾行を続けた。


(おっと……! あれは……仮面の奴の仲間か?)


 仮面の男の前に立っている者が一人いた。

 薄暗い路地裏と、その者が目深に被っているつばの広い帽子のせいで顔までは見えないが、遠目のシルエットから女であることはアリスにもわかった。


(この路地、かなり細いからこれ以上近づくと気づかれちゃうな……。なにを話してるんだ……?)


 アリスは目を瞑り、耳をすませることに集中した。幸い、人気のない場所のおかげで雑音が無い分、微かにだが二人の会話を聴くことができた。


「これが例の薬です。取り扱いには十分ご注意を」


「まあ、こんなに早くなんて……助かります。これでようやく夫も大人しくなりますわ。……それでは約束通り、明日の晩は貴方の屋敷にお邪魔いたしますわ」


 仮面の男から小瓶を受け取った女は、去り際に仮面の男に顔を近づけた。

 女の惑わすようなささやきと、ほのかに香る甘い香水に仮面の男は無意識に頬が緩んでいた。

 妖艶な笑みを浮かべて去っていった女を呆然と見送っていた仮面の男は、ようやく正気を取り戻したようで来た道を引き返しはじめた。

 そして仮面の男は歩きながら身につけていた仮面を取り、何事もなかったかのように人の行き交う表通りに出ていった。


「……なんだ、ただの不倫現場だったかぁ……。つまんないの」


 アリスは物陰から顔を出し、目の前で起こったことをそう結論付けると、とても退屈そうにため息を漏らした。


「何がつまらないのかしら?」


「うひゃあっ!」


 アリスが気を抜いた直後に背後から声がしたので、意図しない悲鳴が漏れた挙句、尻餅をついてしまった。


「だ、誰っ⁉ ……って、なんだベリルかぁ……。驚かせるなよ……」


「驚いたのは私の方よ……。そんなに驚くことないじゃない」


 普段のアリスならここまで驚くことはないが、尾行が終わった直後ということで普段以上に油断してしまっていたのだろう。だが、ベリルにさっきまで不倫現場を覗いていたからなどと正直に答えようものなら「悪趣味ね」と罵られることはわかりきっていたので、アリスはそれ以上何も言い返さなかった。


「……それで、ベリルはこんなところで何してるんだ?」


「それは私の台詞よ。貴女、こんなところで何をしているの? ……はぁ。騎士団長に詰め寄られていた彼女と接触したわ。あの娘は間違いなく貴女の妹のエリスよ。アリス、貴女まさか、このままエリスに会わないつもりじゃないでしょうね?」


 ベリルにそう問われたアリスは、何も返答することなく、ただ黙って俯いていた。

 そんなアリスを見たベリルは、もう一度大きなため息をついた。


「アリス……貴女ここまで来て何を迷う事があるというの? 『妹に会いたい。もう一度一緒に暮らしたい』と、そう言っていたのは貴女でしょう?」


「わかってるよそんなのっ! でも……自分でもどうしたらいいのかわからないんだよ……。だって、F地区だぞ……? この国の最高地区で、王様だって住んでる……それを、あたしのワガママでふいにするなんてこと……させられるわけないだろ……」


 アリスは歯をくいしばり、目に溜まった涙が零れ落ちないように強く握った拳が小刻みに震えた。


「その王様が、この格差社会を生んだのを忘れたの? それにね、貴女の我が儘なんて今に始まったことではないでしょう。……エリスの幸せを望むのは良い事だけれど、その前に貴女の気持ちを本人に伝えても良いのではないかしら」


 ベリルは咎めるようにではなく、諭すように優しくアリスに語りかけた。だが、それでもアリスは顔を伏せたまま決心することが出来ずにいた。

 これ以上何を言っても、あとはアリスが決めることだと言わんばかりに、ベリルは立ち去ろうとアリスに背を向けた。


「……それじゃ、私はエリスの家に戻るわ。騎士団がもう一度エリスを訪ねて来るまで余り時間はないから、それまでに決めることね。……ああそれと、貴女のナイト様から伝言を預かっていたのよ。『俺は、何があろうと君の剣になる』……だそうよ。確かに伝えたわ」


「エルド…………」


 ベリルが去った後、立ち尽くしていたアリスの頭にはベリル言葉とエルドの伝言がこだましていた。

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