第3章『それは才能と呼ぶには超え過ぎた能力』(2)

  

 ……自由のコンサートから一週間が経とうとしている。


 土曜日の授業が終了した。土曜授業は四限だから恋文に記述されていた時刻まで、ぼくにはあと二時間以上の暇がある。

 待合場所の喫茶店までは徒歩一五分。これから何処で暇を潰すか……とりあえずクラス内はぼくにとって居心地の良い場所ではないし、退出することにしよう。


 荷物をまとめて忘れ物がないか確かめる……特に無し。


 学校にいても、学食で昼食を摂ることくらいしかすることはない。すでに放課後なんだし、外食でも検討すべきか。しかし相手がぼくの事情を配慮してか、咲命館から非常に近い喫茶店が指定されてる訳で。

 仕方ない、昼食後は近場の公園にでも行って、そこら辺のベンチで読書にでも耽るか。ちょうど図書館で新刊書籍を借りた事だし。


 そう決心したぼくは、学食へと足を運び始めた。


         *


「そういえば……最近、道継と会ってないな。忙しいのかな」


 公園を前にしたぼくは、ふと友人のことが気になって立ち止まる。

 いつもは彼の方から、ぼくが学校の人通りの少ない辺りにいると駆け寄って話しかけてくれるのだけど、忙しくなると言ったとおり彼の方からアクションを起こしてくれる気配はない。


 すこし心配になったけれど、もう学校からは遠く離れている。明日以降に自分から彼の元に尋ねよう――と決心したとき。


「あれ……もしかして、しなくても〝謎ヴァイオリン子〟さん?」


 子ども一人としていない、寂れた公園のベンチには意外な先客がいた。

 でも以前、ヴァイオリンを背負っていた彼女の傍らには、あのケース、否――ヴァイオリンの影も形も無い。

 代わりにベンチへと広げられたハンドタオルの上には、色とりどりの絵の具と水で満たされた小鉢が三つ。彼女の手元にあったのは、数多の絵の具が幾度となく混ぜ合わされて、それ自体が豊かに彩られたパレットと、毛先が黄緑に染まった細目の毛筆。そして彼女の視線の先には、公園の風景を描いている最中のカンバスが存在した。


