第一章 二節 貧乳街(スラム)
貧乳街の光景は、控えめに言っても酷いものだった。工場から出る黒い煙が空気を汚染し、壁や家々を黒く染め、道端にはあちこちにゴミが散乱していた。
エルドはしばらく歩いていて違和感を覚えた。それは、人と全くすれ違わないことだ。
アリスもここは物騒だと言っていたし、皆自分の家に引きこもっているのだろうか。
そうして当てもなく歩いていると、近くの裏路地から何やら物音がした。
(……アリス?)
嫌な予感を胸に押し込め、エルドは先の見えない薄暗い裏路地に入っていった。
少し歩くと暗闇に目が慣れてきて、前方に二人分の人影が見えてきた。何か様子がおかしいと思ったエルドは自然と早足になっていた。そして、二人組の側に近寄ってようやく三人目の存在を目視できた。
二人組の足元に横たわって苦しんでいる少女をエルドは知っていた。見間違えるはずがない。その少女は先ほど助けてもらったアリスだ。
アリスは、見るからにガラの悪そうな二人組の男に足蹴にされていた。そうなった経緯はわからないが、傷ついたアリスを見たエルドは、怒りに任せて斬りかかりたい気持ちを必死に抑えながら、二人組の男に声をかけた。
「お前たち……一体何をしているんだ……?」
問いかけられた二人組は顔を見合わせて、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「テメェに関係あんのかよ色男? コイツは俺らの獲物だぜ?」
「そうだそうだ。なんか知らんがこのガキ、今日はやけに羽振りが良いみたいだからな。ちょっと酒代を恵んでもらおうと思ったら、つまらねぇ抵抗しやがるからよ。……なあ?」
「まったくだ。だからこうしてお願いするしかなくなっちまってな。わかったらさっさとお家帰んな兄ちゃん」
「……なるほど。事情は理解した。だが生憎とその子は俺の恩人なんだ。返してもらう」
状況を把握したエルドは、今度こそ躊躇なく剣を引き抜いた。それを見た二人組は腰にぶら下げていた薪割り用の斧を持って構えた。
「何粋がってんだコイツ……ほぉ。中々良い獲物持ってんじゃねえか。決めたぜ。このガキから金巻き上げるついでに、テメェをぶっ殺してその剣もいただく。そんでその後は、酒をかっくらいながらこのガキで楽しむとするかな! ゲッヒッヒッヒ! ……ヒ?」
一瞬にしてエルドは、下品な笑いをしていた男の懐に入って剣を振り終えていた。
エルドの剣に一滴の血も付着していない事からも、相当の速さで斬ったことが伺える。時間差で男の斧を持っていた方の腕が落ち、大量の血が黒く汚れた地面に止め処なく溢れ出た。
「ぐあぁぁあああぁぁあぁ!」
大量の出血でようやく腕を落とされたことに気づいた男は、絶叫しながら腕を抑え、あまりの苦痛に地べたをのたうちまわった。
「もういい……喋るな……。今すぐに消えろ。でなければ……ここで殺す」
殺意が込められた視線を向けられ、腕を斬られた男は苦痛と恐怖からすぐさま逃げ出した。もうひとりの男も斧を手放して一目散に逃げていった。
エルドは深く息を吐いて落ち着きを取り戻し、横たわるアリスに駆け寄った。
「アリス! 大丈夫か⁉」
「くっ……ああ、平気だよ、こんなの……」
「よかった……! それじゃあ、もう少しだけ我慢して」
エルドは強がるアリスを背負い、手当をするためにアリスの家に向かって歩き出した。
「……痛っ! ちょ、ちょっと! もっと優しくできないの⁉」
「ご、ごめん……ははっ。何だかさっきと立場が逆だね」
エルドは、余っていた薬と包帯でアリスを手当していた。「自分でできる!」と言うアリスの言葉を無視して治療し始めたのだが、アリスも治療が始まると痛みと羞恥心に耐えるのに忙しいらしく、それ以上文句は言わなかった。
「これでよし。もう大丈夫だよ、アリス」
「ふん……ありがとな。…………」
治療を終えたアリスは何か思いつめている様子だった。エルドも特に声をかけることはせず、黙って片付けをしていた。そして、やはりと言うべきか、沈黙を先に破ったのはアリスのほうだった。
「なあ、エルド。お前は今のこの国をどう思う? 胸の大きさだけで価値が決められちゃうような、この『胸囲の格差社会』をさ」
「……正直、この国の現状についてはあまりわかってないんだ。胸の大きさの優劣に関して言えば、一個人としての主義主張は自由だと思う。……だけど、王としての統治となれば話は違う。こんなのは、一国の王がすることじゃない。『人の真価は心の在り方』だと俺は思う。だから、今のこの国を俺は絶対に認めない」
先ほどのエルドとは明らかに目に宿る意思の強さが違った。恨みや憎しみとは別の、抗う者の力強さのようなものがその目には宿っていた。
「心の在り方……か。……なあ、エルドはこれからどうするんだ? どこか行く当てはあるのか?」
「ん? いや、当てはないかな。特に目的もあるわけじゃないし。このままだと放浪生活しかないだろうね」
「そ、そっか……」
もじもじするアリスを、エルドはただ不思議そうに見つめるしかなかった。
少しの間を置いてようやく意を決したアリスは、エルドの目を真っ直ぐ見ながら口を開いた。
「じゃ、じゃあさ! あたしの用心棒にならないか⁉ 剣の腕は中々みたいだし、行く当てがないなら、か、構わないだろ⁈」
興奮して取り乱しているアリスの様子に、エルドは少し驚いて目を丸くしたが、すぐに表情は笑みに変わった。
「うん。俺なんかで良ければ、喜んで」
その言葉を聞いたアリスは今日一番の満面の笑みを浮かべた。
「それで、用心棒といっても具体的には何をすればいい? またあの連中みたいなのからアリスを守ればいいのか?」
「んーそれはそうなんだけど……。あたし、妹を探してるんだ」
「妹……?」
「うん。名前はエリス。あたしよりも小さくて、泣き虫で、いつもあたしの後ろに隠れているような、臆病な子」
アリスは話しながら床下にある隠し扉を開けて、その中から小瓶をひとつ手に取った。
「あたしは六年前までC地区にいたんだ。そこには十歳未満の子どもが収容されている施設があってさ。妹ともそこで暮らしてたんだけど、あたしが十歳のとき……要は『選別対象者』の年齢になっちゃってさ。選別の結果は見ての通りこのA地区。二歳年下の妹とはそこで引き裂かれたんだ。だから、絶対に探し出して、また一緒に暮らすんだ……!」
「なるほどね。……でも待ってくれ。ということはアリスの妹……エリスは、四年前には選別対象者になった筈だよね? A地区には来てないの?」
「そうなんだ……。年に一度の『選別再検査』でも、連れて来られる人を見逃さないように細心の注意を払ってるし、地区内も毎日探し回ってるんだけど、やっぱりいなかった……」
沈んだ表情になったアリスは、握っていた小瓶の中から錠剤のようなものをいくつか手に取り、口へ運んだ。
「……さっきから気になってたんだけど、それは?」
「っんぐ? ……ああ、これね。これは『豊胸剤』」
「ほ、豊胸剤……?」
「そ。区間に設置されてるゲートは知ってる? そこを見張ってる門番に、高いお金払って買ったんだ。……丁度いいかな。ちょっと見に行こっか」
アリスはそう言って立ち上がり、扉を開けた。
それに続いてエルドも立ち上がり、アリスと一緒に家を出た。
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