第3章『それは才能と呼ぶには超え過ぎた能力』(3)


 それから数十分後。


「でもなぁ。今思うと、やっぱ好きだったんだなって」

「ぼくのことがですか? やだ、嬉しい……ぼくもリン子さんのことが、ちょっぴり気になってたり?」

「ちげーよ珍獣、ヴァイオリンのことだよ。つか何話してんだよ私は……君、適当に聞き流せよ」


 なんて取り留めもない雑談をしつつ、彼女の絵描きに付き合っていた。

 始めはカッターシャツを脱がされ、Tシャツ姿で色々ポーズを取ったり、持ち物を持たされたりしたのだが。結局、いつの間にかぼくはベンチに座らされ、リン子さんは持参していた携帯椅子を開いて、画材一式をそこに置いていた。

 当然、彼女はずっと立ちっぱなしである。


「ところでヴァイオリンのどこが好きなんですか、リン子さんは。あのf字孔がセクシーとか? そこから覗ける、暗がりで恥じらうように佇む魂柱に愛らしさがあったり?」

「んな訳あるか、つか発想が変態過ぎて引くわ。その……やり始めた理由は、日本人なら知らない人はいないってくらい有名なヴァイオリニストの演奏を聴いて、すっごく憧れたからだよ。一言で言うのは難しいけど、やっぱりプロへの憧れと、ヴァイオリンの音が好きだったかな」

「ああ、憧れるよね。ぼくも道継――友達のギターに憧れて、えっと……ロック? って奴みたいに長い柄みたいなところ握って振り回したよ。あとでキレられたけど、いったい何が間違っていたのかな。音楽性?」

「理解した。おまえに音楽をやらせてはいけない」


絵を描いていた手を止めて、彼女はぼくをジト目で睨む。

なにか怒らせるようなことを言っただろうかと疑問に思ったけど、たしかに楽器を乱暴に振り回すのは起こられても仕方ないだろう。先日の超能力者――サキさんもヴァイオリンを壊せずに犯行を断念した訳で。


 ……音楽性や表現には限度というものがあるらしい。テレビでやっていたバンドの人が楽器を振り回していたのは、どうやらぼくのような素人には許されない行為のようだった。


「まあでもさ……才能、なかったわけで。あたしはヴァイオリンが好きだったけれど、ヴァイオリンは私のことが好きじゃなかったらしいんだよ。楽器でも人間でも、その片思いに気が付くと好意的以外の悪い感情がどうしても生まれてしまう。だから、あたしは素直にヴァイオリンを好きだとは言えなくなってしまった――フられた相手と一緒にいることは苦痛になってしまったから」

「じゃあなんで、あのときのリン子さんはヴァイオリンを背負っていたんですか」

「……弾くためじゃない。最近は弾くことすら億劫で、毎日のようにケースを開けていない。だけれど、あれと別れるには長い時間を過ごしすぎてしまったんだ」


 リン子さんは悲しいような、寂しいような目でヴァイオリンに思いを馳せるように空を見上げている。

 そんな彼女に、ぼくは才能値のことを尋ねた。


「やっぱり才能値があるとないのとでは、全然違うんですか?」

「そうだな。単純な技量でいえば、あたしと才能値Aの下級生たちは雲泥の差だったよ。正直なことを言えば練習不足じゃないかって子もいて、そういう子のほとんどがTMIを受けてから、間もなくして習い始めただけでしかなかった。要するに、まだ長時間の稽古にも慣れていなかったんだよね。それでも違った。練習量に比しての上達は異常で、なんていうか……同じ人間なのかって疑ったよ」

「リン子さん達のような、才能計測器とは関係なく習っていた人たちはどうだったんですか?」

「……私を含めて、才能適性のなかった子は普通列車みたいなものだった。幼い頃から音楽に触れてきて、ずっと長くやってきていても、有才能者っていう〝特急列車〟は速度が段違いだった。なにより。私たちが躓いたりスランプに陥るなんていう〝途中駅には停まらない〟んだよな」

