第2章『少女たちは空っぽの夢を見る』(1)

 熱気に満たされた舞台、陽光より昂然とした照明の先。

 お辞儀を終えた彼女は、ヴァイオリンを肩に当てながらステージに佇んでいた。

 装飾を極力控えたであろう、慎ましやかな桜色のドレスで着飾っていて、しとやかな可憐さをステージ上で振り撒いている。知人としての贔屓目を差し引いたとしても、ますます美貌に磨きがかかったと感じずにはいられない。

 嵐の前の静けさと言わんばかりの静寂が、会場全体を包み込んでいる。観客席は期待と緊張感で張り詰めたような雰囲気で、雑音のひとつすら許さないような厳格さに身が縮むような錯覚を憶えた。

 ぼくはコンサートの為に着てきた制服のネクタイを締め直しつつ、きょろきょろと落ち着きなく辺りの様子を見渡す。

(うぅ……慣れないな、こういう場所。クラシックなんて全然知らないし、やっぱり来て失敗だったかも)

 なんてことを内心でぼやいた直後。

 いきなり前奏無しで、彼女が弓を弦に走らせた。会場に満ちた静謐を引き裂くかのような三連の重音、キレのある高音の旋律を経て、再び重低音から高音へ戒めるように威圧的な旋律――以前、彼女が話してくれた〝チャール・ダーシュ〟という名の曲だったか?

 結構ポピュラーな楽曲で、自由以外のヴァイオリニストも好んで演目に加えたがるらしい。能力開発研究所の試作TMIで、彼女は才能計測したことをきっかけにヴァイオリンを習い始めた。その習い始めの頃、有名な演奏家が弾いているのをDVDで見た彼女は、この曲を将来の舞台で弾いてみたいと、ぼくに向かって夢のように語っていた。

 そして現在、ついに夢ではなく現実の一部となったのだろう。

(おめでとう、自由)

 心の中で祝いながら、ぼくは彼女とオーケストラの織り成す素晴らしい旋律に浸り続けた。


       *


 高音から、やや低音の絢爛かつ豪胆な重音と共に演奏はフィナーレを迎えた。

 演奏を無事に終えた自由が、ヴァイオリンを身体の前に提げて一礼をする。演奏直後から鳴り止まない盛大な拍手に加えて、何処かからの口笛が響いた。当然、ぼくも拍手する手が止まらなかった。彼女の演奏は心臓に穴を穿つかのように強烈で、音色には凄まじい衝撃が込められているように圧倒されたけど、それ以上に爽快だった。びっくりはしたものの不快感なんてものは微塵も無い。

(これが自由の、才能計測値〝S〟の音色か――!)

 クラシックという古典的な娯楽に、ぼくは世代的な先入観があったのだが、ひさしぶりに自由の演奏を聴くと、そんなものは何処かに吹き飛んでしまった。

 舞台越しにぼくら観客の感動を目にしたのか、彼女の顔が自然と綻んだ。

 それを見て、ぼくは昔馴染みとして誇りに思いながら嬉しくなる。

(本当に立派だなぁ……昔は笑顔が苦手で、ちょっぴり引っ込み思案なところがあったのに。今では堂々としていて、なんだか格好いいよ)

 昔から演奏以外の場では緊張しがちな彼女だったけど、演奏によってそれを克服したのだろうか。今の彼女には、舞台と観客の熱気に応えられるだけの余裕があるのだろう。

 次の演目までの小休止。席に座り、待機に入った彼女は観客の方に視線を泳がせる。

 幸運にも、その視線は数秒と経たず、こちらの方へ辿り着いた。

(あっ、もしかして気付いた? 久しぶり、自由)

 こちらも心の中で、小さな会釈と共に返す。

 しかし、彼女の瞳には誰かを透視しているかのような――違う。それは、ぼくの妄想だ。たとえ事実であったとしても目的は変わらない。

 昨日、ぼくは誓ったはずだ。ここに誰かがいることが大切なんだと。

 だから今は、この場で黙って彼女を迎えていればいい。

(次の演目は、と)

