63

 昼休みが終わり五時限目が始まった。


 A組の教室に小清水と湊の姿はない。川谷の姿も。

 川谷は学校を欠席しているためだ。


 小清水は特別教室棟を走っていた。一階の西側階段にきては三階まで駆け上がり、廊下を東に進む。東側階段まで行くと一階まで降りる。そして西側へと。


 小清水は走りながら背後を見る。

 目に映るのは、病衣を着た空。鼻穴を大きく広げ、緩んだ口からは唾液が垂れている。タコのように手足をうねらせるように走り、小清水を追いかけている。

 その後ろには頭巾をかぶった生徒。体力がないのか、今にも崩れそうによたよたと走っている。


「くそー。こんなことになるんだったら海山と朝のランニングしとくんだった――」


 小清水はどうしていいか分からなかった。

 なぜ自分が追いかけられているのかも分からない。

 分かることは、追いつかれたらヤバイだろうな。ということ。


「春くーん! まってー! 俺は春君が好きなんだ! にげないでー! 吸わせてー!」


 空はタコ走りしをしながらそう叫んだ。


「――なんだよ。あいつは一体どうしちまったんだ?? 吸わせてってなにをだ……」


 小清水は空に気色悪さを覚えながら逃げ続けた。


 それから10分程経った。

 小清水もいよいよ体力が危うくなってくる。

 呼吸は荒くなり、ワックスで固めている髪も汗により崩れている。


 空は変わらず元気に追ってくる。

 後ろにいたはずの頭巾の生徒はいつのまにかいなくなっていた。

 数分前に体力の限界がきて、特別教室棟と教室棟を繋ぐ渡り廊下のところで倒れ込んだためだ。


 小清水は一階西側の階段を駆け上がる。

 そして、三階までは上がらず二階の踊り場にある掃除用具入れの陰に隠れた。


 空はそれに気づかずに三階へ上がっていく。


「――ふぅ。ちょっと休憩」


 小清水は壁に背中をつけたまま滑らせるように腰を下ろした。


 そして、気を抜いていた。


 空が一周してくるまでもう少し時間があると思っていたからだ。

 しかし、空は目の前から小清水が消えた異変に気づき、一周せずに戻ってきていた。


 小清水はこれに気づくはずもない。

 階段の下方向に意識をかたむけている。


「みーつけたぁ」

「――!?」


 空の声は耳元で聞こえた。


「――やばっ!?」


 小清水は立ち上がろうとしたが、床に落ちた自分の汗で足を滑らせる。

 そして覚悟した。これから一体なにを吸われるのだろう。と。


 そのとき。


「おい!! 丸眼鏡!! こっちじゃん!!」


 女性の声が響いた。


 小清水は見た。そして、この後の出来事をスローモーションに感じた。


 空が声の聞こえた階段上部に顔を向けた瞬間、ジャンピングニーバッドが顔面に入った。

 膝の衝撃により飛散する空の唾液。歪む顔。

 彼女の細く長く綺麗に曲げられた脚。真っ黒の長いストレートヘアとスカートはひらりひらりと揺れる。バランスをとるために伸ばされた両手と、真ん中分けの黒髪は滑空する燕を思わせる。


 そして空は倒れる。


 小清水が見たもの。

 階段の中腹から華麗に飛び、空の顔面に膝を叩きこんでいる茶木英里子の姿。


 それはまるで、黒い大きな鳥が獲物を狩る瞬間のようだった。

 

「――うごぉあ」


 空は床に倒れ込んだまま顔を押さえる。


「茶木……先輩」

「おう垂れ目! 助けてやったじゃん!」


「な、なんで??」

「いや。さっきからお前らの走ってる音がうるさかったじゃん!! ゲームに集中できないじゃん!! で、様子見てたら丸眼鏡が変になってっからこうしたじゃん??」


「は、はは……」

「とりあえずこっちきな! そいつが起き上がる前にさ」


****


 クニツルは学校にたどり着いた。

 ポプラ通りを忍者のように進んでいく。


「生徒の姿がないな……先ほどの鐘の音は授業の鐘か。時間からして五時限目か」


 クニツルは学校に来るまでの間で、こんにゃくの体の不便さを感じていた。

 犬に追われ。猫に追われ。カラスに追われ。

 しかし、こんにゃくの体に外傷は一切ない。


 そのときクニツルの背後から足音がした。

 クニツルは振り返る。


 そこには走っている陸の姿。


「おい小娘! こっちだ!」


 陸は立ち止りキョロキョロと辺りを見渡す。


「クニツルの声?」

「小娘! ここだ!」


 陸はクニツルを見つける。芝から上半分だけ飛び出したこんにゃくを。

 クニツルは駆け寄り、陸の肩に飛び乗った。


 二人は話しながら学校の中へと入っていく。


「クニツル! どうしてここに!?」

「ルティたんのためだ!」


「え……」

「お。そうだ、一つ訊きたいことがある。空坊のやつは最近夢を見たとか言っておらんかったか?」


「夢……? 言ってたよ。悪夢を見たって。だからリクは安眠のためにアロマを――」

「やはり……」


「どーゆーことさ?」

「悪さをしているのは夢魔むまだ。小娘は空坊から変な匂いを感じなかった?」


「夢魔!? 匂い?? 匂いはなかったと思うけど……」

「いや。人間には感じることはできんかもしれんな。最初は磯の匂いに近く、症状が進むにつれて腐臭のように変化していくのだが」


「磯の匂いってどんな匂い?」

「ん? そうだな。小娘の知っているような匂いだと……。空坊が料理を作るときの出汁の匂い、昆布出汁が近いかもな。ただ吐き気を催すほど濃いがな。そして、その匂いは女性・・にしか感じることはできない。といっても、俺様が考えている夢魔であればの話だ」


「昆布か……昆布……。最近昆布臭いって思ったような気もするけど、いつだったっけな……」

「小娘の記憶はあてにならんな」


「それであんたの想像してる夢魔って?」

「……サキュバスだ。ただ悪夢を見たというのが引っかかっておってな」


「サキュ――サキュバスって男の人を襲う悪魔だよね!? エッチなやつ」

「そうだ。サキュバスは夢の中で、その男性の中の女性像として現れる。そして男から子種を吸い取るために行為をする。だから空坊は快楽で目覚めたはずだ。悪夢になるはずがないのだ」


「空ニィは変な梅干しの夢って言ってなかったけな?」

「梅干しか……。だとすると俺様の考えは間違っているかもしれんな」


 二人は教室棟を隠れながら進む。今は授業中のためだ。

 しかし、教室棟は静かで異変はない。聞こえてくるのは先生の声とチョークの音。椅子を引く音など、授業中のささいな音。


 A組の教室を覗く。

 空、小清水、川谷、湊の姿はない。


「ここにはいないみたいね」

「ふむ」


 そのとき、遠くから『うごぉあ』という声が聞こえた。


「今の声って……空ニィの声だよね!?」

「俺様にも空坊の声に聞こえたな」


「きっと特別教室棟の方だ! いってみよう!」

「ふむ」


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