『正義』~逆位置~
Ⅰ
―――
「散らかってるが、平気か。」
「あ、はい。」
「じゃあ適当に座ってろ。」
「蒼井さん!」
「何だ。」
「どうして私を…連れてきたんですか?」
面倒くさそうに振り向いた彼だったが、私の問いかけに喉を詰まらせると顔を逸らした。
お店の休憩室でしばらく抱き合っていた私達は、どちらからともなく離れた。
そして無言の状態が続いて焦れてきた頃、彼が『うちに来ないか。』と誘ったのだ。
「蒼井さん…」
「まぁ、座っとけ。コーヒーでいいか。」
「……はい。」
探るような視線に耐えられなくなったのか、蒼井さんはぶっきらぼうに言うとキッチンへと入っていった。
彼―蒼井さんが私を愛しているという事実、しかもあの頃からだという事に、少なからず驚いていた。
それはそうだろう。封印していた自分の気持ちを、やっと思い出したばかりだったのだから。
それにしても、とソファーに座りながら蒼井さんが消えていった方向を見つめた。
「やっぱり…違う。」
しゃべり方や雰囲気、顔の表情まで何もかもがあの頃の彼とはかけ離れていて、私は心の中で首を傾げた。
蘭と一緒にいる時の彼はよく笑ったし、よくしゃべっていた。
天気のいい日は中庭まで出向き、二人でひなたぼっこをしていた記憶もある。
そしてそんな彼らをただ見ている事しか出来なかった私は、どちらに対してかわからなくなる程の強い嫉妬心を抱いていた。
それはきっと、二人に対しての想いだったんだと思う。
蒼井先生には、蘭を取られたという嫉妬。
蘭に対しては、先生を独占できる事への妬み。
だって先生はいつも、私じゃなくて蘭だけを見ていた。
私の幼い、だけど熱い視線に振り向いてくれた事なんてない。気づいてもくれなかった。
名前さえ、呼んでくれた事……
「百合。」
「……っ!」
突然耳許で聞こえた低い声。
私はあまりの驚きに、固まってしまった。
そしたらほんの一瞬だけ笑った気配がして、慌てて顔を上げた。
「先生……」
そこにはあの頃みたいに微笑む彼がいて、私は見惚れた。
「相変わらずだな、蘭ちゃんのお姉……っじゃなくて、百合。」
「何ですか、それ。成長してないっていう嫌みですか?」
あの頃の癖で、『蘭ちゃんのお姉さん』って呼びそうになって慌てて訂正したのをわかってて、気付かないフリをした。
「いや別に、そういう意味じゃないんだが…」
「冗談ですよ。だけど蒼井さんは、大分雰囲気変わりましたね。」
今なら聞ける!そう意気込んだ私は、蒼井さんからコーヒーを受け取りながら言った。
「…そうか?」
「えぇ。貴方はもっと柔らかい雰囲気で、口調も優しくて…。今の蒼井さん、何だか感情を無くしてしまったみたい。」
「……そうなのかもな。」
「え?」
蒼井さんはコーヒーのマグカップをテーブルに置くと、私とは反対側のソファーに座った。
「8年の間、色々あった。辛い事も悲しい事も、嬉しい事も。だけど今はそれなりに満足している。好きな事やれて、派手じゃないけどちゃんと生活していけてる。」
またはぐらかしている彼の言葉に引っ掛かる部分があって、思わず蒼井さんの方を見た。
「好きな事やれて……ですか…」
「ん?」
「ううん、何でもないです。」
つい口に出してしまって、慌てて首を振った。
『好きな事やれて』だって?
前の職場を辞めた事は蒼井さんのせいではないけど、蘭は彼のせいで死んだ。
そして母も私を置いて、蘭を追いかけて逝った。
大学に行きながらアルバイトを掛け持ちして、寝る間も惜しんで働いた。
研究センターに入ってからだって、色んな辛い事や苦しい事に耐え続けた。
今の職場は店長はじめ皆さん良い人で、私自身も正社員としてこれから頑張ろうと決意した。
だけどたまに思ってしまう。
あの事さえなければ、って。
あの夜が無事に終わっていたなら、今でも家族三人平和に生きていけたのかな。
蒼井さんとの空白の時間も、ゼロだったはず。
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