 彼女から目を離し、配布されたパンフレットに視線を移す……あ、休憩か。

 よく見ると、舞台上ではオーケストラの方々が楽器を片付け始めている。

 ――トイレに行っておこう、休憩後は一時間近く席を外せないし。

 座席から立ち上がり、出入り口の方に向かった。


       *


 指定された席はステージからやや遠く、センターブロックの座席だった。

 チケットを渡された当初は、彼女の姿が見え辛いと少々落胆したものの、後で調べたらコンサートというものは最前席よりも、やや後ろの席で聴く方が素晴らしいと判明した。いやまあ、素人の浅知恵なんだけど。

 少々遠く感じたホール出入り口から、すぐ横の受付への扉に向かう。その際に長方形のケースを背負った少女とすれ違った。そして、ぼくの肩と箱が接触し――

「あっ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」

「っ」

 振り向いた彼女に、ぼくは謝罪を口にする。

 いきなりケースが衝撃で後ろに引っ張られ、彼女は転びかけて膝を折っていた。

「――――……」

「あ、えーっと、大丈夫です?」

 真正面から、互いの顔を見つめ続けるぼく達。

 相手は、ぼくと同い年くらいの少女だった。当然、初対面である。

 まあとりあえずは衝突の謝罪と、あと……なんだろうか、そのケースは?

「突然ぶつかってしまって、すみません。それににしても、そのケースってなんですか? 思ったより軽そうなんですけど」

「ヴァイオリンだよ」

「え?」

 ケースを背負いなおして立ち上がった彼女の口から、意外な一言が呟かれた。

 どうやらケースの中にはヴァイオリンが仕舞われているらしい。自由とは全然カタチが違うから気付かなかった。

 いや、でもちょっと待て、おかしくないか? 

 だって今日のコンサートは、自由とオーケストラの方々が演奏するだけで――

「なに?」

「あっ、いや……なんで自由と以外の人が、こんなところで楽器を背負ってるのかなって」

「君、日比野自由の友達か何か? 面倒なことに関わってなければいいけど」

「まあ、そうですけど。って、貴女も自由と友達なんですか?」

「いや、友達とかじゃ……まあいいや。あいつじゃないし、たぶん君は大丈夫だろ」

「え?」

「なんでも。コンサート終わったら自由と関わらずに、さっさと帰れよ。遅くなると危ないから」

「あ、はい」

 その一言を機に、その場から立ち去ることを決意する。

 なんていうか、このまま話を続けていれば彼女とは厄介なことになりそうだった。コンサートが終わってから、すぐに帰ることなんてできないし、どうやら彼女は自由に関して〝危ない何か〟を知っているらしい。しかし見ず知らずの彼女を信用して追及するくらいなら、自由に直接訊いた方がいいだろう。

 ……楽屋で彼女と会ったら、危ないことに巻き込まれていないか訊かないと。

「楽器を……」

「はい?」

 横を通り過ぎようとした時、彼女が呟き始める。

「楽器を持ち歩くのは、ただの習慣。音楽、特にヴァイオリンという携帯可能楽器を学ぶ生徒としての基本姿勢なだけ。まあ教室によって違ったりはするけど。とにかく、楽器を背負っている他の連中も変な目で見るなよ」

「えっと、知らなかったよ。教えてくれてありがとう」

「……さっさと行け。そんでもってコンサート終わったら寄り道せずに帰れ、マジでな」

 とりあえず教えてくれたことに感謝したが……どうなんだ、この場合は。

 納得できるほど、ぼくは音楽方面への理解は深くない、むしろ乏しい。

 よって彼女が呟いた説明が、何を意味したのかが全く不明なままだった。


       *


 それから数時間後の、コンサートが終わってから間もなくの頃。

「ここが楽屋?」

「ええ、そうだけれど……あら、そんなところに立っていないで、こっちのソファに座りなさいな」

「うん、ありがとう自由」

促されたぼくは、彼女が指差したソファに腰を下ろす。彼女もぼくの正面に座った。

 辺りを見渡すと給湯器や茶菓子などが見当たり、庶民意識の強いぼくとしては落ち着く空間だ。さっきまでの会場や楽器といい、見慣れないのもあってか大分ストレスを感じていたようだ。心地いい脱力感に包まれ、ぼくはほっと一息吐いた。

