第二章 二節 ブラジャー

 アリスの時と同様に、ベリルも驚きのあまり意図せずに素っ頓狂な声が出てしまった。それが恥ずかしかったようで、顔を少し赤らめながらコホンと咳払いをして話を続けた。


「えっと、ごめんなさいね。私の聞き間違えかしら? 胸の大きさを変えられるですって……? ほ、本当にそんなことができるの? 見たところ貴方は普通の人とあまり変わらないようだけど……いえ、言葉での説明は不要だわ。試しに私の胸を大きくしてみせてくれないかしら?」


 ベリルはカウンターから出て来てエルドに迫った。ベリルの服装は上から見下ろすと胸元がチラつくデザインをしていたので、エルドは目のやり場に困り視線を逸らした。それを見たアリスは二人の間に割って入った。


「ちょ、ちょっと待てって! こんな所で出来るようなもんじゃないんだよ! それに、胸を大きくしてもブラジャーがないと三十分で元に戻っちゃうから、やったってあんまり意味ないぞ!」


「ブラジャー? ……うふふ。アリス、ここをどこだと思っているのかしら? ここは仕立屋よ?」


 アリスは必死にベリルを説得しようと試みるが、やはり無理なようだ。

 ベリルは奥の布が掛かった棚まで行き、布を剥がした。そこには色とりどりのブラジャーが並んでいた。


「どうかしら? どれも私がデザインしたものよ。頼まれればオーダーメイドも作っているの。さ、これでいいでしょ? 早く私の胸を大きくしてみせて頂戴」


 ベリルは再びエルドに迫るが、アリスも意地になって退かなかった。


「いや、そもそもB地区の人間にブラなんていらないだろ! 胸だってあたしと同じくらいしかないんだから!」


 アリスの言葉にベリルは聞き捨てならないとばかりに食いついた。


「はぁ……。アリス、そんな事だから貴女はいつまで経ってもその絶壁に丘ができないのよ。いいこと? そもそもブラは、『大きい胸を支えるだけ』ではないの。重力という名の外敵から胸を守り、蓄えられる脂肪を取り逃さない為の絶対防壁。護り、抗い、豊かにする。そう、言うならば胸とは『国』なのよ。御覧なさい、貴方のそのむねの無防備さを。可哀想に、脂肪という民たちが絶壁から転がり落ちて、下半身ばかりこんなムチムチに……」


「み、見るなよっ!」


 ベリルの哀れむような視線がアリスの下半身を見つめると、アリスは隠しきれないとわかっていながらも、少し前かがみになり、両手で太ももとお尻を隠そうとした。

 ベリルの視線につられてエルドもアリスの下半身を見つめた。少し視線を上げると、顔を赤くして涙目で睨むアリスと目が合い、咄嗟にエルドは顔を逸らした。


「良い機会だわ。アリス、貴方のブラを作ってあげましょう。幼馴染のよしみで初回はサービスってことにしてあげるわ。さ、今から試着室で正確なサイズを測るわよ」


「ちょ、誰も頼んでないって! ひ、引っ張るなよっ! い、いやぁあぁああぁあぁ!」


 アリスの抵抗も虚しく、そのままベリルと共に試着室へ消えていった。

 ひとり取り残されたエルドは手持ち無沙汰になってしまい、途方に暮れていた。

 すると入り口のドアが開き、誰かが入って来た。およそこの店に似つかわしくない武装した男がひとり……騎士だ。それも、鎧の装飾から察するに、『聖騎士』と呼ばれる人間であることは間違いない。

 だが、その聖騎士は少しやつれているように見えた。エルドは衣服で口元を隠し、一歩引いて聖騎士を静かに警戒した。

 しかし、エルドの警戒は杞憂だった。様子からしてエルドたちを探しているのではないと確信できるが、目的がわからない以上注意するに越した事はない。

 エルドは横目で様子を伺っていると、聖騎士はカウンターにベリルの姿がないのに気づき、店内を見回していた。


(ん? あの聖騎士、どこかで……)