「そういうのって、やっぱり〝反則(ズル)〟みたいに思いますか?」

「〝卑怯(ズル)〟なのかなぁ。才能と言われたら、もうあたしが何を言っても負け惜しみだもの。そっちの方が良くないよ、自分の卑屈さを棚に上げて妬んでいるだけじゃん。だからあたしは、サキみたいに有才能者を憎むことをしないように自制してるんだ。あたしだって絵の世界では同じことをしている訳だからさ。あいつが言ったようにさ、他人のことを非難できやしないんだよ」


 そう言いながら、彼女は自身の右手首を握りしめていた。


 ……きっと彼女は、まだヴァイオリンのことが好きなんだと思う。

 だから向き合うことは辛すぎてできなくて、でも別れるには離れることが怖くてできない。ヴァイオリンのことを本気で思ってきたから、音楽が好きだった頃の想い出と挫折のトラウマが複雑に絡み合ってしまい、単純な好き嫌いでは語れなくなってしまったのだろう。


 ……正直、あの自由とは全然違う。

 ヴァイオリンは〝自己の価値を得るための手段〟だから好きだと、自由は言っていた。多分だけれど、自由はヴァイオリンという楽器そのもののことなんて、これっぽっちも好きじゃないと思う。TMIに齎された才能があるから、都合よく利用しているだけに過ぎないのだ。


 才能による上手さ(うまさ)を除いて、きっとヴァイオリンを想う気持ちと努力はリン子さんの方が遙かに上だ。

 そう、ぼくは思った。

TMIが普及してから七年の月日が経って、ようやく歪んだ本質に気付き始めていたのかもしれない。


「……でも、いつかぼくが聴きたいと思うのは、リン子さんの方かな」

「は?」

「上手下手とかじゃなくて、なんていうのか……リン子さんの演奏は、他の人とは違うような気がするから」

「あたしに特別な演奏はできないよ。才能、無いんだから」

「いえ、リン子さんは特別です。すくなくとも、ぼくの周りには絶対にいないタイプですから」

「珍獣から変人呼ばわりされたくはないぞ、あたしは」

「そうじゃありません。音楽について話しているのに、演奏による音で語り合えないのは焦れったいんです。楽器が弾けなくて、一方的に聴くしかないぼくには説得力が無いかもしれないけど」

「なんだよ、それ」


唇を尖らせながら、彼女は仏頂面になって絵の方に視線を戻す。


「……また今度な」

「え?」

「いつか、また会ったときに聞かせてやる。言っとくけどブランクあるし、得意な曲しか弾けないからな。まあ弱音器さえ付ければ、公園で弾いても問題ないだろ。そこらへんにある住宅とは距離も遠いし」

「あ、ありがとうございます」


 ぼくの目を見ようとしないところが不器用だけれど、きちんと約束してくれるあたり、リン子さんは本当に優しい人柄なのだろう。


「ふん……日比野自由みたいな音は期待すんなよ。弱音(じゃくおん)で音も変わるし」

「それはまったく期待しません」

「おい」

「ああ、まだ勘違いさせているみたいですね。ぼくは〝リン子さんの音〟が聴きたいんです。才能値による音ではなく、リン子さんの半生とも言える音色だからこそ〝意味〟があるんだと思いますから」

「だから、あたしは鑑賞の価値がある音なんて出せないって。学生の、それも中途半端にリタイアした奴なんだし」

「値踏みするようなことはしませんよ、才能計測器じゃあないんですから。ただ、ぼくは価値じゃなくて〝積み重ねてきたことの意味〟が知りたいから」

「……やっぱ変な奴」


 ふっと鼻で笑った彼女は、いったん筆をカンバスから離して一息吐く。

 それからまじまじと絵の出来栄えを吟味するように、顎に手を遣りながらカンバスを眺めていた。どうやら一段落着いたらしい。


「にしても書きづらい顔だったなぁ。まあ、そこが良い練習になるんだけど」

「書きづらい顔と言われて、どういう反応すればいいのか分からないんですけど」

「もう動いていい、描き終わったから」


 移動の許可を頂いたので、さっそくベンチから彼女の傍へ移動する。


「えーっと、どんな感じになってます、って」


 なんだこれ。

 カンバスに描かれたモノは、おおよそ人間と似ても似つかない――


「青、いや……空色の、林檎?」


 ――人間描いてる気がしないんじゃなくて、そもそも人間描いてないじゃん!?


