Ⅲ
―――
「私、半年前まで民間の化学総合研究センターっていう所にいたんです。」
情事の後、ベッドに裸のまま横たわりながらそう口を開いた。
蒼井さんも隣で同じようにして、私の話を黙って聞いている。
「まだ入って1年半の私に、チームのリーダーという話が降ってきました。私は喜んで引き受けたのですが……」
途中で話を途切れさせた私を、彼がちらっと見たのがわかった。
「同じチームで私なんかより長くいるベテランの方がいて、その方は自分じゃなくて私がリーダーに選ばれた事に不満を持っていました。」
「どこにでもいる。そういう輩は。」
「不満を持ってたのはその方だけで、他の方たちは良くしてくださいました。経験の浅い私をフォローしてくれたりして。リーダーって呼ばれるのも嬉しかったし、誇らしかった。」
「そうか。周りの人間に支えられてたんだな。」
「えぇ。」
少し肌寒くなってきた私は、布団をそっと首元にずらした。
「リーダーになって1ヶ月くらい経った頃でした。その、私に不満を持ってた方は元木さんっていうんですが、ある日その人が松葉杖で出社してきたんです。」
私はその時の事を思い出して、顔を歪めた。
「大丈夫かという皆の声に大丈夫だと答えた後、こう言ったんです。私に階段から突き落とされたのだと。」
「……え?」
「もちろん私はやっていません。でも元木さんの連れの方が何人かいて、その人たち全員が私が突き落とすとこを見たというんです。その人たちはセンター内の、元木さんの息のかかった人達でした。」
「…………」
蒼井さんが無言のまま、だけど優しい顔でこちらを見てくる。それは8年前と変わらぬ姿で、どんなに口調や雰囲気が違っても彼があの頃の彼なんだと思わせるものだった。
私は一度深呼吸をした。
「その日から嫌がらせが始まりました。丸10日かけて作った研究データを消されたり、私宛の郵便やFAXはびりびりに破かれました。靴の中に画ビョウを入れるっていう小学生みたいなやつもあったなぁ……」
「百合……」
「あの時はホント、辛かったんですよ?味方は同じチームの人たちと、所長だけ。それ以外の人たちは元木さんの方を信じてました。副所長や幹部の方たちも、私の言う事など信じてくれませんでした。最初は頑張ってたんですが、段々疲れてきて…。結局辞めました。」
「……辛かったんだな。」
「はい…」
不意に頭を撫でられて、まるで涙腺が壊れたかのように涙が止めどなく流れる。
「響子さん…あ、響子さんっていうのは同じチームで、唯一の友人なんですけど。その彼女がこの間言ってきたんです。その元木さんは私に対する嫌がらせが全てバレてクビになったって。だから戻ってこないかって。」
「戻るのか?」
蒼井さんの問いに、静かに首を振る。
「化学者になりたくて入ったけど、多分あそこに戻ったら嫌な事全部思い出して仕事どころじゃなくなってしまいそうだから。小さな事でも辛いと思った瞬間、逃げ出してしまいそうで怖い……」
「だから、あの居酒屋に?」
蒼井さんの言葉に私はビックリして顔を上げた。
「正社員の事…もしかして知ってたんですか?」
「竹中に聞いた。」
「そうですか。私は……臆病者なんです。こんな事で自分の夢、自分で台無しにして……情けない…」
「俺も…同じだ。医者という大きな看板を蹴った今、残ったのは只の『俺』という脱け殻だ。さっきは好きな事やれてると言ったけど、やっぱり医者という仕事には未練があるよ。」
「蒼井さん……」
「大丈夫だ。俺がいる。」
「え……?」
「傍にいさせてくれないか?臆病者と脱け殻同士、二人でなら何とか生きていけるような気がする。」
「……」
「いや、君にとって俺は蘭ちゃんの敵だ。だけど憎んだままでいいから、隣にいて欲しい。俺は君を傍に置く事で、罪を償う。一生を懸けて。」
「蒼井さん…」
真剣な瞳に流されそうになる。
不意に蘭の声が聞こえて、ハッと顔を上げた。
『お姉ちゃん、幸せになってね!』
その声に乗って蘭の純粋な笑顔が目に浮かぶようだった。
私は顔を蒼井さんの方に向けると、こう言った。
「幸せにしてくれる?」
「あぁ。」
一瞬驚いた顔をした彼は、次の瞬間ふっと息を吐いて頷く。
おもむろに私の肩を抱き寄せた蒼井さんの胸元に体を預けると、心の中でこう呟いた。
『ごめんね……』
せめて夢の中では何もかもを忘れていたくて、私は目を閉じた。
――
数日後の蒼井の勤める青南大学では、ある一枚の写真のせいで騒動になっていた。
「何これ~!蒼井先生って彼女いたの~?」
「女には興味ありません。研究第一ですから。……って昭和の大スターみたいな顔して、意外とムッツリ?」
「っていうか、情事後にこんな写真撮られるなんてどんだけ油断してたのさ。」
「まじそれな。」
「あははは!」
掲示板の前で女の子同士がはしゃぐ姿など無視して、かつかつと靴の音を鳴らして歩いてくる人影。
その場にいた皆がその人影の正体に気付いた時には、その人物は画ビョウで止められていた写真を乱暴に剥がし取っていた。
「……百合」
その人物――蒼井はそう呟くと、その写真をぐしゃぐしゃに丸めてポケットにしまった。
――
その写真とは二人の情事後に撮ったもので、お互い裸のまま映っている写真だった。
百合は笑顔で、蒼井は寝ているのか布団に顔が半分隠れている。それでもそこに映っているのが『青南大学の法医学教室の蒼井蓮教授』だという事はわかった。
きっと百合が蒼井が起きない内に何度も撮った内の一番鮮明な物を選んだに違いない。
蒼井は自分の部屋に入ると、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。
「……百合……」
そう呟いたきり、蒼井はしばらく動かなかった。
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