『戦車』~逆位置~


―――


「お疲れ様でした~。」

「お疲れ~。雪降ってるみたいだから、気をつけて帰るんだよ。」

「ありがとうございます。店長も気をつけて。」

「はいよ~。」

 いつものように後始末を終えた私は、コートを着ながら店長に声をかけて外へと出た。


 思いがけない人との突然の再会に想いを馳せながら、うっすら積もった雪を踏みしめて歩く。すると前方に人影を見つけて立ち止まった。

 そしてその人影の正体に気づいて慌てて横を通り過ぎようとしたら、強い口調で呼び止められて再び立ち止まるハメになった。


「俺の事、覚えてるか。」

「……蒼井先生ですよね。」

「あぁ。久しぶり…だな。」

「えぇ。8年ぶりです。」

「そうか。そんなに経つのか。」


――彼、蒼井蓮はそう言うと、いまだに雪が降っている夜空を見上げた。


「あの時も、こんな風に雪が降っていたな。」

「そうでしたっけ?」

「……謝って許される事じゃないのはわかってる。でもっ…!」

「どうして今なんですか?」

「………」

 私の冷たい声に、彼が息を飲む。

 一つ深呼吸すると意を決して口を開いた。


「貴方のせいで、私の人生はめちゃくちゃになりました。どうして今更、貴方とこうして出逢わなきゃいけないんですか?」

「藍沢さん…」

「そんな風に呼んだ事なんて、ないくせに。」

 私はそう吐き捨てると、目の前の端整な顔をきっと睨んだ。


「もう私の前に現れないで下さい。蒼井先生。」

「……すまなかった。それと俺はもう『先生』じゃない。」

「え…?」

「辞めたんだ、あの病院。今は大学の法医学の教授だ。まぁ、今でも『先生』って呼ばれてるのは変わらないがな。」

「辞めたって……、あの事が原因ですか?」

「…まぁ、そうだな。あれは俺のミスだから、責任をとっ……」

 突然蒼井先生が声を詰まらせる。私は不思議に思って首を傾げた。


「泣いてる。」

 不意に伸びてきた指が、目尻に触れる。

 ビックリした私は、思わずその手を振り払っていた。

 先生が病院を辞めた……それを聞いて何故涙が出たのか、自分でもよくわからなかった。


「あ…、ごめんなさい!」

「いや、無理もない。君にとって俺は、何年経っても憎しみの対象でしかない。」

 静かにそう言った蒼井先生は、おもむろに背を向けると、こう言った。

「また、来てもいいか?」

「え…?」

「もう二度と俺に会いたくないのは、重々承知している。だけど俺はまた会いたい。」

 正直で真っ直ぐな言葉に胸がざわつく。どうしてだろう?こんなにも嬉しいのに、こんなにも切ない。


 そしてそんな葛藤とは裏腹に、気がついた時にはこう口走っていた。


「お店に来てくれるなら、いいですよ。」

「………」

「あ、その…お客様としてなら。」

 慌てて付け足した私の言葉に先生はビックリした顔をしながら振り向くと、フッと表情を緩ませた。

「断られると思った。」

「蒼井先生……」

「もう先生じゃない。」

「蒼井…さん?」

 初めて呼ぶ呼び方に変に戸惑っていると、意外と近くに気配を感じて素早く顔を上げる。

 思ったより近い所に彼がいて、思わず後ずさった。


「元気な様子に安心した。君の事、忘れた事なんてなかった。8年間、ずっと……」

「ずっと?」

 彼の顔が苦しげに歪んでいく様を、私はどこか冷静な頭で見つめていた。

 急速にこの8年間の出来事が走馬灯のように流れては消える。

 次に出した声は思ったより低くて、自分でもビックリした。


「……私は、貴方の事なんて忘れてました。」

「え…?」

「だってそうでしょう?貴方のせいであの子はっ……!」

「!」

「貴方を忘れる事が、私が一人で生きていく唯一の術だった。今日逢わなければ、私も貴方も毎日を平和に過ごせたでしょうに。」

 自嘲気味に笑う私を、また苦しそうな顔で見つめる彼。

 そんな蒼井さんを見ているうちに、心の中に巣食い始めた何かが頭をもたげた気がした。


「やっぱりもう会わない方がいいのかもな。このままじゃ、君をいつまでも苦しめる事になる。」

 そう言って踵を返す蒼井さんを、私は慌てて追いかけた。


「先生!……じゃなかった。蒼井さん、待って!」

 振り返る彼に向かって、私は口を開いた。

「貴方の事がもっと知りたい。空白の8年間、貴方がどんな風に生きてきたのか、知りたい。」

「藍沢さん……」

「百合でいいですよ。」

「百合……」

「……」

 初めて呼ばれた名前。自分の名前がこんなに特別な響きを纏って聞こえたのは初めてだ。


「百合。」

「あ……」

「また来る。じゃあ……」

 私が何かを言う前に踵を返して歩いていく蒼井さん。

 その小さくなる背中に、私はこう呟いた。


「ねえ、私はどうしたらいいの?」

 さっきよりも強く降ってきた雪にも構わず、顔を上げる。

 真っ直ぐ降ってきた雪が目の中に入って、私は条件反射で目を閉じた。


「神様は残酷だね。こんなサプライズ、期待してなかったのに。」

 返事が返ってくる事のない呟きは、音もなく空に吸い込まれていく。


 私は一つ深呼吸をすると、通い慣れた道を歩き始めたのだった……



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