―――


 蒼井さんと会った日から、半月程が経っていた。

 あれから彼とは会っていない。

 そして年も明け、新年会のピークも過ぎた頃、私はある決心をした。


 ある日の仕事終わり、皆が帰った後の休憩室に店長がいるのを見つけて声をかける。

 返事をして振り向いた店長に向かって、緊張で震えながらこう言った。

「あの、店長。正社員にならないかっていうお話なんですが…」

「考えてくれた?」

「はい。まだまだ頼りない私ですが、よろしくお願いします。」

 そう言って頭を下げたが、何も言わない店長に急に不安になって急いで顔を上げた。


「あ、もしかして…、もう遅かったですか?そうですよね、あれから半月以上も経ってしまいましたし…」

「良かったぁ~!断られるかと思ってたよ。いや~、良かった、良かった。」

「あ、あの…店長?」

 急に大声を上げた店長は、落ち込み始めた私を他所に、うんうん頷きながら部屋を歩き回り始めた。

 一方戸惑った私は、あたふたしながら店長を目で追った。

「君が何も言わないからね、これは無理なんじゃないかなぁ~って正直思ってたんだ。」

「すみません、ちょっと迷ってて…」

「他に行きたい所、あったんでしょ?」

「…え?」

 おもむろに立ち止まった店長の視線はどこか鋭くて、私は目を逸らした。


「な、何でわかるんですか?」

「あ、やっぱり?何でって…言ってみれば勘、かなぁ。まぁ、座りなよ。」

 パイプ椅子に腰かけた店長に促されて、私も椅子に座った。

「そこってさ、前の職場?」

「なっ!」

 さっきから心の中を透視しているのではないかと驚きながら見ると、苦笑いする店長の目と目が合った。


「これでもね、たくさんの人と接して色んな人生を目の当たりにしてきた。その人がどんな風に生きてきたのか。幸せだったのか不幸だったのか、苦労してきたのか怠けてきたのか、何となくわかるんだ。」

「………」

「居酒屋では皆、本音を話す。俺クラスになれば、悩み相談だってお手のものなんだよ。一回5千円でね。」

「高っ!……いですね。」

「ははっ!やっぱり君には笑顔が似合うよ。名前の通り、百合の花が咲くみたいにね。」


――『君の笑顔は、知らず知らずのうちに人を元気にする。名前の通り、百合の花が咲くみたいだ。』――


 店長の何気ない言葉から揺り動かされた記憶。

 手で掬った砂が指の間から零れ落ちるように、それは次から次へと落ちていった。


 私は夢心地のまま、ゆっくりと瞳を閉じた。



――


 そこはまるで自然の楽園のような場所。

 木のベンチに座る二つの人影から発せられる楽しげな声が、少し離れているはずのここにも届いてくる。

 私はそんな二つの人影を、ただ眺める事しか出来なかった。


 大切な人なのに、憎んでしまう程の感情を持ってしまうなんて、人間の心はなんて醜いんだろう。

 もう一度彼らを見つめる。


 そしてぎゅっと目を閉じると、足音に気をつけながらその場を後にした。




――


「ただいま…」

 誰もいない冷えきった部屋に向かって、力ない声を出す。

 そのまま真っ直ぐに部屋の奥へと歩いていくと、簡単に作った仏壇の前に正座した。


「お母さん…蘭…」

 二人の写真を見比べて、私はそっと蘭の方を手に取った。

「蘭、ごめんね。お姉ちゃん、忘れてたんじゃなかった。忘れたと思い込んでたんだね。」

 何も言わない妹の笑顔。私はその純粋さに堪えられなくて、写真を伏せた。


 さっきの店長の一言は、忘れたと思っていた記憶を呼び覚ました。

 そしていつもと様子が違う私を気遣ってくれた店長は、最後にこう言ってくれたのだ。


『何かあったら相談のるから、遠慮せずに言ってね。あ、もちろんタダでね。』

 と、下手なウィンクをしながら。


「店長、ありがとうございます。でもこれは、誰にも言えない……」


 母親と妹の蘭の遺影の前で、私はいつまでも泣いたのだった……



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