 コンサートの緊張感に解放されたばかりのせいか、ずいぶんと彼女の振る舞いもラフだ。丈の長いドレスを着たままだけれど、すっかりソファに体を沈み込ませながら寛いでいる。

「その恰好で、そういう風にするのは……」

「大丈夫よ、どうせ一回着たきりだし」

「そうなの? 綺麗なのに勿体ないなぁ」

「……海外公演に行く前の頃、このドレスを着て道継に会いに行ったのよ。でも、いつも通り『期待しているよ』の一点張りだったわ。だから意味ないの、いくら綺麗でも」

「あ、えっと……」

「ごめんなさい、すこし愚痴が過ぎたわ。お茶でも用意するわね」

 自由は謝罪を口にしながら立ち上がり、給湯器の置かれているテーブルへと向かう。

 ドレスが大胆に開いた色っぽい背中を眺めながら、ぼくは不在の道継を思い浮かべつつ『ちょっとは彼女のことを気にしてくれない? ぼくの胃が辛いんだけど』なんて、ぶつけようのない不平不満に苛まれた。 

 ……さて。

 コンサートが無事に終わった後、案内状の手順通りに楽屋に向かい、そして彼女と改めて再会した。間近で見る〝本物の〟プロヴァイオリニストの姿に、少しばかり緊張してしまったのも束の間――まるで変わらない彼女の言動に、ぼくはつい昔と変わらない口調で会話し始めていた。

 湯呑み二つと茶菓子の入った小箱を持ってきた彼女は、どこか刺々しい雰囲気を醸し出しながら、ソファ前のテーブルにそれらを置いてゆく。

 昔馴染みとはいえ、機嫌を損ねた彼女が危ういことを察したぼくは、湯呑みに注がれていた緑茶を手にすることができず、先に尋ねることにした。

「ありがと……道継と何かあったの?」

「あればよかったわ。何も無いから、ここには貴方しかいないの」

「ごめんね、ぼくが来ちゃって」

「こちらこそ言い方が不味かったかしら……私としては貴方もいて欲しいの。でも、そうね。誤魔化すのも無理があるかしら。たしかに私は、道継のことで貴方を疎んじている。いいえ、女として嫉妬しているわ」

「その、正直なところ困るんだけど。ぼく男だし、対抗意識を持たれても――」

 とすっ、と。

 ソファに両手を付いた自由が、どこか陰りのある綺麗な顔をぼくに寄せてくる。

 互いの視線が交錯すると、彼女の酷く冷ややかで鋭い目付きに射抜かれてしまい、ぼくはすっかり身を竦めてしまった。

「先日、コンサートに来られないならとディナーに誘ったのよ。でも来てくれなかった。私の失意が分かるかしら? ついでにいえば、その当日に移動中の車窓から〝中華料理屋〟に貴方と入店するのを見てしまった時は、もう――」

(あ、あの野郎……! なにが予定は空いてる、だ。地雷処理を他人様に押し付けんじゃないよ馬鹿!)

「ねぇ、聞いてる?」

「ひっ」

 唐突に迫ってきた恐怖に、ぼくはたまらず悲鳴を上げる。

 やがて彼女はソファの上で膝を付き、両手を伸ばしてくる。ぼくの肩に滑らかで冷たい掌が触れ、嫋やかな指先が首筋を這い回ると、もう蛇に睨まれた蛙のように硬直して動けなくなってしまう。その動きが止まると、頸動脈のあたりに圧迫感を憶えた。

 ――あ、殺される。

「じ、自由……っ!」

「貴方が私たちを〝子ども達〟として見るように、道継は私のことをヴァイオリンの天才としか見ていない。あくまで、将来的に関わり合う可能性のある優秀な人材で、私という人間、女とは、これっぽっちも意識してくれない。でも貴方は――どうして貴方だけ」

「そんなにも、ぼくのことが。ただの友達、なのに……」

「ええ、羨ましくて憎たらしい。だって私は同級生止まりで友達にすらなれないのだから。でも――同時に〝子ども達〟の一人として貴方のことを慕っているの。それこそ道継と同じくらいには、ね?」

