狼と龍・下

萩風はぎかぜ。そこに居るんでしょ?」

「おう、潜入してたよ。久しぶり、月狐げっこ


 篠生しのう 萌華ほうか人気ひとけの無い部屋が居並ぶ廊下を歩く。

 時刻は少しだけ時間をさかのぼり、昼前。休憩という名目で八人と一体の下から離れ、自身の部屋がある女子寮の廊下を歩いているのであった。事前の調査及び根回しによって各所に設置したセンサーに反応が無いことから、同じ廊下の部屋には誰も人が居ないことは確認済みである。


 しばらくコツコツと彼女の足音が鳴っていたが、彼女が立ち止まるのと同時にどこからか若い男の声が聞こえてきた。


「……ヒトは居ないのは既に伝えているんだから、仕事名で呼ぶのはやめてほしいのだけど。私がその大層な名前苦手なこと知ってるでしょ。……というよりも今は学生生活をエンジョイしてるわけだし、仕事のことは極力忘れたいの。頼むからほんとにやめて頂戴」


 扉の横。という微妙に不自然な位置にある、木製の台と枠にガラスがとりつけられたような見た目の、中に何も入っていないショーケースから男の声は聞こえる。

 不意に、ぐにゃりと木とガラスで出来たショーケースの形が歪み、原型をとどめない人型のようで獣のようにも見える、複雑怪奇な形に変化した。透明部分と木の色が複雑に絡み合った異様なマネキンのように見えていたそれは、徐々に元の色を取り戻していく。


「あぁうん。……うん? いやいや、仕事はちゃんとしてるなら普通に名前で呼ぶけどさぁ? ……良いのかなこれ」


 自身が期待……というよりも、思ってもみなかった返答をされた萩風――又の名を“白尾練狐はくびれんこ”――という青年は、微妙な受け答えしか出来なかった。


 萩風は呆れたように一度かぶりを振り、九つの尻尾の間から黒いつばのついた水兵帽を取り出すと、うまく耳を帽子の中に入れながら頭に被る。彼なりのオシャレらしく、つばの上には狐を模したようなデザインの金で出来た彫刻がとりつけられており、白と水色を基調としたブレザーに似た服と妙にマッチしていた。


 萩風の九尾が揺れるのを見つつ、萌華はスカートのベルトを片手で器用に外しながら、


「報告書はちゃんと纏めてあるわよ。そもそも長期休暇な扱いなはずなのに、こうして作業してるんだから感謝してほしいくらいよ。ねぇ、裏羽」


 空いたもう片方の手で手提げ鞄から通信機を取り出すと、どこか嫌みったらしく呟いた。青い縁のメガネの奥では切れ長の瞳が冷ややかに細められている。


『わかったわかった。だから有給休暇扱いにしてやっているだろう、金ならあるはずだぞ』


 その表情を見たかのように、通信機から酷く疲れた声音の、若い男の声が聞こえて来る。萌華の目の前に居る萩風とは異なる声質の主は、非難の声にたいして非常に嫌そうに返答した。


「そのお金を使う時間が無いのよ。あなたが求めてくる報告書のクオリティのおかげで、休日がすべて潰れることなんてままあるのに」


 少々怒ったように萌華は語る。腰に巻かれていたベルトが外されると急にベルトが蛇の如く動きだし、腰の方へと全体を現したのちに急激に体積を増やした。

 「木行解除」という萌華の掛け声と共に、ベルトは黄金色の毛に覆われた二本の尻尾という本来の姿を取り戻す。普通の狐であれば白くなっているはずの、尻尾の先と耳の先はあおく、髪の毛も含めて女性らしい細やかで美しい毛並を見せた。


 七尾に二尾を足せば九尾となる。

 そう、萌華という女性は七尾の人狐族などではなく、人狐族でも最強と呼び声の高い九尾の存在であった。


 人狐という種族は一般に、尾の数が増えるほど強力な“五行”の力を行使出来ると言われている。九尾とは戸籍としてヒトの個人情報が管理された現代でも、両手で数えるほどの人数しか確認できない生物。ある者を除けば最高位、または最強の人狐である。


『仕方がないだろう。“十尾天狐”様には全て報告せよと仰せつかっているんだ。萌華以外に手の空いてる者が居ないし……勘弁してくれ、俺もしばらく休日のキの字すら味わってないんだ……』


 ひどくやつれた返答が通信機から聞こえてくる。会話からして萌華と萩風の上司か何かであろう通信機の先の男は、コーヒーかはたまたお茶か、熱い飲み物を啜る音を二人に聞かせた。おそらくは緑茶を飲んでいるのだろうと考えながら萩風が口を開く。


