20

 空たちがピッピーマートでハンバーグの食材を買っている頃。

 市営住宅の一室に彼女はいた。

 

 彼女は六畳間の和室で本を読む。タイトルは『名前の刻まれた木』。本の厚さは普通の文庫本程。

 和室といっても床が畳なだけであって、見た目に和は無い。

 六畳を広く使うための低いベッド。シンプルな勉強机。隅に立てかけてある脚の折られている折り畳みテーブル。

 姿見の周りには化粧道具やアイロンなどが乱雑に置いてある。

 

 本を読んでいる彼女だが、部屋に本棚は無い。

 

 彼女は数ページ読み進むとたまに携帯電話をいじる。友達とメールしているわけではない。

 調べ事である。本に書いてある慣れない漢字の意味が分からないのだ。


 口をへの字に曲げ、それでも少しずつページをめくっていく。

 

 少しずつ。少しずつ。



 彼女がふと顔を上げると、部屋は薄暗くなっていた。

 そして彼女は独り言をつぶやく。


「私なにやってんだろ」


 ため息まじりで本にしおりを挟む。

 そしてベッドに倒れ込むようにして横になった。


****


 時はさらに遡る。彼女が中学一年生の夏。


 サッカーグラウンドに彼女はいた。


 肩下程のさらりとした髪を風になびかせ、彼女は一人の男子を見ている。

 彼は膝に手を置き、肩で息をしている。眉の間に皺を寄せ今にも倒れ込みそうである。

 彼女は彼の元に駆け寄る。


「春。……大丈夫? 頭っから飛ばしすぎなんだよ」

「――はあ、はあ。こうでもしないと――レギュラーになれないからな」


 駆け寄った彼女はタオルとスポーツドリンクを渡す。

 そんな中、二三年生のサッカー部員が涼しい顔をして過ぎていく。


「いい? ロードワークでそんな飛ばすのはダメ! ペース考えて。ゆっくりでいいから」

「……ったく。亜樹は俺の母ちゃんかよっ! わーったよ」


 春はまた走り出す。

 先ほどとは違いゆっくりとした足取りで。


 亜樹はムスッとしながらも、春に心の中でエールを送った。


 そんな亜樹に後ろから一人の女子が声をかけた。


「ホント亜樹って……お母さんみたい」


 そう言ってクスリと笑う。

 彼女は亜樹と同じサッカー部マネージャーの田中たなか。三年生で亜樹の先輩である。

 田中は男子から人気がある。艶やかな黒髪をポニーテールにした髪型。女性らしい体のライン。優しくて気が利く。

 

 そして無類の本好きであった。


「お母さんて言うのやめて下さいよ! 田中先輩が最近私のことそう言うから、皆にもからかわれるんですよ?」

「ふふふ、ごめんごめん。でもね、すごい良いと思うよ」


「嫌ですぅ! せめてお姉ちゃんとか……かの――とか」


 亜樹は赤くなりうつむく。


「んー? 最後の方聞こえなかったぞー? かの、なんて?」

「もー、なんでもないですぅ!」


 田中はからかうように、かつ優しく笑った。


 亜樹は田中に憧れを持っていた。

 皆に慕われ頼りにされる田中先輩という存在。見た目も中身も全てに憧れていた。


 

 部活も終わり、皆部室で帰り支度をしている。


 誰よりも早く準備を終えた春は誰かを待つように校門にいた。

 しばらくして、亜樹と田中も合流する。


 そして通学路を三人で帰る。

 三人とも家が近いことから、いつの間にか自然と一緒に帰るようになった。


 亜樹はこの帰りの時間が好きだった。

 春と田中が本の話をするからだ。

 活字が苦手な亜樹は本など手にしようと思わない。しかし、本好きの二人は、亜樹に面白く話してくれる。

 

 亜樹はこんな時間がずっと続けばいいのにと思った。

 