 先程までの無表情から一転、彼女はにっこりと微笑んだ。

「かつての私たちに超能力を与えられはしなかったけれど、その代わりに誰よりも大きな才能を齎してくれた。私にとってはヴァイオリンね。能力開発所で貴方と出会わなければ、今の私たちが才能値Aランクを超えた特別な天才〝Sランク〟に至り、たった二、三年で才能を開花させることもなかったでしょう。貴方のことが嫌いな〝子ども達〟なんて、一人もいないから安心して?」

「っ……あ、あはは。急に驚かさないでよ、すごく怖かった。いやほんと死ぬかと」

「そんなにも怖かったの?」

「お恥ずかしながら鬼気迫るものでしたので、つい……って、いひゃいひゃい!」

「……無才能者なんて弱みだけじゃなくて、こういう弱っちさで道継は守ってあげたいとか思うのかしら。ヒロインみたいよ、男の癖に。母親似だか知らないけど背も私と変わらないくらいで華奢だし、顔は――残念ね、あの美作ならぬ美形博士と名高い父親と似てるのに、なぜか童顔っぽいのが個人的には女々しくて大嫌い。すこしは道継を見習って、背丈と筋肉を増やしなさい……って、こら! 暴れないで!」

「むぃむぃ! もうやめふぇ! って、さっき嫌いなのは一人もいなひって言ったのに大嫌いっふぇ!?」

 ほっぺたを強く摘ままれ、ぼくは悲鳴を上げる。

 必死で両手を払いのけて顔の前に手を遣ると、我ながら情けない声で許しを乞うた。

「も、もう堪忍してつかぁさい、容姿はコンプレックスなので追及しないでください……特に、この中途半端な父親似の顔だけは最悪なんです。あと、ぼくはヒロインなんか絶対に嫌です」

「そうね。あまり騒ぐと人が来ちゃうから、このくらいで許してあげる」

 いじめを終えた自由は、ぼくの首元から両腕を引き抜くように戻す。

 拘束を解かれたぼくは、いつの間にか彼女に押し倒されていたことに気付いた。上から覆いかぶさるようにしていた彼女は膝立ちで、脚の間からぼくの身体を引き抜くこと自体は物理的に容易だ。自分と接触しているドレスと布地から伝わる彼女の体温を意識してしまって、ちょっぴり悩ましい気持ちを抑えるのに苦労しただけで。

 ソファの肘置きに腰かけた彼女から距離を取りつつ、ぼくは背もたれに大きく寄りかかりながら座りなおす。制服のシャツを摘まんで揺らしながら、汗をかいた体を冷ました。

(マジで死ぬかと思った……くそっ、道継め。いつか包丁で刺し殺されてしまえ、ぼくを巻き込むんじゃない。ここまで自由が拗れる前になんとかしてよ、まったく)

 心臓がバクバクしたままで、未だに冷や汗が止まらない。

 もう、この時点でコンサートの感動が消え失せてしまった。完全にぼくは身代わり(スケープゴート)にされた訳だ、道継のくそったれめ。

 怒り心頭のぼくはテーブルに置きっぱなしの、忘れかけていた湯呑みを手にして緑茶を啜る……いかんな。精神的に追い詰められまくったせいか熱いのか冷たいのか、さっぱりわからない。舌の感覚が消えたので熱かったのだろうと、「熱い熱い」と言いながら口を開いて舌に息を吹きかけていると、横に座った自由が「それ氷入ってるわよ……?」と本気で心配しながら指摘してきた。

「……道継が貴方を優先するのは、今に始まったことじゃないから。今更、気にしないようにしているの」

「うん、成程」

「しているだけで、気になってはいるの。貴方を見ていると無性に腹が立ってしまうから、つい八つ当たりしちゃう。そこは許して欲しいの。ちゃんと我慢して、さっきも衝動を抑え込んだんだから偉いでしょ? だから協力して、ね?」

「うん、偉いね。もちろん協力するよ……あれ?」

唇に指を添えながら横目で艶っぽい視線を送られ、ついつい了承の返事をしてしまったのだが一杯食わされた気がしてならない。いや、本当に何だろう。さっきから手玉に取られているような感じだ。