 しかし、どうして彼女が楽器を手にしていないのか。

 邪魔にならないよう彼女の元へ静かに歩み、そっと背後から尋ねてみる。


「あの……たしか先週、コンサートでお会いしましたよね。何してるんです?」

「――へぁッ!? き、君だだ、誰だぁ!」

「お、驚かせてすいません。大丈夫ですか?」

「は、あ……大丈夫だ、が」


きっと腰が抜けるほど吃驚したのだろう。

 いつもの無愛想で気位の高そうな表情は、得体の知れない者への恐怖で酷く怯えたものに変貌していた。

 ……どうやら極度に集中していたらしく、ぼくは邪魔してしまったらしい。


「君、は。あの時の――珍獣?」

「はい、珍獣です。先日は大変失礼してしまい申し訳ありません。って、珍獣とは失礼な」

「自称してんじゃん、君」

「え? あ、そ、そんなつもりは無かったんですよ。ただ、なんていうか……その」


 女装していないにも関わらず、珍獣呼ばわりされたことを不思議と受け入れられてしまっている自分に戸惑う。

 なんでだろう、蔑称に近いとはいえ渾名なんてものを付けられたのが初めてだからだろうか。

 実は、ぼくのことを気安く呼んでくれる人は少ないから、ちょっと憧れていたのだ……って、ついヴァイオリン子さんのペースに乗せられてしまった。


 彼女の様子を伺う。お互い思いもよらぬ再会に未だ動揺はしているものの、彼女もまたぼくの方が気になっているらしい。


「何しに来たんだよ。まさか女装に飽き足らず、また変なことするつもりか?」

「そ、そんな……期待されても何もでませんよ。結局、あのドレスは自由に没収されちゃいました。なんか妙に似合うから気に入らないとか言われて」

「いや期待とかないから、マジで面倒ごとに巻き込まれてんなら早くどっか行ってくれよ」

「面倒ごととかないですよ、ただの暇潰しですって。えっと、あらためて何してるんです? それ、水彩画のように見えますけど?」


 音楽に限らず芸術全般に疎いぼくだけれど……流石にカンバスの内容で、それくらいは判別可能だった。


「は? ……あ。おい、なに見てんだよ。ほっとけよ」

「いや、だってそこはヴァイオリンじゃないんですか? 以前、ぼくに〝ヴァイオリンを学ぶ生徒〟とか言ってたじゃないですか。才能値は別のようですけど」

「……別に。あれ、嘘だし」


 ぷぃ、とそっぽを向きながら、嘘に嘘を重ねる彼女。


「そんな訳無いでしょう。あれだけ立派なこと言って、全部デマでした、なんてことして一体何になるんですか。ぼくが自由に訊いたらバレるでしょうに」

自由に訊いたら。その言葉を彼女が聞いた途端、露骨なまでに嫌そうな顔をして、

「うっるさいなぁ。学校の課題やってるんだから静かにしてよ……」


 と、ぼくを邪険にし始めた。


(なんだよリン子さん、ずいぶんと釣れないじゃないか。女装していた頃は変態だの珍獣だの騒いでおきながら、普通に制服を着てると、そっけない素振りをするんだね、リン子さんって人は……なんだか寂しいよ、ぼくは)


 なんて思ったので、ぐいぐいと押し気味で会話を進めていくことにした。


「ヴァイオリンは何処にやったんですか。あれが無かったら、貴女はただのリン子さんになってしまいますよ?」

「や、別にリン子以外の何者でもないからな、あたしは」

「そんなの、ぼくは認められませんからね。あの謎ヴァイオリン子さんから楽器を抜いたら、ただの謎リン子さんになってしまう。そして今日、色々謎が解けてしまったら、貴女はただのリン子さんになってしまうじゃないか。そんなの……ぼくの事を珍獣と呼んでいいリン子さんじゃない……!」

「おい聞け珍獣。あたしの名前はヴァイオリン由来じゃない」

「とにかくリン子さん、いや、もしかして貴女ニセモノとかいうオチでは? ならば、本物のリン子さんを何処へやった、謎リン子さん?」

「……君、あらためて珍獣みたいだわ。その変な絡み具合といい、馴れ馴れしさといい」


 完全に呆れた口調と表情で、ぼくを見下す(みくだす)リン子さん。

 物理的には立っているぼくの方が、彼女を見下ろしているのだが。

 まあ仮に彼女が立ってても、ぼくが見下ろしているんだけどね。きっと多分、恐らく、は、そうであって欲しいかなぁ……くそ、遺伝子働けよ! なんで中途半端に顔だけ父親と似て、よりにもよって背丈が母親遺伝なんだ……。


「んなことより、いきなり名前を下呼びされてる方がムカつくんだけど?」

「そうですか。じゃあ、これからは〝リンリン〟って呼びますね?」

「余計に馴れ馴れしくなってんじゃねーか、この珍獣」


 先程から会話の端々に、妙なすれ違いを抱えている気がする。主な原因はぼくだ。

 しかし、本当に彼女の機嫌を損ねている気はまったくしなかったので、この調子のまま会話を続けてゆく。


「いやぁ。何故か貴女が相手だと、自分でも驚くほど口調が軽妙になってしまうんですよ。きっと貴女が気さくで素敵なリンリンだから、かな?」

「だから馴れてんじゃねーよ珍獣、それに私はシャイな方……って言わせんな恥ずかしい」


 ぽっ、と若干頬を朱く染めて、ぼくの方から視線を逸らす彼女。


 ……うむ、意外と彼女は可愛いのかもしれない。

 時折、男性の悪戯心をくすぐってくるタイプの魅力だと思う。


 なんて考えていたのも束の間。彼女はパレットを置き、筆も下ろして力無く呟いた。


「あのな、私の才能値、絵画Aだから。学校、美術科の専攻だし」

「え、じゃあヴァイオリンは」

「才能値はB、だった。要するに、まあ、アレだ。才能計測が始まる数年前まで本気でやってて……その後は、とんだ茶番でしたねって、そんな下らない話」

「――ごめんなさい。軽はずみな態度で、決して許されない失言でした」

「別に、どうでもいい。他の才能が無いって訳じゃなかったし。つか君、ここへ何しに来たんだよ?」


とっさに謝罪したぼくに対し、むしろその申し訳なさそうな態度が面倒だ、という表情で彼女が質問を切り返す。


「読書、しに来たんですけど。そうだ、ちょうどリンリンがいることですし。どうです、少しお話でも?」

「ばーか。そいつは男が女を小洒落た喫茶店にでも連れ込むときにこそ、使うべき言葉だって相場が決まっているだろ珍獣」

「へ? いえいえ、そんなつもり全然無いです。そもそも喫茶店に誘われたのはぼくの方でして。今はただ待合時刻まで暇を潰しに、ここへ来ただけという経緯で――」

「は?」


 なんて、リン子さんにとって関係の無いことをベラベラと話してしまう。

 いやはや、それでも彼女はぼくを拒絶せず相槌をきちんと打ってくれる辺り、やはりリン子さんは気さくでお人好し属性なのだろう。


「手紙を直接もらったんですけど、それを書いたのは手渡した本人ではなく、別の子といいますか……でも便箋からして女子力の高さが窺えましたし、きっと彼女の友達なんだと思ってます」

「はぁ? 君の方が、なに……え、逆? あっ」


 ぽんっ、と手を叩き、彼女が妙に納得した顔で、ぼくに残酷な推理を告げた。


「珍獣。そいつ、たぶん男だぞ」

「――え」


 どうしてそうなる?