「憐れなり裏羽」『萩風、お前の最近の勤務態度は部下から聞いているからな。挽回出来るようにしっかり仕事を入れておくぞ』「うわさいてー……っていうか誰だよリークしたの。今度とっちめてやる」『無駄な体罰や尋問を行えば減給だからな』「っち……」


 通信機越しに仕様もない会話を繰り広げる萩風と裏羽。いや、萩風の方には自業自得な面があるようだが。自身の失態を部下にチクられ、これから仕事が山のように来るであろうと考えた萩風は、舌打ちをしながら通信機から顔を逸らした。


「それで? 萩風に渡せば良いの?」

『あぁ、そういうことだ。しかし、何故ここまで仔細に報告書を求めなさるのか……』

「なに? 裏羽でも知らないの? 隊長なのに」


 萌華が手提げ鞄からUSBメモリーを取り出して萩風に渡している間、裏羽は一言も喋らなかった。その後、通信機から一度溜息が聞こえた。


『すまない。窺っても曖昧な返答をなさるだけなんだ……多分、ねずみのことだと思うんだが……それにしても細かすぎる気がする』

「なんだろうねぇ」


 深刻な悩みのように呟いている裏羽の言葉に、何も考えていないかのごとくテキトーに萩風が返答をする。萌華はそんな萩風について肩を竦めていると、当の本人は報告書に軽く目を通しながら、書かれていないような事柄を呟いた。


「そういやなんか妖精が変に嗅ぎまわってるみたいだけど……あれなんなの?」

「萩風もわからないの? あなた前任監視者でしょ。私はそんなの知らないわよ」

「そうは言ってもただ見つけて報告して終わりだったからなぁ……」


 妖精族だっていうあの子絡みなのかなぁ……と、後頭部をガシガシ手櫛でかきながら呻く萩風。


「どうにも煩わしいんだよなぁ……一般ジンの素人如きがスパイの真似事してる感じっぽいから、下手に尋問も出来ないし……」

『妖精は弱種族認定のお陰で、危害を加えたのが公に出れば普通よりも面倒毎が起きやすいからな』


 などと、どちらの男も物騒なことを呟きながらため息をついた。通信機の先の男も落ち着いたような雰囲気がありつつ、脳筋じみたところがあるらしい。単に疲れて思考が雑になっているのかもしれないが。


「そういえば妖精達が本拠地にしてる【最果ての楽園】って言ったら鼠の統治区域じゃない。もしかしてあいつが指示してるんじゃないの?」

『憶測で話すのはよくないが……可能性としては無くはないな。まぁその筋でも調べてみる』

「お願いするわね。私の部下は勝手にこき使って良いわよ」


 言われずとも勝手にこき使うと、のたまう裏羽。猫の手も借りたい状況であると、常日頃から言っていることからしても容易に想像出来ていた台詞であったため、廊下の二人は同じように軽く呆れただけで文句を言うようなことは無い。現状では二人からすると、一人でも多く巻き添えにして忙しさを分散できればどうでもいいからである。


「でも角王様も近くに来てるのがなぁ……“あの方”が刺激されて降りてこなければいいけど」

『見つかれば厄介なことになる。とは言っても角王様に見張りをつけてもすぐに看破されてより警戒されるだけとすると……エキドナの周囲の町に見張りを置いておくから、角王を確認したらしばらく萌華は接触しないように注意してくれ』

「了解。ちゃんと教えて頂戴よ」


 通信機から聞こえてくる指令に、こくりと素直に頷く萌華。しかし続いて萩風に対し、あっち行けとでも言うように片手を振った。


「私、着替える為に帰って来たんだからもういいでしょ。部屋の前に居ないでよ。裏羽、切るわよ」『あぁ』

「え、中に入っていいの?」

「そんなに死に急ぎたい?」「滅相もございません」


 青と黄金色の尻尾を器用にドアの大きさより細く纏めて部屋の中へと入り、萩風を邪険にするかの如くそこそこ勢いよく扉を閉めた。扉の前にぽつねんと残った萩風はしばらくぼうと立っていたが、しばらくしてショルダーバッグから自身の通信機を取り出してどこかに接続した。


『なんだ……』「あ、裏羽―? お前、萌華のこと好きじゃん。部屋の写真とか撮って送ってやろうか?」『やかましい』


 裏羽は不愉快に思ったのかブツリと通信機を一方的に切り、その反応にケタケタと独りで萩風が笑う。

 その後、この萩風の行動を予知していたように扉のすぐ近くに立って待機していた萌華に、ドアを開け放たれつつの流れるような動きで鳩尾に思い切り蹴りを入れられた萩風であった。


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