「……そこの君。すまないが、ここの店長がどこにいるか知らないか?」


 聖騎士はエルドに気づくと歩み寄りながら話しかけてきた。

 エルドは口を覆う布越しにもわかるほどの聖騎士から漂う酒の匂いに思考が邪魔されて考えを巡らせられる状態ではなかった。だが、怪しまれぬ様に極力目線を合わせないようにしながらも普通に受け答えをするように努めた。


「は、はい。店長なら俺の連れのサイズを測定するために、今は試着室に入ってます」


「そうか。参ったな……追加の注文を依頼したかったのだが……。仕方ない、日を改めるか。邪魔をしたな……ん? 君、どこかで…………」


 聖騎士はエルドに対して何かを思ったらしく、エルドの口元を覆っている布へ手を伸ばした。その瞬間、試着室のドアが勢いよく開かれ、ベリルが先程までの表情よりも、心なしか満足げな表情をして出てきた。


「あら? ガレン様じゃない。いらっしゃいませ。依頼された物ならもう出来上がっていますよ」


 ガレンという名を聞いた途端、エルドは聖騎士の横顔を凝視した。


「ああ、その事なんだが、追加の発注を頼みに来たんだ。品物の受け取りは追加分が出来上がってからでも構わないかい?」


 ガレンと呼ばれた聖騎士は申し訳なさそうに言うと、発注書をベリルに手渡した。

 追加の発注は珍しいことではないようで、ベリルの方は特に気にした様子もなく、受け取った発注書に目を通しながらガレンと会話を続けた。


「ええ、それは構いませんが……この量ですと、数日は掛かるかと思います。品物が出来上がり次第、ガレン様が泊まられている宿に使いを出しますので、それまでお待ち頂けますか?」


「いや、それには及ばない。まだ寄りたいところがいくつかあるのでな。俺の用が済んだら、その時にまたこちらから出向くさ」


「わかりました。……ガレン様。余計なお世話かと思いますが、お酒は少し控えた方がよろしいですよ?」


 ベリルの戒めるような言葉にガレンは苦笑いを浮かべ、ほのかに香るアルコール臭を残して店を出ていった。

 エルドは口元を覆っていた衣服を下げ、ガレンが出ていった扉を見つめていた。そしてベリルのため息に気づき、視線をベリルに移した。


「はぁ……。また追加なんて、随分気に入られたものね。ま、商売繁盛は悪いことではないのだけれど……ん? この発注書が気になるの? これはね、C地区で売られるブラの発注リストよ。C地区にも仕立屋はあるらしいのだけれど、何せC地区はこの国で一番人口が多いから。たぶん供給が足りてなくて、私のような地区外の仕立屋に頼むしかなくなっているのだと思うわ。まあ、私の作る物のクオリティが高いというのが一番の理由でしょうけどね」


 ベリルは自慢気に胸を張った。その姿がアリスに少し似ていて、エルドは微笑ましい気持ちになった。と、そこでエルドはようやくアリスの存在を思い出した。


「そうだ、アリスはどうしたんだ? 試着室から一向に出てこないけど」


「ああ、アリスなら中でのびてるわよ。あんまり暴れるから測りづらくて、ちょっと大人しくしてもらったわ」


 そう言ってベリルは試着室を指差した。


「貴方たち、行くところがないのならここの二階の部屋を好きに使って頂戴。私は今から追加分の制作に取り掛からなくてはいけないから、アリスのことはよろしくね。まだしばらくは目が覚めないでしょうから、二階の部屋まで運んでおいてもらえる? そうしたら貴方は気晴らしに街にでも出向いて楽しんでくるといいわ」


 ベリルはそう言い残して奥の部屋へ消えていった。エルドはベリルの好意に甘えることにした。これで宿を探す手間は省けて少し気が楽になった。

 試着室の中で目を回してたままのアリスは一向に起きる気配がなかったので、ベリルに言われたとおりエルドはアリスをおぶって二階に運んだ。

 いくつか部屋があったので、手近な扉を開けて整えられているベッドにアリスを寝かせた。

 それからエルドはベリルからローブを借りて仕立屋を出た。ローブに付いているフードを目深に被り、エルドは人混みと夕日に染まる街中に消えていった。

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