『愚者』~正位置~


―――


 京都に行って蒼井さんに別れを告げた後、駅のホームのベンチに二人並んで座って色んな話をした。

 今までこんなにたくさん話をした事なんてないっていうくらい、話をした。


 一緒にいた時は、ただただ罪悪感を感じていたから、真っ直ぐ目を見て話す事なんて出来なかった。

 そんな辛かった日々の事など嘘のように、私はただ真っ直ぐ彼の目を見つめた。


 ……もう二度と、会わないって決めたから。

 せめて記憶の中に閉じ込めておきたかったから……



「俺が何故病院を辞めたのか、あいつ……平田に聞いたか。」

「……いいえ。」

 唐突な蒼井さんの言葉に、首を横に振った。


「……君と同じだ。」

「同じ?」

「嫌がらせにあったんだ。」

「…え?」

 蒼井さんはおもむろに私の手を掴むと、もう一方の手で包み込んだ。


「これは、君を傷付ける為に話すんじゃない。聞いてくれるか?」

 真剣な瞳が私を見つめる。私は一度大きく深呼吸すると、蒼井さんを見つめた。

「はい。」

 力強く頷いた私を見た蒼井さんは、一度息をつくと話し始めた。


「蘭ちゃんを医療ミスで死なせてしまったのは、大川先生だ。」

「えぇ。」

「君と君のお母さんが訴訟を起こさなかった事を利用して、先生はその事を隠蔽しようとした。」

 初めて聞く事実に、驚いて蒼井さんを見た。


「俺は……蘭ちゃんの死は自分に責任があるんだと思っていた。いや、思い込もうとしてたんだ。」

「………」

「もし君たち家族が訴訟を起こしたら、俺は自分で名乗り出て、病院を辞めようと思った。」

「えっ!」

 思わず手に力が入って、蒼井さんから苦笑された。


「俺がそう望んだんだ。だけど訴訟は起きなかった。それをいい事に大川先生は、医療ミス自体なかった事にしようとした。」

「そんな……」

「俺はそれが許せなかった。だから告発しようとしたんだ。」

「告発……」

 もはやどちらの手なのかわからなくなる程、私達はお互いの手をぎゅっと握った。


「そしたら案の定、大川先生から睨まれた。……嫌がらせにあったんだ。」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

 蒼井さんの顔が見れなくなって、ついには顔を逸らしてしまった。


「悪い、百合を傷付けるつもりはなかったんだ。ただ…俺がどんな風に生きてきたのか知りたいって言ってくれた君に、知っておいて欲しいんだ。」

 つい数ヶ月前の事が、昨日の事のように蘇る。

 再会を果たしたあの夜、私は確かにそう言った。

 あの時は勢いで言った言葉だったけど、今は本気で彼の全てを知りたいと願ってる。


 ……もう何もかも遅いけれど、それが私の本当の気持ち。


「嫌がらせの内容はここで言うような事ではないけど……、正直辛かった。」

「……私にも、わかります。」

 研究センターで味わった、苦痛と屈辱の日々。

 つい思い出して、潤む目をギュッと瞑った。


「結局、蘭ちゃんの医療ミスの責任をとらされた形になって辞めた。まぁ俺にとっては本望だったから、それで良かったんだがな。」

 自嘲気味に笑う蒼井さんを睨む。そして声を荒げて言った。

「……貴方は何でそんなに自分を犠牲にするの?そんなの優しさじゃないよ!蘭の事だって、ちゃんと本当の事を話してくれればっ……!」



『私だって、復讐なんてしなかったのに!』


 こう続けそうになったけど、慌てて飲み込んだ。

 言うべきじゃないし、そもそも私に言う資格はない。


「……ごめん、百合。」

 それでも彼はこんな私の事、想ってくれるんだ。

 私が何を言おうとしてたのか全部わかってて、それでも全力で庇ってくれるんだ。



「……来た。」

 不意に電車の音が聞こえてきて、蒼井さんがそう小さく呟く。

 私も音のする方へと顔を向けた。


 その瞬間今まで強く絡まりあっていた手が、嘘のようにほどけていく。

 ぼやけそうな視界にも負けずに目頭に力を入れると、私は勢いよく立ち上がった。


「百合……」

「ありがとう。ごめんね。私なんかと関わると、蒼井さんの人生ろくな事なかったね。もう大丈夫だから。」

「………」

「貴方の人生を、生きて下さいね。」

「待て!」

 思いもよらず大声で呼び止められて、体をびくつかせながら立ち止まった。


「……何故、蘭ちゃんの件で訴訟を起こさなかった?」

 予想外の言葉に一瞬目を丸くした後、私は大きく息を吸って言った。


「貴方を愛してたから。」


 呆気に取られた顔の蒼井さんを尻目に、電車に乗る。

 目を合わせる暇もなく閉まったドアを見つめていたら、彼が駆け寄ってくるのが見えた。


「蒼井さっ……!」

「百合!」


「私は…守ろうとしたのかな?貴方を。」

「………」

「あの頃の私の方が、本当の愛の意味を知っていたのかも知れませんね。」

「もう一度チャンスをくれ!俺らきっとやり直せる。だからっ……!」

 必死な顔でそう叫ぶ蒼井さんに、黙って首を振った。


「何故だ!」

「私は貴方を幸せにしたい。だから離れるんです。」

「俺の幸せは、百合と一緒にいる事だ。」

 発車のベルが鳴り電車が段々と動き始めたのにも構わず、蒼井さんはドアにしがみついた。


「本当の幸せはどこかにあります。だけどそれはここじゃない。」

「百合……」


「私じゃないんですよ。」


 もうすぐ電車がホームから出る。

 私はドアにさらに近づくと、こう囁いた。


「蒼井さん、愛してます。ずっと……」

 あっという間に見えなくなった愛しい影。

 私はドアにもたれかかりながら、静かに泣いた。



 最後の愛の告白。聞こえたかはわからなかったけど、私にとっては言えただけで良かった。


「これで何もかも終わり……。さよなら、蒼井先生…蒼井さん……」


 私の初恋は、8年という長い年月をかけてようやく終わりを迎えた。


 もう何も求めないし、何も欲しくない。

 だってそうなるようにしたのは、自分自身なのだから。


 私が過去の話をした時何も言わず受け止めてくれたのは、自分も同じ経験をしたからなのだと今更ながらそう思う。


 人から憎悪の目で見られる事がどんなに辛いか、どんなに悔しいか、わかっていたはずなのに……


 私は自分を止められなかった。



 しばらくそうしていた後、ドアから体を離しながら、窓越しに青い空を見上げた。


 もしもこの空が、願い事を叶えてくれるのなら。

 私、藍沢百合はこう願います。



 どうか、彼と再会する前に戻して下さい、と……



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