 昔の彼女は、こんなんじゃなかったんだけどなぁ……お淑やかというか臆病で、すこしどもりがちな子だった。道継以外の何が彼女を、こんな風にしてしまったのだろうか。

 なんてことを考えながら部屋を見ていると、ふと違和感を憶える。

「あっ――そういえば楽器はどうしたの?」

「残念だけれど私の楽器じゃないの、今日使った〝アマティ〟は。あれはレンタル品で、一応は私が日常的にも使っていいことにはなっているけれど、いつかは返却しなくちゃいけないから……管理が怖くて、ママに預けてあるわ」

「アマティ? レンタル物って、もしかして楽器を借りてるの?」

 ぼくは聞いたことのない固有名詞と、レンタルという意外な言葉が気になった。

「そうね。普段の稽古ではストラドモデル、えっと……本物じゃない、寸法をコピーして作ったものを使っているわ。あんな名器、恐ろしく高くて買うなんて考えられないわ」

 値段を思い出したのか、やや顔を青褪めながら答える自由。自然と声量が尻すぼみになっていくあたり、彼女にとって悪い意味で印象深い経験だったらしい。

 しかし、なんと日本の学生ヴァイオリニスト、その頂点に位置する彼女がまさかの貧乏性だったとは。ちなみに彼女も裏財閥関係の家柄で、割と裕福な家庭のはずなのだが……金銭感覚は家庭環境に依らなかったのか。

「ほんっと高いのよ。丸が七つって何よ? オール電化の新居が買えちゃうじゃない」

「その喩えは庶民的過ぎるでしょ……あのさ、ヴァイオリンのこと好き?」

「藪から棒に何かしら?」

「いや、なんとなく。ただ弾いてるのを見て、どんな感じなのかなって」

「どんな感じって――生きた心地がしなかったわ。なんとか弾き切ったけど」

「え?」

「さっき言ったでしょ? 千万単位の諭吉が肩に乗ってるのよ、これが平静でいられるかしら。なにかの間違いで落としでもしたら大変だから。わたし、楽器は無料でレンタルしているの。学生の身分でありながら、音楽業界に貢献する人とかは〝特別貸与〟の制度を利用できるから」

「へ、へぇ。あ、じゃあ今回の楽器もタダ?」

「当然。じゃなかったら触りたくもないわ」

 どんだけ怖いんだ楽器が。

 しかし実際に触れてみなければ、分からないことなのだろう。ぼくだって、立派な一軒屋と同等の価格でありながら、片手で簡単に持ち上げられる何かを想像したら得も言えぬ恐怖というか……仮に破損でもしたら大変では済まない、なんて恐怖の一端くらいは感じられる。

 というか、今さりげなく自由は〝特別枠〟っていう凄まじい事実が流れたな。

 本来ならば数千万円は下らない楽器なんて、無料で貸与される訳がないだろうし。

「って、そうじゃなくて。ヴァイオリンを弾いてて楽しいのかなって」

「やりがいはあるわ。才能値は努力を裏切らない、ヴァイオリンは〝自己の価値を得る為の手段〟として好きよ。元々、特に音楽が好きという訳ではなかったから、特段楽しいとか面白いとかいった思い入れを問われると、すこし返事に困っちゃうのだけれど」

「……そっか」

どこかズレているような彼女の返事に、ぼくは何も言うことができない。

話題に困って沈黙が続くと、彼女の方から尋ねてきた。

「それで、他に話があるんでしょ?」

「あっ、そうだ。さっき、実は変な人に会ってさ。君と会うな、さっさと帰れってばかり言うんだよ」

「――あら」

 ぱっちりと目を開きながら口元に手を遣る自由。

「そうね。たしかに今、ちょっと困ってるの」

「うん」

「ちょっと付き合ってくれるかしら? ええ、全然大したことじゃないの。ただ丁度いいところに貴方がいるものだから、是非とも助けて欲しいの」

「ぼくにできることなら、まあ何でも」

「ふふ、ありがと――何でも、いいのね?」

 彼女の微笑みかけてきたものの、ニィッと厭らしく唇の端が歪んだのを見て悪寒が走る。

 ……いったい何を考えているんだろうか、彼女は。


       *

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