 しかし別れは必ずやってくる。

 田中の卒業である。


 卒業式が終わり、サッカー部の先輩たちは部室で後輩に別れの挨拶を告げていた。


 涙を流す亜樹に田中が寄る。


「亜樹。ずっと会えないわけじゃないんだからもう泣かないで。……これあげるからさ」

 

 田中は髪を一束に縛っていた白いリボンを亜樹に渡した。


「あ――ありが、どう」


 鼻を真っ赤にし、赤子のようにくしゃりとなった顔の亜樹。



 先輩たちが出ていって十五分は経っただろうか。

 部室にはもう亜樹しかいない。


 外のグラウンドでは部活が始まり、サッカーボールを蹴る音が聞こえる。


 亜樹はまだ赤い鼻のままグラウンドへ出た。

 すると一人のサッカー部員が声をかける。


「おい亜樹! 小清水の野郎がいない! サボってるかもしんねーから探してきてー」


 亜樹は不思議に思いながらも了承して探すことにした。


 しばらく見つからないまま亜樹は走る。

 そして体育館の裏へ差し掛かろうとしたとき、声が聞こえた。春の声である。


 亜樹は隠れるようにして様子を覗う。

 そこには春と田中の姿。少し距離を置くように立ち、向き合っている。


「春。ごめんな。私は春の気持ちには応えられない。でも気持ちは本当に嬉しい。ありがとうね」

 

 田中は頭を下げ、すぐに走っていってしまう。

 春はその場にしゃがみ込んで動かなくなった。


 亜樹は田中の言葉でなにがあったのかを察した。

 そして、春に姿を見せずそのままグラウンドへ戻っていった。

 

 

 月日は流れその年の夏。


 白いリボンでポニーテールにした亜樹は悩んでいた。

 寂しくなってしまった帰り道。もう本の話は聞けない。

 春は口数が少なくなった。


 こんなことを考えながら図書室へ向かう。

 文化祭のため、クラスで調べ事をした際に使った資料を返しにきたのだ。


 両手に抱える本を持ったまま中へ入る。

 しかし、受付に積み上げてあった本の山を崩してしまった。

 バサバサと音を立てて地面に広がった本。


 亜樹は慌てて両手の本を近くの机に置き、床の本を拾い始める。

 そのとき一枚のカードが目に入った。落ちた際に抜け落ちた貸出カードである。


 亜樹はどの本のものか特定するためカードに目を通した。


「――あ。田中先輩の名前。――春のも書いてある」

 

 亜樹の中でなにかが閃いた瞬間であった。



 文化祭シーズンが終わり、また部活が始まった。

 亜樹は春との帰り道に図書室での閃きを試した。


「ねえ春。『ブランコのお姫様』って本。読んだよ」


 春は肩をピクリと反応させた。


「――それって。あのブランコにいるお化けのお姫様の……」

「そう。ずっと好きだった男の子を待ち続けるお姫様の」


「ど、どこまで読んだ? 最後まで読んだ? いや好きな男の子って知ってるってことは、結構後半まで読んでるか」

「全部読んだよ!」


 あのこと以来愛想のなかった春。

 元気のなかった春。


「ぜ、全部? 最後泣いた? 俺はさ、しばらく号泣してたわ! あの本いいよなー」

「う、うん。私も泣いた」


 亜樹は嘘をついた。

 慣れない本。内容を頭に入れるので精いっぱいだった。

 難しい漢字が出てくるたびに携帯電話で辞書を引く。そのせいで感情移入するのは難しかったのだ。

 さらに文化祭で忙しかったため、十数回に分けて一冊を読んだ。

 亜樹は本を読むことが苦痛そのものでしかなかった。


 でも。


「だよなー。あれは泣くよなー」


 春の笑顔が戻ったこと。

 また帰り道が楽しくなりそうなこと。

 

 亜樹は自分が田中先輩になろうと。そう決めた瞬間だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る