「い、いや謎リンリン子さ、えっと……」

「ころころと呼び名変えんな鬱陶しい。もうリン子でいいから」

「は、はい。あの、リン子さん、いくら何でもそれは無いでしょう。喫茶店に誘うってだけで男扱いだなんて」

「あのな珍獣。女ならもっと甘味のあるシチュエーション……例えば自信のある女なんかだと行動は正々堂々、佇まいは慎ましく校門や校庭等、相手の懐を待合場所に設定する。このやり口は他生徒という外堀を埋める野次馬が、非常にターゲットの思考の余地を奪いやすく、告白の成功率上昇が望まれる。あくまで自信がある前提だが」


 と、いきなり高度な恋愛技術の解説をし始めるリン子さん。

 彼女の真剣な恋愛考察に気圧されつつ、ぼくは恋愛経験に乏しい頭脳をフル回転させ、なんとも微妙な反論を呟いた。


「そ、そうかもしれない、けど。その、奥手な女性かも、しれないじゃないですか」

「その場合は、少なくとも待合場所を学校から離れた位置にする。なぜなら前述した利点である〝外堀〟〝思考の余地〟が、女の器量によっては自分の首を絞めることになるだけだから。さらに言えば、君のお相手さんは学外の人間。で、この辺りで時間を潰すあたり、どうせ近場なんだろ、指定された喫茶店は」

「は……はは、は。あ、当たってるよ、リン子さん」


 なんて凄まじい恋愛戦術眼だ。

 何気なくリン子さんと会話していたが、彼女もまた『恋にときめく女の子』の一員である以上、色恋沙汰において『冴えない男子』の部類であるぼくには到底かなわないことが、この場で浮き彫りになっていた。


「そもそも意中の人間を自分が、女がもてなすなんて、男にとって甲斐性無しになることくらい分かるだろ。だから多分、珍獣の相手さんは男子で間違いないかな、と。ていうか手紙の内容が、珍獣に頼みたい用事があるって……絶対、君に対して恋愛感情とは関係のないことのようにしか思えないし。下手をすれば君が本命ですらなく、君の隣人に近づくために君を利用する口かもしれんぞ」


 とうとう、彼女が推理を完結してしまう。

 まともに反論が出来ないぼくは、


「いや待って、ちょっと可笑しいよ? ほ、ほら、ぼくってば青春真っ盛りの年頃な男子だぜ? なのに、だというのに、なぜ男などにお誘いされねばならんのだ……」


 自分で言ってて鳥肌の立つような言葉を並べて、必死に暗澹たる状況を覆そうとした。

 しかし、そんなぼくに対し、まるで嘲笑うかのような物言いで、リン子さんは凄絶極まりない一言を言い放つ。


「すくなくとも、童貞より後ろの処女散らす方が先なタイプじゃね、君?」

「は?」

「一緒に電車乗ってた時のこと忘れてないだろ、君。思いっきり尻を狙われてたじゃん。ドレス着てんのに狙われるとか、君、男にそそられすぎだろ」

「……ひえっ」


 あの日のことを思い出しただけで、身震いが止まらなくなる。


 いや、マジで洒落にならなかった。先日の女装して帰宅したとき、電車で注目を浴びたぼくに卑猥な魔の手が尻へと伸びていたのだ。

 それに気付いたリン子さんが、その勘違いした手を振り払って僕を助けてくれたのだが……痴漢を訴えようにも女装を追及される訳にもいかず、ぼくは恥辱に苛まれたまま帰路に就いたのである。


「あんな感じで、他の野郎も惚れちゃったりとか?」

「そんなまさか……」

「実はあたし、喋らなかったら君は相当な美人にしか見えなくて、変態というのが憚られたから珍獣って呼んでた節もあったりな。で、あんな綺麗なドレスで着飾って外を出歩いてたんだ、もしかしたら何処かの男が君のことを――」

「やめて下さいお願いします違うそうじゃない助けて下さいなんでもしますから」

「なん、でも?」

「あっ。その、やっぱ取り消し――!」


 やめろぉ、そんな目でぼくを視るなリン子さん。

 その瞳は、まるで水を得た魚の如き――


「まあ、なんだ。ほら、ちょっと暇なんだろ? モデル、してくれよ」


 絵師として生の素材を見定める、実利的審美眼であった。


         *

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