「よく見ろ。陽射しを受けて鏡のように反射している、この透明な林檎の表面には君の顔立ちを描いている。そんでもって林檎を持っている腕や手も、君のものだよ」

「あ、ほんとだ凄い。でも……」

「非現実的な〝真っ青な林檎〟ってのは、あたしにとっての君だよ。印象、イメージって奴かな。今回の課題は、実物と想像物を組み合わせた表現ってことで頑張ってみるかな」


 苦笑しながら突拍子もない〝似顔絵〟の解説を行う彼女。


「ぼ、ぼくは林檎だったんです、か。しかも絶対食べられなさそうな、未成熟とかそんなじゃないガチな空色って……酷い」


 ナルシズムだと指摘されるかもしれないけど、我ながら容姿には父親譲りの端正な顔立ちという自覚があった。いや正直、父親に思うところのあるぼくとしてはコンプレックスの一つではあるのだけれど。

 しかし目の前に存在する〝自分〟を視たことで、ささやかなプライドは儚く崩れようとしていた。


「だから、そんな訳ないだろ、さっき言ったとおりイメージ絵っていうか、とにかく珍獣、君を表現したらこうなっただけなんだ。君が食えない奴ってのは本音だけどな。ほら、これ」


と、カンバスから水彩画を手に取り、こちらへ手渡す彼女。


「いいんですか、絵を貰っちゃって」

「なんつーか、気紛れの習作気分で描いたもんだし。自己表現のための自由デザイン課題とはいえ、宿題で提出するには説明に困る内容だわ。ぶっちゃけおふざけが過ぎた」


 ふぅ、と作業を終えて一息吐く彼女。

 そして、


「そろそろ時間じゃないか? あんまし待たせてやるんじゃない、さっさと行け」


 以前とは違う柔和な声色で、リン子さんはぼくを見送ろうとした。

 そんなリン子さんに、後ろ髪を引かれるような気分がして。貰った絵をファイルに収納しながら、ぼくは未練がましく不安を呟いた。


「はぁ……相手、男ですけどね」

「もしかしたら女かもしれないんじゃね。生憎、探偵やら警察の才能は無いから推理の正否は保障できん。じゃーな、ここら辺にはよく来るし、縁があったらまた会うかもな」

「はい、今日は色々と、ありがとうございました――そうだ」


 ずっと。モデルをしている最中から、彼女に尋ねたいことがあったのだ。


「最後に。貴女は、才能計測器を恨んでいますか?」

「さっき似たようなこと訊いたろ」

「才能そのものじゃなくて、才能計測器がなければよかった……と思っているか、です」


 その言葉が意味することは、彼女に対する最大級の侮辱にも成り得る。

 だけれど今、ぼくは彼女からそれを訊くべきだと判断した。

 きっと今の彼女なら、憤ることなく答えてくれると、そう思ったから。


「――恨むも何も、逆恨みになっちまうだろ、さっき言ったようにさ。でも、そうだな。才能計測がもっと遅く世に出ていたら、あたしの人生は台無しだったかも。なんだかんだでギリギリ美術への道には間に合ったし、音楽に期待していた両親も色々整理することができたしな。まあ、そういう意味では感謝してる。いつかは才能の壁にぶち当たっていただろうし」

「そう、ですか」

「ま、何はともあれ。色々と頑張れよ、君」


 それを聞いて、ぼくは気休め程度の僅かな安心感を得る。


(……でも、やっぱり才能計測器は正しくなんてない)

     

 公園に残った彼女と別れると、いよいよ喫茶店へと歩み始めた。


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