chapter1 出会い
1
北海道
快晴。風は土埃を軽く転がす程度。
大通り公園を見下ろすテレビ塔があり。時計台があり。
通称赤レンガと呼ばれる北海道庁旧本庁舎にある桜の木。開花にはまだ早いが蕾が膨らみを増してきている。
そんな札幌中心部から少し離れた住宅街に彼はいた。
彼の名は
空は玄関で両親を見送っていた。
「
母親の問いに空は首を縦に振る。
カジュアルスーツを着た母
空は顔色一つ変えずに受け取る。
「それ携帯代ね。次に帰ってくるのはいつになるか分からないけれど、いつも通りよろしくね」
紀子はそう言いながら横のキャリーバッグに手をかけた。
「さあ、
空の父匡広は、息子との長い別れにほろりと涙を流している。
「ったくあなたはもう。いつまでもめそめそしない! 行きますよ」
紀子はキャリーバッグを片手に匡広を肩に担ぐ。
「ああ、愛する息子よ。どうか父のことを忘れないでくれ」
「ほんとにもう! 毎回毎回めそめそめそめそと」
紀子は玄関の扉を足蹴で開け、待たせているタクシーに向かう。
「ああ、愛する息子よ。どうか父のこ――」
紀子に担がれている匡広の嘆きも虚しく、玄関の扉はがちゃりと閉まる。
そしてタクシーのドアが閉められた音がし、エンジンの音は遠くなっていく。
空はそれを確認すると、扉の二重鍵をかけた。
右手の封筒から札束を出して確認すると、入っていたのは五十万。
しかし、その金額に空は驚きもしない。
何故なら。
慣れているからだ。
空の両親は仕事柄滅多に日本にはいない。
一年に二三度帰ってきては、また今日のように仕事に向かう。
そして息子に
生活費は別で口座に振り込んでいる。
空は小学校高学年あたりからこんな生活をしている。
一軒家二階建て庭付き。一階は風呂にトイレ、リビング、キッチンはアイランドキッチン。両親の部屋と空き部屋一つ。
二階は空の部屋。それと物置、こちらは両親のお土産置き場となっている。そして、開けてはいけない部屋が一つ。
空はこの広い家をほぼ独り占めで暮らしている。
しかし、食事や風呂以外はほとんど自室いる。
理由はただ落ち着くから。
リビングに向かった空は冷蔵庫を開け食材を確認した。
携帯電話を買った帰りに食材を調達するためだ。
フキの水煮。油揚げ。大根などを確認しながら献立を考える。
卵と牛乳、納豆が無いことに気付きメモを取る。
そして製氷室に隠してある通帳も取り出す。
空は大金を持ち歩くのが怖い。なので、すぐに銀行に預けている。これも習慣となっている。
外に出る支度を済ませた空は携帯電話ショップへ向かった。
****
「こちらの機種はいかがでしょう? 容量も大きめで高画質。あと学割対象商品となっております」
ここは近所の携帯電話ショップ。スーツの男性店員が机を挟んだ向こうから、空に商品を勧めている。
白を基調とした店内。心地よい大きさのBGM。
他の席には親子で来ている客が目立つ。
「じゃ、それでいいです」
「かしこまりました。今書類と商品を準備いたします」
空は機種のことがわからない。
今まで携帯電話を持っていた人なら分かるのかもしれないが、初めてで比べる対象が無い。
勧めてもらった携帯はシルバーのスマートフォン。最新機種。手のひら程の大きさでかなり薄い。尻ポケットに入れたら座った際に折れてしまいそうな物。
その後、本体の設定をしてもらった空は人生初のスマホを手に入れた。
店を後にした空は買い出しのためスーパーへ向かう。
空は嬉しさのあまり顔が緩んでいる。
早速『フキの煮物 作り方』と検索をし、自分の口に合いそうなものを探す。
十分程歩きスーパー『ピッピ―マート』に到着。
近所で一番大きなスーパーで、一階は食品売り場。ファーストフード店やケーキ屋などもあり、二階には百円ショップに美容室、飲食店。雑貨屋なども入っている。
空はスマホ片手にカートを押しながら食材をカゴに入れていく。
牛乳に納豆。卵にちくわ。煮物に入れるこんにゃく。
空は足早に必要なものだけを入れ、真っすぐとレジに向かい会計を済ます。
紙パックの牛乳を下に敷くようにレジ袋に入れ、安定させながら一番上に卵のパックを入れた。
まるで主婦。スーパーでの身のこなしは完璧である。
右手にレジ袋とスマホの紙袋を持ち、左手で眼鏡をクイっと直しながらスーパーの出口に向かう。
空は早く帰ってスマホをいじりたい。そんな気持ちでいっぱいであった。
そんなことを考えていたせいなのか、少し視野が狭くなっていたのか。
空はスーパーの自動ドアを出た瞬間、衝撃を受け軽い痛みとともに一瞬目の前が暗くなった。
「――きゃっ!」
女性の声が聞こえ、空は尻もちをつく。ここで誰かにぶつかってしまったのだと気づいた。
空の視界はぼやけている。ぶつかった衝撃で眼鏡が外れてしまったのだ。
空は視界確保のため這うようにして眼鏡を探す。
「あの。ごめんなさい! 私急いでいたので……怪我はないですか?」
ぼやけた視界のどこかから聞こえる女性の声。
空は裸眼のまま声の方向を見る。
黒い髪に白い服、声からして女性。そのことだけが空の裸眼で理解できた。
空は目を細めてみたが、視界ははっきりしない。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
女性の謝る声。
空には黒と白の塊が上下に動いているようにしか見えていない。
「卵割れちゃってます! ごめんなさい。私、弁償します」
空は床に落としてしまったレジ袋を見るが、モザイクの視界では何もわからない。
「気にしないで下さい。俺と卵は大丈夫ですから。それより、急いでいるって言ってましたね? 早く行って下さい」
空は眼鏡探しを続けながらそう言った。
「でも。じゃあこれを。――本当にごめんなさい」
彼女はそう言いながら空の右手を掴み、何かを握らせる。
この時、空は固まった。
彼女の手はとても熱い。
そして空の鼻をかすめるシャンプーの香り。
再度頭を下げた彼女は足早にどこかへ向かった。
空が眼鏡を見つけた頃すでに彼女の姿はなかった。
右手には百円玉が二つ。
レジ袋から飛び出しているこんにゃくと卵のパック。
女性に触れられたという衝撃。
鼻に残るとてもいい香り。
慌てていながらも、優しかった声色。
空は顔が熱くなっていることに気づく。
思考が戻り始めると、二百円を見つめる。
「卵……158円だったな。お釣り返さないと」
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